第4話 和上
(四)
振りかえると、目が藪の向こうの洞穴をとらえた。おれは近寄ってみた。もう少し近寄った。蠢(うごめ)くものがあった。熊か、と思ったが、ではなさそうだった。おれは忍び足で入口に立った。暗くてよく見えなかった。ウーとかグーとかの声が聞こえた。人の声だ。目がなれて中がうっすら見えた。人が寝ていた。
「誰かな」
老人の声がした。おれに問いかけているらしかったが、何と答えてよいか惑った。
「子ども」
それしか返事が浮かばなかった。なんでそんな答えをしたのか分からなかった。子どもだから害はないよとでもいいたかったのだと思う。子どもだって相当のワルがいるのに、自分本位なおれの返事だった。
「どこの坊かの」
「畑つ守(はたつもり)」
おれの返事はまるで幼稚だった。畑つ守は落葉小高木リョウブの古い名で、それが家のまわりにたくさんあったことから、わが家はそう呼ばれていた。
「おー、ツモリの坊か。どした?」
おれは登ってきた訳を要領わるく話した。老人は両樹院の和尚(わじょう)さまだった。両樹院は鑑真和上が教え伝えた律宗の流れをくむことからワジョウさまと呼ぶ。和上さまならおれは知っていた。えらく立派なお坊さまだそうで、京都のほうからも教わりに来るのだと父が話していた。でも何がえらく立派なのか父も誰も知っているふうはなかった。
「このことは――」
と和尚さまはようようの掠れ声でいった。
「誰にも云わんようにな、な」
「はい」
おれはそう返事をして鬼山をおりた。おりながら、いまあったことは本当のことだったのか、自分をうたがった。あれはたしかに両樹院の和上さまだったが、真にそうだったのかと、気持ちがぐらぐら揺れた。ウソだった、幻想だった、そう思いこみたかったのだろう。
山の肌の草が枯れかかっていた。その枯れ草を頭や腰につけてネイティブ・アメリカンのような真似をしてヒョーホーヒョーホーやたらに、そう、もうやたらにはしゃぎながらおりた。自分をはしゃがせないと、さっきのことが、さっき約束したことが、重くのしかかってきて身体がくだけそうだった。
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