第3話 箱庭

               (三)


 田園はおれの気持ちをちょっと楽にさせた。何はともあれ、そのときの気持ちでは、死んでも――登らなくてはならなかった。伊一郎君に絶対に登ると約束したのだから、登らなければ負けになる。そんな意固地がおれをぐるぐる巻きにしていた。

 ガサッとした。ドキッとした。ガサガサッと鳴った。ドキドキッとした。パサバサッという音が立って、きれいな山鳥が飛んでいった。心臓がヌルヌルッとすべり落ちそうだった。そのとき初めて、秋だ、熊だ、熊が出てくるかも知れないと気づいた。マムシも飛びついてくるかも知れなかった。おれは頃合いの枝を拾った。おれの場合、これも大概のことを好転させた。鞍馬天狗のような凄腕に変身できた。

 とはいえ幾許かの不安は残った。それを抑えこむために、おれはひどく焦った登り方をした。それがためにすっころんで膝を打ち、むやみに枝をつかんで棘にさされた。しなっていた枝が弾けて顔を叩き身体を打った。だが痛いとも何とも感じなかった。いまのことばでいえば、焦りが高じてハイな気分になっていたのだろう。

 まもなくしておれは鬼山の天辺に立った。恐いものは出てこなかった。それどころか下界を眺めると自分の住む集落が一枚の絵のように美しかった。

 ――こんなきれいな所に住んでるのか。

 おれはひとしきり感慨にふけった。哲学者は感慨にふける、そんなふうに教わったような気がしたからだ。父がいう古いぼろ家(や)のわが家が見えた。わが家は鉋(かんな)を使った家ではない、手斧(ちょうな)だけで作られたのだ――それが父の自慢らしかった。障子は夏用冬用があった。彼岸が過ぎたからまもなく冬用に替えられるだろう。その慌ただしさを眺めているのが好きだった。

「おめえもちったァ手伝え」

「横着もんの小天辺(こてっぺん)だナー」

 父や母はそういったが、それ以上は強要しなかった。父母もおれがそばでにこやかにしていればいいという心持ちだったのだと思う。

 そのぼろ家は山を背負った所にあって、他を睥睨(へいげい)しているような絵柄に見えた。鬼山の天辺からおーいと呼べば聞こえそうに思われたが、家はちっちゃく見えたからえらく遠かったのだ。

 箱庭のような美しい里を見おろしていると、ふわり、と身体が浮くような気がした。ちょっと爪先を蹴れば鳥のように飛べるような気がした。おれは爪先を蹴った。身体が浮いた。飛んだ。だが長くは飛べなかった。というよりすぐにズデンと落下した。思いきりでんぐりがえしになって、しこたま身体を打った。笑った。おれは大声で笑った。おかしくて仕合わせだった。

 もう勝ち負けを忘れていた。帰ったら伊一郎君の前で誇らし気に勝利宣言をしてやろうなどという思いは消えていた。美しいものを見た――おれはそれでよかった。

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