B side

 羽のことを嫌っていたわけではなかったのだと気が付いたのは、羽を失ってから少しした、何もかもが手遅れになってからのことだった。

 羽なんてなくても、人間は生きていける。むしろ、羽なんてあるだけ邪魔だ。電車には乗れないし、体育の授業だって見学にさせられることが度々ある。何も知らない人に「コスプレ?」なんて聞かれて殴りたくなった時も、何回か。重たくて肩も凝るし、あんなものがあるせいで背は丸まっていた。それでも、私は羽を嫌っていたわけではなかったのだ。あれがあったからこそ、私はかけがえのないものを手にいれることが出来ていたのだから。

「失ってからしか本当の価値を知ることが出来ない、か」

 秋の言葉を思い出す。全く、彼の言う通りだった。不満は多かったけれど、私は案外あれが気に入っていたのだ。あれがある私自身が好きだったのだ。

 結局、私が私自身である以上、羽を取っても大学に行っても、自己嫌悪は変わらない。環境を変えても、ポーズを変えても、責任を転嫁する先が変わっただけだ。羽がある時は羽に。今は、羽を取る選択をした私自身に。虚しい責任の押し付け合い。だからこそ、私は私自身を変えなければいけないのに、変えることが出来ないままでいる。いつまでも、過去に執着し続けている。

「箕作さん、どうかしたの?」

「んーん、何でも」

 三上さんの声にぼんやりと、当たり障りのない答えで返す。「そう?」という彼女の答えには未だ疑問符が残っていて、紛らわすように「昼、食べに行こっか」と立ち上がる。未だひと気の残る講義室を新しく出来た友人と後にして、私たちは食堂へと向かって行く。

 大学で出来た知人は、私に羽があったことを知らない。わざわざ羽があったことを話す意味もないし、話したくもないからだ。だから、彼女たちは箕作美羽という人間をどこにでもいる、ありふれた大学一年生だと思い込んでいる。そう思われることが、見られることが、扱われることが、ずっと望んでいたことであるはずなのに、違和感はいつまでも拭えない。電車に乗れるようになった。絶えず続いていた好奇の視線は止んだ。それなのに、私の世界から自由は減ってしまったように思えて、嫌になる。また、空が飛びたくなる。空なんて飛んでも、どうにもならないことは私が一番分かっているはずなのに。

「箕作さんってもうそろそろ大学慣れた?」

「まあぼちぼち。でも多分環境に慣れたってよりも全く新しいシステムに対して戸惑うことに慣れたって感じなのかも」

「あー、何となく分かるかも。何となく慣れてきたつもりでも、いざ直面してみると意外と分かんないことって多いよね。構内も高校とは比べ物にならないくらい広いしさ」

「慣れるまでは面倒だけど、多分夏休みに入る頃には慣れるよ。それまでの我慢」

 ふと見上げた空は灰色で覆われている。この梅雨が明けることがないような錯覚を覚える。いつまでも空は曇ったままで、晴れ間が見えることはないのではないだろうか。本当にこの梅雨がずっと明けないのだとして、大学に慣れることは出来てもこの曇り空に慣れることはないのだろうと思う。

 何事も、時間が解決してくれるのだと思っていた。ただ、そうではないのだと今更になって気が付く。痛みに慣れることはあっても、痛いことには変わりがないのだ。私は、相模秋を失ってしまった空白を、抱え続けながら生きていくことしか出来ない。今も、そして明日も、一年後も、死ぬまで。大学に入ったばかりの十八歳に未来を見通す力なんてないけれど、そんな残酷な末路だけは直感出来てしまうような気がした。

「そう言えば、サークルとかってどこに入るか決めた?」

「私はいいかな。多分、入らないと思う。三上さんは?」

「私は軽音系のとこ」

「へえ、音楽好きなんだ」

「好きだよー。高校でも軽音部だったし」

 当たり障りのない会話は友人という関係を継続するために必要不可欠なものだ。ただ、本当にこれで良いのだろうかと思ってしまう。羽が生えていた頃の私だって、有意義な会話をしていたわけではなかった。けれど、あの時の私は自分を取り繕っただけの会話をすることはなかった。あの頃の私の言葉には、少なからずどこかには本物の私が居た。

 私の自殺は、何だったんだろうか。自分すらも見失って、本当に欲しかったものは零れ落ちて。残ったものは、何なのだろうか。

 私は、秋に振り向いて欲しかっただけなのだ。彼の隣に居る資格が欲しかっただけなのだ。それなのに、何を間違えたのだろうか。羽が生えていたことが。私の存在自体が、間違いだったのだろうか。

 歩きながらスマートフォンを開く。メッセージの通知が来ていて心臓が跳ねるけれど、案の定それは期待をしていた誰かからのものではなくて、憂鬱とともに画面を閉じる。別に、昔だって頻繁に連絡を取っていたわけではない。今のような距離感は、意識的に空けられたものではなくて物理的な距離が離れたせいで出来た、当たり前のものなのかもしれない。ただ、原因は最早どうでも良かった。このまま離れ続けていくことが怖くて、でも醜い自意識が邪魔をして縋ることすらも出来ない。縋ってしまえば、更に見放されてしまうような気がして。私たちの間に出来た空白を、決定的なものとしてしまうような気がして。


      *


 いつから相模秋のことが好きになったのかは、よく覚えていない。ただ、自覚をしたその時から、それは私にはどうしようもない衝動になっていた。

 それでも好きだと言うことが出来なかったのは、私にはそれを言う資格がないと思っていたからだった。彼は羽の生えた私に付き合い続けてくれている。わざわざ電車ではなく自転車で通学をして、いじめを受けた時も傍に居続けてくれた。ただ、それは彼の優しさに甘え続けていたのだと思っていた。例え今は良くても、こんな関係は長く続かない。彼に支えて貰ってばかりの、歪で一方的な関係は不安定で、いつかは崩れてしまう。だから、私は普通になりたかった。当たり前の彼の傍に居ることが出来るように。

 でも、それは言い訳に過ぎなかったのかもしれない。私の普通になりたいという願望を正当化するために、恋という感情を利用しただけだったのかもしれない。結果として、私は羽とともに恋を失ってしまったのだから。彼が本当に求めていたものを、私は何も分かっていなかったのだろう。

 高校を卒業する間際、既に秋との関係が離れつつあることを自覚していた時。同じクラスだった男子から告白をされた。多分、彼からすればそのタイミングに大きな意味はなかったのだろう。卒業をする前だから、離れ離れになる前にという程度だったのかもしれない。それでも私はそこに不必要な意味を見出してしまって、思わず聞いた。「どうして君は、私に羽がある時は告白をしなかったの?」と。彼は困ったような顔をした後で「羽がある時の箕作さんは、何だか遠い存在のような気がしたから」と言った。結局、私はその告白を断った。

 その言葉は、私がずっと求めていたもののはずだ。羽の存在はやはり、他人との間に壁を作る。私を、箕作美羽という人間を普通から引き離す。だからこそ、羽がなくなり、普通になった私は告白をされるような、特別ではない人間になった。それなのに、何故だか嬉しくなれない。

 私にとってやはり、羽は私自身と切り離すことが出来ない一部だったのだ。だから、羽がなくなってから告白をしてきたような人を、羽がない私しか知らない人を、私は心の底から受け入れることが出来ない。だって彼らが見ているのは、私ではない私なのだから。本当の私は、羽があってこそ成立するものなのだから。

 羽を失って、私は地に足を着けた。他の人たちと同じような世界を見て、他の人たちと同じような世界に住むことが出来るようになった。でもそれはつまり、失墜をしてしまったのだ。今まで同じ視界で世界を見てくれていた人とは、彼とは、同じ世界を見ることが出来なくなってしまったのだ。

 彼のために世界を失うことがあっても、世界のために彼を失いたくなんてなかった。それなのに彼ではなく世界を取ったのは、世界と戦い続けることに疲れてしまったからだった。そこに、選択はなかった。私は意志なんていう大層なものに従ったわけではない。疲れ果てた夜にベッドへと倒れ込むように、砂漠の旅人が水を喰らうように飲むように。私は、楽になりたかったのだ。

 今の私には友人が居る。世界は、社会は、私を受け入れてくれる。それなのに、感じる孤独を誤魔化すことは出来なかった。誰も居ない。私を知る人も、私を受け入れてくれる人も、どこにも。

 羽を失った時、私は死んだのだ。それは単なる修辞法でしかないようにも思えるけれど、本物の死と同じように、それは不可逆的で覆すことが出来ない。お伽噺でもないのだ、死人が甦ることは、ない。

 時間が経つにつれて、羽があった時の感覚が身体から離れていくことを実感する。羽のない生活に慣れて、羽のあった頃の不便さと、それに同居していた愉しさは記号的な思い出へと変わっていく。

 どうやって空を飛んでいたのかも、もう分からなくなっている。空を飛んでも、何にもならない。その考えは昔も今も変わらないけれど、何もならないことにも意味があるのだと知るのはあまりにも遅すぎた。

 やがて羽が生えていたことも、空から景色も、秋のことも。「思い出」なんていう陳腐なものへと退色していくのだろうか。私はいつか、それを見つめ直して何を思うことになるのだろうか。いつまでも過去に囚われ続けることは最悪で、けれどあれほど大切にしていた時間を「そんなこともあったね」なんて笑ってしまうようになることはもっと最悪で、救いようがない。

 羽が生えたままでも良かった。どれほど苦しくても、それを一緒に苦しんでくれる人がいるのならばそれ以上の幸せはなかったのに。そんなことを思えるのは、全てが終わってからだからなのかもしれない。羽があった時のあの苦しみもまた確かなもので、それをなかったことにすることはかつての私への冒涜なのだから。

 羽なんてなければ良かったのにと思っても、羽が私に与えてくれた物は多くて、上手く恨むことも出来ない。結局、私が悪いのだ。羽が生えていても、きっともっと上手く生きている人はいっぱいいる。翼人症は特別な病気だけれども、私以外に誰も罹っていないような病気ではないのだから。

 私は私を改善するよりほかにない。ただ、羽との、世界との戦争を続けた私にそんな体力が残っているはずもなくて、そもそも解決の方法すらも分からなくて、憂鬱の中に蹲ることしか出来ない。


      *


「ねえ、美羽。翼人団体の人から取材の依頼が来てるんだけど、受ける?」

 母のその言葉に、思わず「は?」と間の抜けた返答をしてしまう。私に取材が来るという状況も、その依頼主が翼人団体の人であるということも、想定をしていなかったし理解が出来なかったからだった。

「私、もう翼人じゃないけど」

「そんなこと分かってるわよ。でも、だからこそでしょ。羽を取る手術をした人って日本だとまだ少ない方だし、今のところの日本での最年少はあなただし」

 羽を取り除く手術が日本へと渡って来てからは、まだ数年しか経っていない。それに、翼人症を患った全ての人が手術を受けているわけでもない。私は国内においては希少な翼人症の中でも更に希少な、羽を失った人間だった。

 数か月前の私には、どうして手術を受けない人がいるのかが理解出来なかった。勿論、金銭的な問題はある。羽を取り除く手術は、高校生の私でもぎょっとするくらい高い費用がかかるのだ。けれど、国の援助もあって実際に払う金額は安いとまでは言わないけれど、不可能な値段というわけではない。少なくとも、金銭的な問題だけが手術を受けない理由ではないのだろう。その理由が、私には分からなかった。

 しかし今となれば分かる。いや、羽を取る前から分かっていたはずだ、どれほど嫌っていても、厭うていても、あれが紛れもない私自身だったことは。けれど私が思っていたよりも、感じていたよりもずっとそのことを知っているから、彼らは羽を取らなかったのだ。選択をして。彼ら自身の意志で。そう思うと疲れ果て、ただ流されるままに羽を取った自分が尚更嫌になる。

 本当は断ってしまいたかった。何を言っても、惨めな姿を晒すことになるということだけは分かっていたから。けれど、羽を失ったことで露わになった本当の私を、私は未だに隠し続けている。強い私のふりを続けている。例え、母親の前だったとしても。だから、今回もかつての強い私がしていたであろう返答をするしかない。

「オーケー。受けるよ」

「はいはい。じゃあ、美羽のところにメール転送しておくからね。私を介してよりも直接連絡とった方が楽でしょ」

「分かった」と頷きながら、何を話せばいいのだろうかと考える。別に、何かを求められているわけではないなんてことは分かってる。私はただたまたま羽が生えていて、それを取っただけの女の子で、他人を感動させるような答えを出せるわけではない。勿論、向こうの人だってそれを理解していて、彼らが求めているのは箕作美羽という個人ではなく「翼人症を手術によって治療した少女」という記号なのだろう。だからきっと、私が答えるまでもなく彼らの中には「こう答えて欲しい」という願望が既に存在している。それに沿って、答えればいいだけだ。

 けれど、本当にそれでいいのだろうか。私自身のものではなく、ありふれた、求められているだけの答えをすることに価値なんてあるのだろうか。そんなものは、ただの空虚だ。意味がない。そう思いながらも、本当のことを答えたとしても何になるんだろうかと思う。それに、そもそも私は私の本当の気持ちを理解しているのだろうか。私は、羽を失ったことをどう捉えればいいのだろうか。

 夕飯を食べ終えてメールボックスを開くと、母から既にメールが転送されていた。「お引き受けします」というような文章をインターネットに転がっている定型文を元にしながら打ち込んで、送信する。

 日本翼人団体は翼人症の患者を支援する目的で建てられた団体らしい。らしい、というのは興味がなく、私自身がコンタクトを取ったことは殆どなかったからだ。今の日本において、翼人症を発症している日本人の最年少は私だった。ゆえに翼人症患者の中でも特別視をされていたようで何度かコンタクトを取ろうとはしてきていたみたいだけれども、私は頑なに断っていた。面倒臭かったし、他人と話をしたところで今向き合っている苦悩が解決するはずなんてないのだから。傷の舐めあいなんて、真っ平だ。

 それでも一度だけ、母に頼まれて自助グループに出席したことがあった。その場に集まった七人は当然すべからく私よりも年上で、そしてその殆どの人が私に対して生温かい同情の目を向けていた。その時点で私は心底うんざりしてしまって、適当な理由をつけて途中で立ち上がったことを覚えている。

 私は、私が彼らと同じ仲間のように見られることに耐えられなかった。自らが異端者であることに慣れて、それをあまつさえ特権のようにも使って。自分は、そんな人間ではないのだと思い込みたかった。

 今になれば、軽蔑すらしていたその態度が弱さではなかったのだと分かる。私が生活をしている今よりも翼人症への理解が乏しく、風当たりも強かった時代の中を耐え抜いて、そしてああして笑って、他人のことを気遣えるのは、彼らの強さがゆえのことだ。それは、私にはなかった、出来なかったことだった。無知ゆえの軽蔑は醜悪なもので、嫌になる。

 今も彼らは、羽を抱えたまま生きているのだろうか。それとも、私と同じようにそれを取る決断をしたのだろうか。分からないけれど、少なくともその決断は私よりずっと悩んで、そして導き出したものなのだろう。

 卑屈になり過ぎているのかもしれない。その原因は、羽を失ってしまったからか、秋を失ってしまったからか、どちらなのだろうか。いずれにしても、変わりはないのか。この身体のそこに蟠ったどうしようもない憂鬱があることだけは確かなのだから。

 何かをしなければならないという焦燥だけを抱えたままベッドの上に寝転がる。真っ白な天井がやけに窮屈に思えて、目を瞑る。けれど、何も変わらないのだ。目を瞑っても、世界は確かにそこにあるままなのだから。

 お風呂にでも入ろうかと立ち上がると、点けっぱなしだったパソコンの画面にメールの通知が来ていることに気が付く。翼人団体からのもので、取材の日程についての確認だった。今のご時世、文面だけやオンラインでの取材でも事足りるだろうに。若干の面倒くささを感じながら、そして今の私が翼人団体の施設へと赴くことに憂鬱を覚えながら、今更引き下がることも出来ずに了承の旨を適当に書いて送信する。


      *


 一緒に行こうかという母の申し出を断って、私は独りで電車に揺られながら取材を受ける施設へと向かう。改まった機会ということもあって服装にそれなりに気を遣いながら、どうしてこんなことをしなければならないのだろうと溜息を吐く。秋と学校の外で会うことは殆どなかった。好きな相手のために服を選んだこともないのに、よく知りもしない人たちのために身なりを整えることが、何だか馬鹿らしく思えてしまった。でも惨めな姿を晒すことはもっと嫌で、最低限度の努力をした結果ベージュのカーディガンに白いシャツ、ジーンズという面白みのない恰好になった。ただ、もしも秋とどこかに行く機会があったとして、服のチョイスはあまり変わらなかったのかもしれない。変に力んでいることも彼には見透かされてしまいそうで、無難な服を選んでいくことになったような気がする。

 そこまで考えて、小さく舌打ちをする。どうすることも出来ない仮定の話をして、一体何になると言うのだろうか。それでも、思考を止めることは出来ない。私はいたるところに彼の残滓を見出そうとしてしまう。それはもう、ある種の呪いだった。

 目的の駅へと着いて、電車を降りる。改札を通り抜けて、スマートフォンに表示した地図を見ながら歩き始める。自助グループの時も同じ場所へと向かったはずだけれども、正直どういう道を通ったのか全く覚えていなかった。それくらい、私はあの自助グループにさっぱり興味がなかったのだろう。

 何度か道に迷いかけたけれど何とかその施設へと赴き、受付で名前を告げると少ししてから若い女性が出てきて「初めまして」と挨拶をされる。彼女には羽は生えていない。

「橘優香って言います。今日は箕作さんの取材を担当させて貰いますね。よろしくお願いします」

 そう言って差し出された名刺には「翼人団体広報」という肩書が記されていたけれど、それも何だかおかしなことのように思えてしまう。病気というのは個人的な苦痛なのに、どうしてそれを広く報せる立場が必要なのだろうか。この人は、羽が生えてすらいないというのに。勿論、病気の周知は社会からの認知と許容を求めるために必要なものだということは、分かっているのだけれども。

「箕作美羽です。よろしくお願いします」と会釈をする。橘さんは私の憂慮なんて全く気付いていないようで人当たりの良い笑顔を向けてから「こちらです」と案内を始める。

 施設の中は白を基調とした、気味が悪いほど綺麗な場所だった。翼人症という奇妙な症状はその見た目の美しさも相まってか迫害よりも憐れみを向けられることが多く、団体の資金は比較的潤沢に存在しているらしいという話を聞いたことがある。こんな仕事も少なそうな場所に受付を置けるのも、建物の中が綺麗に整えられているのも、そのせいなのかもしれない。

「ではこちらへ」と言って女性は私をひとつの部屋に通した。応接室という単語をそのまま現実に持ってきたようなその部屋には話をするために誂えられたソファーとテーブルが存在していた。いかにも作られたようなその空間に気が滅入る。この場所に相応しい、尤もらしい回答なんて私には出来ないし、そうしたものが期待されているのだろうと考えるとこの場所に来たことが改めて間違いだったように思えて来た。促されるままソファーに座ると、橘さんははす向かいのソファーに座る。

「そんなに固くならなくていいので、気楽に答えてくださいね」と言われるが、私は元から固くなんてなっていなかった。私に出来ることはただ話をすることだけなのだから、それをするよりほかにない。緊張をしたって、仕方がない。

「録音だけさせて貰いますね」と言って彼女はスマートフォンを開き、録音のボタンを押してそれをテーブルの上に置く。これから始まるのはただの取材というよりも尋問に似たものなのかもしれない。

「それじゃあまず初めに。箕作さんが手術について知ったタイミングはいつのことでしたか?」

「何となく、羽を取る手術が存在してるってことはかなり前から知っていたんですけど、具体的にどういうもので、どれくらい費用がかかるのかを知ったのは三年前――高校生になったばかりの頃だったと思います」

「では日本に入ってから少し経ったタイミングということですね」

「はい」

 そうして静かに立ち上がった取材は、対話というよりもただ事実確認をするためだけの作業のようだった。極めて退屈な応酬の中に見出したのは、彼らが求めているものはどちらかといえば手術に対するポジティブなイメージなのだろうということだった。考えてみれば、わざわざ話を聞いておいてネガティブなことばかりを求めているはずもないのだろうけれど、喪失感ばかりがある私にそれを答えることは難しかった。嬉しいとか開放感があるとかいうような、心にもない嘘を吐くことは出来ず、電車に乗れるようになったとか、周囲の目が気にならなくなったとか、当たり障りのない実際的な事実を並べて何とか質問を凌いだ。

 私ではない誰かが作り上げられていく。きっと後日纏められる記事の中では羽を失ったことを素直に喜ぶ少女が居るのだろう。そうした惨めな姿を晒すことが、そしてそれがもしかしたら秋に見られるかもしれないということが、嫌で堪らなかった。やっぱり無理ですとでも言って、何もかも放り出して逃げてしまいたかった。けれどそんなことが出来るはずもなくて、私は退屈な質問に対して尤もらしい答えを返す。空虚ばかりで、記事が埋まっていく。

「最後にひとつ。羽を取って、良かったと思いますか?」

 勿論、求められている答えは「はい」だろう。というよりも、これまでの回答からしてみればここで「いいえ」と答えることは有り得ない。そう答えることは、記事の上での箕作美羽から破綻している。ただ、素直に「はい」と答えてしまえば、本当の気持ちを殺してしまうような気がして少し答えに詰まる。橘さんは急かすような様子もなく静かに見守ってくれているけれど、それが尚更焦燥を駆り立てた。

「……それは多分、これから分かるようになるんだと思いますし、分かったとしても良い、悪いと二元論で語ることが出来るような問題でもないような気がします。良い面もあるけど、今までの、羽があった時の私から変わってしまったところも確かにあって、それが必ずしも良いものとは限らない。ただ確かなことは、私はこれからずっと、その問題と向き合い続けることになるということだと思います」

 一度手に入れてしまえば、なかったことには出来ない。羽があった時の苦悩とはまた違う種類の苦悩を携えながら、私は生き続けなければならないのだ。

 今までの空虚な答えとは違ったからか、それとも単に今までとは傾向の違う答えをしたからか、橘さんは意外そうな顔をした後で「なるほど」と静かに頷いた。

「それも、そうですね。すいません、浅い質問でした」

「いえ、大丈夫です。ただ、単純な問題ではないということが分かればそれで十分だと思うので」

 人当たりのよい、さも考えがあるような言い方をしたけれど、例えこのインタビューを読んで手術の決断に慎重になる人がいようが、私にはどうでも良かった。どれほど他人を救ったところで、私自身は何も救われやしないのだから。

「今回の取材はこれで終わりです。ありがとうございました」

「はい」

 ようやく取材が終わったという事実に虚脱感を覚える。ただ話をしただけなのに、いやに疲れてしまった。こんな取材なんて受けなければ良かったと、改めて思う。流れに流されて、人当たりの良い選択をする。昔の私ならそんなことはしなかっただろう。勿論、そうした気質が羽の有無とは関係がないことは分かっていながらも、もしもあれが羽の与えてくれた強さだったのであればと思うと、失ってしまったものへの憧憬は膨らんでどうしようもなかった。

 橘さんの言葉を待つよりも先に席を立ち上がると、彼女もそれに倣って立ち上がる。堅苦しい応接室を出て、白を基調とした無菌室のように清潔な廊下を再び歩く。

「少し、この施設でも見て回りますか?」

「いや、大丈夫です」

 こんなところに長く居ても仕方がない。今はただ、早く眠りたかった。眠気があるわけではない。目を瞑っても現実はそこに在り続けるままだけれども、意識を遮断さえしてしまえば少しの間だけその現実から逃れることが出来るから。

 廊下を歩き続けていると、向かいから羽の生えた、猫背気味の男が歩いて来る姿が見えた。思わず「あ」という声を漏らす。その人の顔に、見覚えがあったからだった。男は私の声に怪訝そうな顔をして足を止めると私の顔を覗き込むように確認する。

「ああ、来てらっしゃったんですね、行島先生」

 橘さんがそう声をかけると男は苦い顔をして渋々といったように口を開く。

「こんなとこ、来たくもなかったがな」

「そう言わないでくださいよ」

 男のそうした不満に慣れているのか、純粋で混じりっ気のない悪態に対してさして気にする様子もなく橘さんは返す。その態度とは相反するように、この人は何度もこの場所を訪れているのかもしれない。

「箕作さん。こちら、行島コウ先生です。小説家をしていて、ネットやテレビなんかにもたまに出てるんですよ」

「だから、その話はやめてくれ。僕は小説家としてこの場所に来てるわけじゃないんだ。それに、小説家として扱われることがそもそも好きでもない。作品を見る際に作家がどういう人間かなんて、どうでもいいことじゃないか」

 つくづく嫌そうな声で、行島コウは言う。それもそうだ。彼は翼人症の作家として注目を浴びた。そうした扱いばかりをされていた。作品と作家を並べて語られることに嫌気がさすのも、理解が出来る。

 ただ、私が行島コウの顔に見覚えがあったのは、小説家としての顔ではなかった。数年前、一度だけ参加した自助グループの中で唯一私に対して同情的な態度を示さず、質問をしなかったことが、何よりも印象的だったのだ。

「あんたは――昔一回だけ会ったことがあるな」

「よく、覚えてましたね」

「僕以外だと珍しかったからな、ここに訪れて尚この空気に馴染まない奴ってのは。しかしそうか。羽を取ったのか」

 行島コウの言葉に非難をするような温度はなかった。それでも、羽を取った選択に対して後ろめたさを感じている私にとってその声はギロチンのような冷たい鋭さがあるように思えてしまう。

「……羽を取る選択をしたことを、悪いことだと思いますか」

 言い切った後で、子供っぽい質問だったと後悔する。ただ行島は嘲笑をするわけでも憐れむわけでもなく「そうだな」と呟く。

「それは善悪みたいな一般論で語れる問題じゃないだろ。こんなものがあることを疎んでる奴も居れば、幸運だったと喜んでる奴も居る。良いも悪いも主観的な価値観に過ぎない以上、僕が断じれる話じゃない」

「そんなことは分かってます。でも、私が聞きたいのは一般論じゃなくてあなたの意見です。正しくなくてもいいから、あなたの意見が聞きたいんです」

 彼は私の質問を受けて小説家らしい沈黙を挟んだ後で口を開く。

「何かを善悪で語る、ということは好きじゃない。さっきも言った通り、善悪なんてのは主観に過ぎず、つまり立ち位置に過ぎないからだ。ただ善悪ではなく、僕の意見を言うなら羽を取ることは嫌いだ。羽に対して屈したみたいに見えるからな」

「ちょっと、行島先生」

「いや、いいんです。これで」

 行島コウの言葉は、羽を取った私に対して冷酷なものなのかもしれない。ただ、今の私にはそうした冷たさが欲しかった。率直な、憐れみや同情の込められていない感想が欲しかった。口惜しいけど、彼の言葉は私が考えたことのあるそのままで、その通りだと認めるしかない。私は屈したのだ。羽に対して。負けてしまったのだ。どうしようもなく。

「それで? あんたはどう思ってるんだ? 実際に羽を取ってみて」

 先の取材で最後にされたものと同じ質問。けれど、私が答えたいと思う答えは変わっていた。

「最悪」

 橘さんがぎょっとしたような目で私の方を見る。対照的に行島コウの目には爛々とした、クリスマスの朝リビングへと降りて来た子供のような目をして、にやりと口角を上げてから、何かを口にしようとした橘さんを遮って話を続ける。

「それはどうしてだ?」

「友達を、失ったの。羽がなくなって、それから距離が出来た。多分、彼は私の羽のことが好きだったんだと思う」

 好きな人、と言わなかったのは最後のプライドだった。私のプライドなんてちっぽけで、大した価値もないかもしれないけれど、それでも最後に残ったものくらいは守らなければ私自身がばらばらになってしまうような気がして、隠し通す。

「ふうん、そりゃ可哀想に」

 その言葉には額面通りの憐れみはなかった。「へえ」とか「なるほど」みたいなただの相槌に過ぎないのだろう。

「しかし、当然のことだな。フランツ・カフカじみた不条理ってわけじゃあない」

「当然って、そんなわけないでしょう。羽がなくなっただけで友達じゃなくなるなんて、それは単にその人が箕作さんのことを大切に想ってなかっただけじゃないですか」

 橘さんは私を庇うように言うけれど、全く見当違いで話にならない。行島コウは呆れたように溜息を吐いて、味のしなくなったガムを吐き捨てるように言う。

「当然に決まってるだろが。この世の中、見た目より中身だなんてキレイゴトがまかり通っちゃいるが、見た目もその人間を構成する重要な要素だ。例えば――ああ、クソ。自分で認めるのも業腹だが、僕の小説が売れてるのは僕が翼人症の物珍しい人間であるからってのはあんただって分かってんだろ。羽にはそこに内包された複雑なコンテキストまでついて回るようになるんだよ。それがあるかないかってのは見た目が変わっただけなんて単純な問題じゃあない」

 行島コウは、私だけが孤独に抱え続けていたと思っていた問題をつらつらと、さも当たり前のことのように述べる。確かに、彼の小説が評価されているのは「翼人症の作家」という背景もあってのことかもしれない。でも、それだけが理由じゃないんだろうと思う。誰にも理解されないと思っているような痛みを形にして、孤独なる者に寄り添うのが小説家の本懐なのだろうから。彼は今、それを容易く行って見せた。

「髪色を変える、なんて小規模な話じゃない。羽を取る、なんて大規模な変容はその人間を大きく作り変えることになる。そうなれば、全く新しい人間とまた友達になるってのと殆ど同じだ。反りが合わなくてばらばらになるなんてのは微塵も珍しいことじゃない」

「それは、そうかもしれませんけど……」

 橘さんは否定をしようとしているが、それ以上は続かない。経験は、暴力的だ。経験をしたことのない者をその話からシャットアウトしてしまう。羽の生えていない彼女は、それ以上翼人症について深く言える権利を持ち合わせていなかった。

「そんで、あんたは諦めたのか。その友達と付き合うことを」

「だって、仕方のないことじゃないですか。私にはもう、羽がないんです。取り戻すことの出来ないものなんです。元には戻れないんですよ」

「そうだな。羽をもっかいくっつけるなんてことは出来ない。あんたはもう重荷を背負う必要がない代わりに、空を飛ぶことが出来なくなった。好奇の目を向けられなくなった代わりに、天使だと持て囃されることもなくなった。多分、あんたとその友達の関係ってのは一回完全にぶっ壊れちまったんだろう。床に落とした硝子みたいに」

 床に落とした硝子という表現は陳腐にも思えたけれど、これ以上ないほどしっくりくるような気がした。元から、私たちの関係は美しい代わりに硝子程度の耐久性しかなかったのだ。落としてしまえば、少し力を入れてしまえば、簡単に砕け散ってしまうような関係だったのだ。そして砕け散った残骸を必死に抱きかかえようとすれば、気付かぬうちに傷が出来てしまう。痛みは、血が流れたところでようやく指を伝う。

「でも、仕方がないなんて諦めることでもないだろ」

「何、言ってるんですか。砕けた硝子だって例えたのはあなたでしょう。床に散らばった硝子だった残骸に精々出来ることは、ちりとりで集めてゴミ箱に捨てることくらいです」

「それが一番安全で簡単なことは否まないさ。でも、集めて繋ぎ直すことだって出来るだろ。確かに、そうして無理やり継いで接いだものは元の形とは似ても似つかないだろう。部品は幾つも欠けていて、それらはもう永遠に見つからないものかもしれない。破片で指を切りながら、痛みに耐えて出来上がったものが気に食わないってオチもある。ただ――元通りじゃなくても案外気に入るってことだってあるんじゃないのか」

 そんな簡単な話じゃないのだと言いたくなる。けれど、その簡単な話を、私は考えたことがあったのだろうか。私は痛みを恐れて砕けてしまった硝子を拾おうとも片付けようともせず、ただ茫然と見つめていることしかしていなかったのではないのだろうか。

 私と今までの私は一度完全に途絶えてしまっていて、その間に連続性はない。それならば、新しい私を認めて貰うしかないのだ。私たちの関係は一度終わった。けれど、だからこそもう一度始めることも出来る。勿論、すぐに再び終わってしまうかもしれない。そうして訪れる二度目の喪失は耐え難いほど深く、痛い傷を私に残すことになるだろう。ただ、それもまた私にとって必要なものなのだ。痛みなく何かを得られるのであればそれが最善だけれども、人生においてそのような都合のいいことは殆ど起こり得ない。だから、私たちはせめて自分で請け負う痛みを選ぶことしか出来ないのだ。

 私は今度こそ、私自身の選択で痛みを選びたい。受け入れたい。逃避のためではなく、例えどんな結末を迎えたとしても、選択さえすればせめて納得をすることが出来るから。そうしなければ、私は前へと進めない。

「いいこと言うんですね。流石小説家です」

「小説家だから、ってよりも単なる自己満足だよ。僕が僕自身にしてやれなかったことを、偉そうに語ってるだけだ」

「そんな卑屈にならないでください。どんな動機であっても、私が助けられたことは確かなんですから」

「そうかい、なら良かったよ」

 行島コウはぶっきらぼうに言う。ただしそれは恥じらいの韜晦ではなく、本当に興味がないのだろう。この人は、そういう人だ。

「じゃあすいません、失礼します」

 それだけ言って、私は小走りで行きに来た順路を遡っていく。道筋はそれほど複雑でもなくて、橘さんの案内がなくても抜け出すことは出来る。

 自動ドアを潜り抜けたところでスマートフォンを取り出して、秋へと電話をかける。話をしてしまえば、私たちの間にある断絶が確かなものなのだという現実を突き付けられてしまいそうで、ずっと躊躇を続けていた。ただ、私たちの間に断絶が出来たことは事実で、否定をしたとしても仕方がないのだ。それでも、私はその断絶を跳び越すために踏み出さなければならない。

 数回のコール音の後でぷつりとそれが途切れて『はい』という怪訝そうな声が返って来る。なんだかひどく久しぶりに聴いたような気がするその声は、耳から通って私の細胞を震わせていることが分かる。

「美羽だけど」

『ああ、うん。どうしたんだ?』

 言葉が上手く出てこない。何を言えばいいのか、どれが私の感情なのかがよく分からなくなっている。ただ、衝動的に電話をかけたことに後悔はなかった。

「あのさ、これから会えない?」

 声を聴くと欲が出るもので、顔も見たくなってしまう。こんな衝動は一時的な熱病のようなもので、無計画な行動は一時間も経てば後悔をすることになるのかもしれないけれど、構わなかった。今はただ、その熱が心地よいのだから。

『これから?』

「うん、急だけど」

『どうして?』

「会って話したいなって」

 理由らしい理由にはなっていなかった。画面の向こうからは暫く沈黙だけが反響をした後で「分かったよ」とどこか呆れたような答えが返って来た。

『会おう。場所はどうする?』

「んー、どうしよう。いつもの改札前でいい?」

『オーケー。三十分くらいで着くと思う』

「はい、了解。じゃあ、後でね」

『ああ、また後で』

 秋の別れを聞いてから、私は電話を切る。思っていたよりも簡単にことは済んだ。あるいは、表面上はそう見えるだけで彼からすれば溜息を吐きたくなるような頼みだったかもしれない。ただ、そんなこと知るか。私も傷付くのだから、秋も相応に傷付いてしまえばいい。それでおあいこだと考えるのは、少し都合が良すぎるだろうか。

 駅まで走る。ここから私たちがいつも待ち合わせる駅までは丁度三十分ほどで、私も私でぎりぎりだったのだ。頬を切る風が、いつの間にか梅雨の重たいものから乾き、熱を持ったものに変わっていることに気が付く。もうすぐ、夏が始まる。私にとって初めての、羽のない夏が。梅雨を掻き消すようにして地上に差し込んできた光はとても綺麗で、そして眩しかった。

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天使だった。 しがない @Johnsmithee

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