第2話 田園

 山之辺の道の、畑のあるところをすぎると右手に鬼山がぬうっと立っていた。鬼山は山国にあっては小さな山にすぎなかったが威厳に満ちていた。つまり、ナンダ、そのォ、古代中国春秋時代の、周公旦(しゅうこうたん)の息子伯禽(はくきん)を祖とする魯のくにのようなとでも気取っておこうか。魯は大国がいならぶ中にあって、小粒ながら凜とほまれが高かった。鬼山も小さいながら徳たかく村人にたっとばれた。なぜかって、いつなんどきも、みんなを見守っているから。

 おれはその鬼山に無性に這いつくばりたくなって、唐突、

「これから鬼山に登る」といった。

「これから? 鬼山に登れるわけがない」と伊一郎君が否定した。

「登れるよ」

「絶対だな」

「うん」

「じゃあ登って見せろよ」

「登る」

 二人の話はいつしかこんなふうになっていた。学校帰りで日暮れまでにたっぷりの時間があるわけではなかった。それで、これから一人で鬼山に登れるわけがないと伊一郎君は心配も手伝って否定したのだった。にもかかわらず、おれは無鉄砲に登れるといいはった。

「じゃー伊一郎君」

「途中でも引っかえってこいよ長元坊(ちょうげんぼう)、うちの人が心配するぞ」

 おれの名は長元(ながもと)というのだが、誰かが鳥の長元坊にことよせてそういいはじめてから、みんなそう呼ぶようになった。家の人たちもそう呼ぶのだから、もう仕方なかったし、おれも厭には感じなかった。わが里では上級生と同級生には敬意をこめて君を付け、下級生には呼びつけでよいという往古の習慣が残っていた。他の集落では同級生は呼びつけでよくなったり上級生にはさん付けになったりしたが、わが里では親たちがそういうのは品がよくないといい、昔在(せきざい)の習いがつづけられた。

 おれはズックの肩かけかばんを道の分岐に放り出して鬼山をめざした。急傾斜を登った。勢いにまかせて登りはじめたが、道なき道をかきわけて行くうち不安になった。だいいち、小さな山とはいえ、おれはまだその天辺に行ったことがなかった。そういえばと遅まきながら思い出せば、おとなの人たちからも鬼山の天辺に登ったという話を聞いたことがなかった。きっと登ってはならない山ということになっていたのかも知れなかった。知らないということが怖れになるとつまらないことを想像する。

 ――天辺には本当に鬼が棲んでいるのかも知れない。登りつめた瞬間大きな腕がギュッーと伸びてきて、暗い洞窟へ連れてゆかれるのではないか。

 妄想が膨張しそうになるのを、おれは口笛を吹いて止めた。口笛はベートーヴェンの「田園」、そのいいところだ。こういうときでも気取り屋のおれは、歌謡曲や軍歌なんぞを口にすることはなかった。いいところがどこだかは説明できない。ただ、おれにとっていいところだ。おれの場合はこれで大概のことは好転する。そのメロディーは医学生になっている別のいとこから教わったものだ。おれはべーについても何者だか知らなかった。おれの知ってるべーは弁当かアカンベーくらいだった。

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