天使だった。
しがない
A side
斜陽の差し込む放課後の廊下。嬉しそうに笑う彼女の表情が、よく見えない。言葉は聞こえるけれど、それが意味として脳に入ってこない。事実として、羽を取るような手術があることは知っていた。けれど、それは相対性理論や温暖化による海面上昇のように、現実にありながら僕の小規模な世界とは接点を持たないような遠い出来事のように捉えていて、現実的な問題として僕の目の前に立ちはだかることになるとは思わなかったのだ。
「ねえ、
「……ああ、聞いてる。羽を取るんだろ、手術で」
美羽の声は、跳ねるような明るいものだった。彼女はこの手術を喜んでいるのだろう。僕は上手く喜ぶような素振りが出来ているだろうか。自分でもよく分からない。彼女の羽がなくなるという事実が僕にとってはあまりにも大きくて、そしてその事実が自分に対してあまりにも大きい傷を与えることに驚いていて。
鹿島美羽と出会ったのは、小学校に入った頃だった。彼女の背中には、その頃から羽が生えていた。俗に翼人症や天使病と言われるそれの正式名称を、僕は未だに知らない。一度調べたけれど、長ったらしい漢字の羅列に嫌気がさして、覚えることは諦めたことを思い出す。
生まれながらにして本来人に備わっているはずのない器官が、つまり羽が生えてくる病気。それが翼人症だ。幸いなことに、羽が生えてくる以外に不都合はない。命を蝕むようなこともなければ、それによって大きな病気が生まれるようなこともない。ただ、羽が生えているというその一点の不都合が、どれほど翼人症の人間に不利益を齎すのかは、近くで見続けて来た僕はよく知っているけれど。
人間が社会性の動物に過ぎない以上、異分子は淘汰しようとすることは残酷だけれども極めて自然な流れだ。逸脱した者はコミュニティの崩壊を招くことになりかねないのだから、身体の免疫機能がウィルスを殺すように、人間は自分の居る空間から異常を弾き出そうとする。高校生になった今となってはもう随分と収まったけれど、特に小学生の頃のいじめは、静かなる迫害は、酷いものだった。
それに、翼人症の数は国内だけで言えば片手で数えられるほどしかいない。社会は羽のある人間のために作られておらず、ごく普通の生活をしようとするだけでも苦労をするのだと、いつも彼女は愚痴を零していた。電車には居づらいし、服を自由に選べないし、なんていう話を自転車で通学しながら何度も聞いたものだ。
だから、彼女がその美しい羽をもぐ決断をしたことは、自然なことだった。技術的な、あるいは金銭的な問題さえ解決すれば彼女がその選択をしたことは想像が出来ていたはずだ。それなのに、僕は彼女の背中にある羽がいつまでもあるものだと思い込んでいて、それがなくなるという事実に酷く心を乱されている。
「ようやく十八になるから、そしたらすぐに手術って感じで予定立てて貰ってるんだ。だからこの羽ともあと三か月くらいの仲なのかな」
三か月後。二月の半ば、冬の終わり、受験の後。美羽の身体からは羽が失われることになる。遠いことのように思えていた二月が、一気に近くへと迫って来たような気がした。
「……大丈夫なのか、手術をして」
「大丈夫って何が?」
「色々だよ。手術の成功率はどれくらいなのかとか、それから、取ったらもう、元には戻らないだろ。だから本当に取ってもいいのかとか」
「成功率に関しては大丈夫。まず失敗したような例はないし、後遺症みたいなものもないみたい。勿論、今まであったものが急になくなるからその後の生活は暫く大変みたいだけど、それくらいかな。羽が戻らないってことに関しては、秋が一番知ってるでしょ。私がどれだけこれに悩まされてきたか」
恨めしそうに美羽は自らの羽を指で弄くる。鳥のそれとも違う、新雪のように白いそれは彼女の指の隙間を通り抜けていく。前にそれに触れたのは、いつだっただろうか。小学生の頃は、たまに触ったり、抜け落ちた羽で遊んでいた。けれど中学生になったあたりから、異性の身体はまるで熱された鉄であるかのように触れることが禁忌になり始めて、それからはもう触れなくなった。柔らかく温かい、春の陽光のような感触は漠然とした言語としてしか思い出すことが出来ずに、もう指先に甦ることはない。
「急ぐことないんじゃないか。羽がなくちゃ出来ないことだってあるだろ」
「そんなことないよ」
「あるさ。人は飛べない」
羽が生えているからといって、簡単に飛べるわけではない。パラグライダーのようにある程度の助走や高さが必要だし、電線の敷き詰められた都会の空なんかはもってのほかだ。ただそれでも、どんな条件があろうと人は普通飛べない。その身ひとつで飛翔をすることが出来るのは、翼人だけの特権だ。
「飛べたところで便利でも何でもないって話、前にもしなかったっけ? 場所は限られてるし、速度も自転車と同じくらいだし、何より死ぬほど疲れるし。そんな能力、なくなっても困らないよ」
「それは、今君がそれを当たり前のものだと思ってるからじゃないのか。陳腐な言葉だけどさ、人は失ってからしかそれの本当の価値を知ることなんて出来ないだろ。死に至る病気ってわけでもないんだ、もう少し考えて選択してもいいんじゃないか」
「秋は私にこれが着いたままの方が良いと思ってるの?」
「そういうわけじゃない」という否定は、本心ではなくて反射的な反応に過ぎなかった。
「ただ、慎重になるべきだと思ってるだけだ。君が羽を要らないのだとすれば、それでいい。君の人生だし、君の羽だ。取ればいいだろう。でも、その選択は不可逆的なもので、だからこそもっと考えるべきだろ」
本心なんて全くない、理屈を繋ぎ合わせただけの音が空転していく。そんな思考に意味なんてないことは、僕自身が最も分かっているはずだ。今僕たちが行う選択はきっと後から見ればどれほど考え抜いたものでも若さがゆえの過ちと言えてしまうもので、それでも取ろうという選択をするほど美羽が悩んでいることも、僕は知っているのだから。
僕は僕が美羽に羽を取って欲しくないのだということを自覚する。今まで美羽に対して抱いていた同情は、彼女の受ける不条理への憤りは、紛れもなく本物であったはずだ。それなのに、僕は彼女から羽がなくなることを恐れている。そのアンビバレンスな自分が、気持ち悪かった。
「……分かったよ、もう少し考えてみる」
不服そうな声は、それがポーズに過ぎないことを表している。彼女はきっと、その選択を曲げることはない。三か月後の彼女の背中には、既に羽が失われているのだろう。
羽を取らないで欲しいと言いたかった。けれど、それがエゴに過ぎないことも分かっていて、僕は何も言えなかった。嘘でもいい、一緒に喜ぶべきだったのに、本心ではない慰めで偽ることの出来ない自分の不器用さが嫌になる。
*
美羽と別れ、一人で自転車を走らせ、帰路に就きながら、僕は僕の中から何かが抜け落ちてしまっていることに気が付いた。胸の内に出来た空虚は冬の寒さには耐えられそうになくて、痛い。
僕は美羽の羽が取られることを望んでいたはずだ。彼女の苦悩は誰よりも近くで見続けていて、それがなくなることを願っていたはずなのだから。それなのに、いざ現実として目の前に現れると強烈な抵抗感に見舞われる。羽を毟り取ろうとするなんてグロテスクで暴力的な行為は辞めるべきだと、自分の中の何かが叫ぶ。
どうして、僕は彼女から羽が剥奪されることを嫌っているのだろうか。何が、そんな身勝手な願望を生み出しているのだろうか。自分でも、分からない。理解が出来ない。ただ、強烈な衝動があるだけなのだ。
寒さで手がかじかむ。頬を切り裂くような冷たさが走り、息が白む。僕は冬の中を自転車で走る、この感覚が好きだった。痛みが身体性を、白い息が呼吸をしていることを証明してくれる。自分がこの世界の中に生きているのだということが、はっきりと分かる。けれど、これももうすぐ終わることになるのだろう。
僕が自転車での通学を選んでいるのは、美羽のせいだった。彼女の羽は、朝の満員電車の中ではあまりにも窮屈なものだ。こんな片田舎に住んでいる以上、翼人症を患った少女が居るということは周知のことで、彼女への理解は歳を経るごとに実感をしていったけれど、迷惑をかけたくないという理由で美羽は電車に乗ることを拒否していた。例え雨の日であったとしてもレインコートを着用して自転車で通学するほど頑なに。ゆえに、一緒に通学をする僕の登校手段もまた自転車になることは自明だった。
不便であることは確かだった。僕たちの家から高校までは電車で行けば三十分もかからないけれど、自転車で行けば一時間ほどもかかる。家を出る時間は必然的に早くなるし、疲労した身体を駆動させて帰るには長い道のりだ。嫌になったことは何度もある。それでも、僕は自転車で学校へと向かうことが、帰ることが好きだった。例え汗が滴り落ちるような真夏日であったとしても、雨の中であったとしても。美羽とともにくだらないことを駄弁りながら自転車を漕いでいく時間が好きだったのだ。
あの時間が失われることになることは、寂しかった。けれど、それは大学へと通うことになれば嫌が応でも訪れる終わりで、少しだけ早くなっただけだ。それが問題ではない。僕が、美羽から羽が失われることに対して覚えている嫌悪感の、拒絶の正体ではない。
家に着く。自転車を止めて、家の鍵を開ける。この時間、母も父も家に居ない。儀礼的な「ただいま」の声は誰も居ない家の中に虚しく反響する。階段を上がって自室へと向かい、鞄を置いてコートを脱ぐ。制服から着替えることが億劫で、そのまま椅子に腰をかける。受験に向けての勉強でもするべきなのだろうけれど身体に上手く力は入らず、思考もろくに回らない。本当に情けないくらい、美羽から羽が失われるという事実に参っているらしい。
ぼんやりとした視線で部屋を見回しながら、昔は時折美羽もこの部屋に上がっていたことを思い出す。漫画を読み、トランプをして、けれど美羽は外で遊ぶことの方が好きで、結局は外へと飛び出していった。正直に言うなら、僕は外で遊ぶことが嫌いだった。走り回るのは疲れるし、運動神経は良い方じゃないし、何より美羽の羽を揶揄うような奴に出くわすことが怖かったのだ。僕はただ、傍観をしていることしか出来ないくせに。
この部屋に招くことがなくなったのは、中学に入ってから。羽を触らなくなった時と、同じようなタイミングだ。あの時から、僕たちの小規模な世界は僅かに広がり始め、世界の見方も変わっていった。自分が確立されていくにつれて他人との断絶が浮き彫りになり、友達が他人であることに気が付く。友達が、異性であることを意識する。
僕が美羽への想いに自覚的になったのは、いつだろうか。中学の間だったことは確かだけれども、何年生の時だったのかまでは覚えていない。あくまでも自覚的になったのがそのタイミングというだけで、ずっと前から僕は美羽のことが好きだったのだろう。友愛と恋愛の境界線は曖昧で、見分けることが出来ない。あるいは、初めからどうしようもなく、僕は美羽に恋をしていたのかもしれない。
その背中に生えた美しい羽を除いても、箕作美羽という少女は美しかった。「天使」という渾名は諧謔的に、嘲るように投げかけられていたけれどその言葉の中には本当に天使のようだという本心も含まれていたような気がする。
勿論、彼女の見た目に惹かれたことは否定しない。けれど、僕はそれだけではなくて、箕作美羽という人間の全てが好きだったのだ。だから僕は、美羽に恋をしているのだ。
そう考えたところで、ふと何かが引っかかった。そうだ、僕は彼女に恋をしている。しているはずだ。それなのに、何故だかいつも呼び起こされるような熱が、自分の中のどこを探しても見つからなかった。
喪失感の正体が分かる。僕は、恋を失ってしまったのだ。何故か。理由は明白だ。彼女から、羽が失われてしまうから。
世界が撓んだような錯覚を覚える。テーブルに肘を突いて、何とか身体を支える。つまり僕は、美羽ではなく彼女の背中に生えた羽に恋をしていたとでも言うのだろうか。違う。そんなはずはない。確かに、彼女の羽が美しいことは確かだ。それに惹かれていていなかったと言えば、全くの嘘になる。しかし、そうではないと言うのであれば僕が恋を見失ってしまった理由は何なのだろうか。
美羽の姿を思い出そうとする。その時、必ず思い浮かぶのはあの羽だった。あれは、僕の中で美羽の象徴だったのだから。逆説的に言えば、僕はあの羽が失われた後の美羽を想像することが出来ない。
そんな、馬鹿げた話があるか。彼女自身ではなく、その羽に恋をしていたなんて狂った話が、あるわけがない。僕は今も、箕作美羽に恋をしているのだ。そう思うほどに、執着するほどに、自分の中にかつてあった感情が失われていることは決定的となって、吐き気がする。僕は、美羽のことを平等に見ていたつもりだった。羽があるということを特別視することはなく、ただありふれた一人の少女の隣に居続けていたつもりだった。けれど、違ったのだ。僕は僕が嫌っていた多くの人間と同じように、彼女の羽を特別なものだと見ているのだ。だから、僕は恋を失ってしまった。羽のない美羽には、恋をすることが出来ない。
強烈な吐き気がして、思わず蹲った。急いでゴミ箱を近くに寄せて、吐き出す。朝か昼に食べた何かが、胃液と混じってゴミ箱の底に落とされていく。いっそ、何もかも吐き出してしまいたかったけれど、それ以上吐き出すことは叶わずにあとは呻くことしか出来ない。
自分が信じ続けていたものが、縋り続けていたものが偽物に過ぎないのだったという事実は、自らも嫌悪していたものと同じだったのだという醜悪さは、耐えることの出来ないものだった。身体の内側から腐っていくような感覚がする。
こんな感覚は間違っている。この感情は、誤っている。エゴのために他人を踏み台にすることは、他人の人生を制限することは、およそ考えられる最悪だ。それは僕自身が最も憎悪していたことのはずだ。しかし、理性でそう考えることが出来たとしても、衝動は、熱は、感情は、どうすることも出来ない。
酸味の残る唾液を飲み込みながら、思う。こんな感情は捨てさるべきだ。捨て去ることが出来ずとも、誰にも知られないままで埋葬をするべきだ。こんな感情はあるべきではない。現実に存在するものを否定してもどうしようもないが、隠し、なかった風にすることくらいは出来る。
手術をするべきだと、明日伝えよう。それが、美羽の望むことだ。僕の醜悪な願いのために、恋のために否定をするべきものではない。今日のそれは、気の迷いだったのだ。羽の生えた少女の友人として言うべき言葉は背中を押す言葉だけであり、発露すべき感情は共有された喜びに過ぎない。
大丈夫。僕自身の不器用さは痛いくらい分かっているけれど、それくらいの演技なら出来るはずだ。いつも通り、今まで通りの態度で接すればそれでいい。ただ僕の中で、恋が失われてしまった。それだけの話なのだ。
あるいは、それこそが健全な関係なのかもしれない。僕たちは恋人ではなくてただの友人に過ぎないのだから、恋愛なんていう不純な感情がなくなったその関係こそがあるべき形だったのだ。嘆くべきではない。哀しむべきではない。自然な形に戻っただけだ。何も考えず、ただ隣に居ることが心地よかった、あの頃に。
けれど、僕は理解をしていなかった。一度崩れてしまったものが完全な形で甦ることはないのだということを。壊れてしまったものが元に戻るなんていう都合のいいことが、現実では有り得ないのだということを。
*
「ねえ相模、聞いてる?」
昼休み、ぼんやりとしていた意識がその声によって現実に浮上する。目の前には険しい表情をした木崎が、僕のことを見下ろしている。どうして、非難をするような視線が自分に向いているのかが分からず、戸惑いながらその場凌ぎの返答を口にする。
「……ああ、悪い。何の話だっけ」
「だから、最近のあんたについての話。何かあったの?」
「何かあったって、どういうことだよ」
「美羽が落ち込んでたから。聞いたらあんたの態度が最近変なんだってさ」
僕の態度が変になった理由は明白だった。そして、それが表出してしまっていることは、驚くようなことじゃない。ただ、僕はその答えに違和感を覚える。
「別に、ちょっと体調が優れないだけだよ。というか、それ本当に美羽が言ってたのか」
「何で私があんたに嘘吐かないといけないのよ」
「いや、だって美羽が僕の態度一つで落ち込むなんておかしいだろ」
箕作美羽という少女は精神的に強い。絶えず彼女を襲う偏見と差別の目線から耐えるために、強くならなければならなかったのだ。それがどうして、僕の態度一つで落ち込むのかが、理解出来なかった。
しかし、木崎はどこか憤りを隠したような溜息を吐く。恐らく、ここが未だ人の残っている教室だから抑えているだけで、もう少しひと気がなかったならば彼女の怒りは決壊し、濁流のような感情が僕の方へと流れ込んでいたことだろう。
「相模ってほんとに何も分かってないんだね」
「美羽のことを、ってことか?」
「そうだよ」
「……まあ、そうなのかもしれない」
どれほど長い時間を共有していたとしても、僕たちはどこまでいっても他人に過ぎない。同じ風景を見ていてもきっと映している世界は違うし、そこから抱く感想も異なるものになる。僕は、美羽のことを分かっているつもりだ。けれどそれは所詮「つもり」に過ぎないし、それ以上になることは出来ないのだろう。
「そりゃ、あの子はあの羽のこともあるし、他の子よりは傷付きにくいんだと思う。でもそうした耐久性みたいなものは、外側からの傷に対する強さでしかないでしょ。内側からの痛みにまで耐えられるほど、人は完璧じゃないし頑丈じゃないよ」
「……そうかもな。でも、僕だって万能じゃないんだよ。出来ることと出来ないことはある」
「出来ることと出来ないことって、そんな大層な言い方して誤魔化さないでよ。どうせただの喧嘩でしょ。高校生活ももう残り少ないんだし、時間を無駄にしないためにもさっさと仲直りすればいいじゃない」
「喧嘩ってほどシンプルな問題だったら、ここまで拗れてないだろ」
喧嘩には善悪があり、勝ち負けがある。そうした二元論で定められた状況なら、ことはもっと簡単だったはずだ。美羽はいつだってそうした問題に対しての答えを出すことが早くて、彼女が折れるならばそれで問題は解決するし、彼女が折れないのであれば僕が折れる。大抵の場合、彼女が折れない時には理由があり、その理由は正しいことばかりなのだから。
けれど、この問題に関しては既に答えが出ている。僕が悪であり、僕が間違っている。それだけの話だ。それでもその間違いを口にすることは出来なくて、僕は隠し続けるよりほかにない。一方的に向けられていた好意が偽物だったなんてことを伝えても、彼女を傷付けるだけでそれ以上の意味なんてないのだから。ゆえに、問題はこうして拗れている。解決を出来ないままでいる。
「それはまあ、確かにそうかもしれないけど」
木崎も、美羽の性格は把握している。ただの喧嘩ではないことを渋々と納得しつつも、「でも」と怯まずに言葉を継ぐ。
「だからこそこのままじゃ駄目なんじゃないの。あんたたち、別の大学行くんでしょ。このままの状態で離ればなれになって、それでほんとにいいわけ?」
「……いいかどうかじゃないだろ。結局問題は、解決出来るかどうかだ」
善悪で問題は解決しない。そうあるべきという答えに真っすぐと辿り着ける人は滅多に居なくて、僕たちは最悪を踏み抜かないようにすることで精いっぱいだ。今の僕も、そうだった。最悪はこの醜悪な感情を吐露し美羽を裏切ることであり、だからこそ沈黙こそが僕に出来る最善だった。
「確かにそうかもしれないけど、どうしようもないことでも足掻くことに意味があるんじゃないの。そうしないと、何も伝わんないよ。あんたのそれは、自分が傷付くのが怖くて何もしてないだけだ」
木崎の言葉は正しいのだろう。何もしなければ、何も伝わらない。しかし、伝えた先にあるものが傷付けるだけのものならば、伝えることに意味なんてあるのだろうか。傷付けるだけ傷付けてそれで終わりなんて、その方が自己満足じゃないのか。
何も答えることが出来ずに居ると、木崎は侮蔑するような息を吐いて去って行く。
分かっている。この状況が間違っていることも、どうにかするべきだなんていうことも。それでも、僕に何が出来るというのだろうか。嘘はきっと、美羽に暴かれる。ならば本当のことを言うべきだとでも言うのか。それは、それだけは最悪だ。どうなっても、それだけは口にするべきではない。
一度壊れてしまえば、元に戻ることは出来ない。ならば、僕がするべきは新しい関係を模索することなのかもしれない。既に恋しい人ではなくなってしまった美羽と上手く折り合いをつけて、なんてことのないように付き合う方法を探すべきなのだ。
しかし、その猶予はあるのだろうか。卒業をするまで、あと四カ月。それだけの時間で一つの関係を修復し、十年以上をかけて作った今のような関係に落ち着くことが出来るとは、思えない。気が付くには遅過ぎたのだ。
僕たちは、別れるよりほかにないのだろうか。タイミングとしては、これ以上ないのかもしれない。大学への進学は、環境の変化は分かりやすい別れの区切りのひとつだ。少なくとも表面上は、確執による不和ではなくありふれた別れのうちのひとつに映るだろう。当事者である僕や美羽の中に違和感は残れど、それも時間によって摩耗され、ただの思い出に成り下がる。それでいいのだ。美羽は強い。僕であれば引き摺り続けるような問題も、やがては現実によって塗り替えて前へと進んで行くことが出来る。ずっとその身とともにあった羽を取り除く選択を迷うことなく決断出来たように。
現実から逃避をするように机の中に仕舞っていた文庫本を取り出して開くけれど、目が滑って内容が入って来ない。今の僕は虚構に逃げることすらも許されないようだった。
僕にとって彼女を欠かすことは出来ない。相模秋という人間のアイデンティティには箕作美羽という人間が大きく、深く関わっていて、それを除いて語るのは上中下巻の作品の、中巻を除いて読書感想文を書くようなものだ。きっと僕は死ぬまで箕作美羽という呪いを携え続けるしかないのだろうし、彼女を失うことはひどく辛い。例え、恋が失われてしまったとしても。
それでもそうするよりほかにないのであれば、諦めるしかない。僕が十八年の人生の中で学んだことのひとつは、大人になるということは即ち上手な諦め方を習得していくということだった。生きていれば別れは訪れるわけで、それをなければいいと願ったって仕方がない。それが、このタイミングで訪れることになった。それ以上でも以下でもなく、ただそれだけの話なのだ。こうした結論に至るあたりが、木崎の嫌いなところなのだろうと自嘲する。結局、僕は変わらない。変われない。
こうした自己嫌悪もまた、独りよがりな自己満足に過ぎないような気がして、逃げ場がなかった。現実はペーパーテストのように答えがあるわけではなくて、正しさなんていうものは錯覚に過ぎない。だから、僕たちに出来ることは納得のいく結末を探すことだけだ。
僕は、このまま進んだ先の終わりを肯ずることが出来るのだろうか。納得は出来ない。ただ、僕が僕の本性に気付いてしまった以上、納得を出来る選択肢なんて見つけられるはずがなくて、後悔をしない選択肢を探すことしか出来ない。
無機質なチャイムが昼休みの終わりを告げる。時間を持て余した僕にとってその宣告は有り難いものだった。授業が始まれば、まだ気を紛らわすことが出来る。美羽のことを考えずに済む。
年の始めのクラス替え、彼女と同じクラスではないことを僕は嘆いたけれど、この時ばかりは別のクラスで良かったと思う。同じ教室に居るのであれば、視線はいつだって彼女のことを追いかけて嫌でも彼女のことを考えることになっていたのだろうから。
世界史の授業は高校で教えるべき範囲を終えて、既に受験のための模擬テストに移行していた。僕は配られたペーパーに縋りつき、何も考えずに済むように機械的に問題に向き合い続ける。受験が終わりさえすればそれ以降の人生において縁もないであろう人物や政策の名前を連ねていく。繰り返される疑似的なテストとまばらに座席の空いた冷たい教室の空気が、受験までの日数がもう残り僅かなことを実感させる。もうすぐ今年も終わる。そして年が明ければ受験はもうそこで、その後には春が来る。
冬来たりなば春遠からじと言ったのは、誰だっただろうか。確かにその通りだ。冬が来るということは春が近付いていることでもある。けれど、訪れる春が必ずしも良いものとは限らないし、何より春が遠くはなくともそれまでの冬の辛さに変わりはない。
ふとした時、何の前触れも理由もなく、思考の中に美羽のことが混じる。意識は数千年前の文明から現在の僕自身の問題へと移行し、手が止まる。駄目だ。考えるべきではない。そう分かっていても、あるいは分かるほどに、意識は脳にこびりついた美羽の残像へと縋りついて離れてくれない。
「そこまで」という教師の声が響いて、ようやく呪縛から解放される。解答用紙が配られるけれど、結果は案の定散々だった。美羽が意識の中に入ってからの正答率は酷いもので、そも空欄ばかりが並んでいる。このままの状態で受験に挑めば、恐らく落ちるだろうと自嘲気味に思う。問題は分かり切っているのに、それに対して自分がつくづく無力なことが嫌になる。
受験期に入ってから授業は着々と減り続けていて、世界史の授業が終われば、もう放課になる。つまり、美羽に会わなければならない。彼女と二人きりにならなければならない。木崎の言葉からするに、美羽は僕の異常に気付いている。何かが変わってしまったことを知っている。ならば僕は、どういう表情をすればいいのだろうか。どういう嘘を吐けばいいのだろうか。
かつてであれば僕を生活に繋ぎ留めていた時間が訪れることが、憂鬱になる。僕は、僕が最も大切にしていたものを自らの手で壊してしまったのだ。最悪な形にしてしまったのだ。
身体を引き摺るようにしながら下駄箱まで向かう。美羽とは、いつだって下駄箱を出た先で待ち合わせをしていた。互いに他のクラスメイトと話すようなこともせず、真っ先に待ち合わせ、帰路に就く。いつも、 僕は放課後になるとすぐにその場所に向かった。彼女を待たせるのは嫌だったし、彼女を待つことは好きだったから。かつての僕はただ引き延ばされた無為な時間でも、彼女を待つためという意味が与えられるとそれだけで鮮やかな色に染められたような気分にさえなったのだ。
今は足が重たかった。顔を合わせたくない。彼女の存在は失われてしまった恋を証明し、僕自身の醜悪さを証明することにもなるのだから。けれど、何も言わずに逃げようとする方が不自然で、結局僕は彼女とともに帰るよりほかに選択肢はない。
上履きを脱いで、靴を履く。音を立てないようにゆっくりと下駄箱の扉を閉めて、陰鬱を吐き出すように溜息を吐いてから、僕は外に出る。
美羽は先に待っていた。「お待たせ」と言うと「うん」とだけ言って彼女は駐輪場の方へと歩き始める。もう長い付き合いなのだ、彼女の返答は短いけれど、それは素っ気なさというよりも信頼がゆえのものであるということは分かっている。ただ、不安に駆られた精神は沈黙の中に意味を見出そうとしてしまう。止せばいいのに、自分にとって不都合な意味ばかりを。
焦燥を誤魔化すようにポケットから自転車の鍵を取り出して、握る。大丈夫、今ままで通りに居ればいい。美羽は、僕の異変に気が付いているのだろう。ただ、それが表出しなければそれで良かった。この問題を十全に解決する方法はなくて、せめて表面上だけでも穏当に終わりさえすればそれでいいのだ。彼女に不満があっても、この状態が不安定なものであっても、残りの時間は少ない。その時間さえ耐え凌げれば、それでいい。
目の前を歩く美羽の背中で、羽が揺れる。相応の重さを持つ羽のせいで美羽の背中は少しだけ丸まっていて、それが嫌になるのだと何度か零していたことがあった。ただ、その理由が羽に負けているようで気に食わないのだというあたりが、美羽らしい。僕は、彼女の少しだけ丸まった背中が好きだった。それが彼女の克己心を現した嫌悪を思い出すからか、恋がゆえの色眼鏡なのかは分からないけれど。しかし、その姿も羽が失われてしまえばもう見ることが出来なくなるのだろうかと思うと、誤魔化していたはずの寂しさが甦る。
美羽に生えた羽は美しい。僕は紛れもなく、それに魅了されている。けれど、羽ではなくて美羽に惹かれていることもまた確かで、後ろから見た彼女の姿はその殆どが羽に隠されていながらも僕は羽ではなく美羽自身のことを見ている。自分の感情の正体が分からなくなってくる。僕は、彼女の羽が失われると知って彼女への恋を見失ってしまった。それなのに、僕は羽にだけ惹かれているわけではない。ならば、どうして僕は恋を失くしてしまったのだろうか。
羽を失ったとしても、箕作美羽は箕作美羽であるままだ。何も変わらないままで、彼女は連続的に未来に存在している。羽が失われたからといって、箕作美羽が死ぬわけでも甦るわけでもない。それなのに僕は彼女に恋しさを覚えることがなくなっている。いっそ、僕が羽のことを愛してやまない、信仰をして仕方がない狂人なら分かりやすかったのに、単純だと思っていた問題はエニグマのように複雑化する。
「どうかしたの?」
ぼうっとしていると、いつの間にか美羽は自転車に鍵を刺して僕を待っていた。「いや、何でも」と取り繕って、僕もまた鍵を刺して自転車を取り出す。美羽と目を合わせてしまえば思考を見透かされてしまいそうで、俯きハンドルを見ながら自転車を押していく。
この学校では、校内を自転車で走ることは禁止されている。ゆえに校門までは自転車を押して行かなければならないのだけれども、今日は校門までの距離がやけに長いような気がした。普段は気にならない自転車の重さが気になって、バランスの取り方すらもゲシュタルト崩壊を起こしたように分からなくなる。転ばないようにしながら、何とか引き摺って、校門までの緩やかな坂道を下っていく。
校門を出て、僕たちは自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始める。未だひと気のない道を徐々に速度を上げながら、淡々と進んで行く。ただでさえぎこちなかった最近の空気が、前にも増して硬度を上げたように錯覚する。美羽との間に生まれる沈黙は、嫌いではなかった。それはただ時間を共有するだけでも嬉しいという恋がゆえの心地よさでもあったし、何より何も話さずとも良いのだという彼女への信頼でもあった。けれど、今や恋は失われていて、彼女が何を考えているのかが分からない。木崎は、僕に話をしたことを美羽へと伝えたのだろうか。伝えたのだとすれば、彼女は何を思っているのだろうか。今の彼女に、僕はどう映っているのだろうか。
どうせ不自然さを見透かされているのだ、いっそのこと割り切って、嘘を以て一人で帰るべきなのかもしれない。徐々に、けれど明確に距離を離していく。別れることは辛いことだけれども、はっきりとした区切りがあった方が互いのためだ。そう理解をしているつもりでも、切り出す勇気がなかった。美羽のことを、僕自身を傷付ける勇気がなかった。腐敗していくような緩やかな頽落の先には到底修復することの出来ない破滅しか残っていないというのに。
「……最近、何かあったの?」
思い出したような唐突さで、美羽はそう呟いた。ただ、その言葉は本当に思い出したかのようなものではなくて、長い躊躇の末に決意したような切実さがあった。
「何かって何だよ」
「それを聞いてるんだって。最近何か変だよ」
「……変って言われても困る。僕は僕なりに普通にしてるつもりなんだけど」
「長い付き合いなんだし、秋だって私が変だったら分かるでしょ。それと同じように私だって秋が変だったら分かるんだよ」
根拠のない、感覚の話だけれども、彼女の言う通り僕自身も彼女の変化に気付いてしまうのだから一蹴することも出来ない。これ以上韜晦をしようとしても、無駄なだけだ。
「受験が近いからナーバスになってるんだよ。それに、冬が深まって来たせいで体調も優れないんだ。誰だってあることだろ、特別なことじゃない」
自分でも嗤いたくなるほどに酷い嘘だったし、美羽もこの嘘に気が付いているだろう。ただ、頭ごなしに否定を出来るほど破綻をした論理というわけではない。思春期の懊悩なんていうものは掃いて捨てるほど世間にありふれているし、受験が関わって来るのであれば尚更飽和しているのだろうから。
美羽は言葉を詰まらせる。求めているものは明確になっているのに、そこに辿り着くまでの道筋が分からないというような沈黙。それでも彼女は口を開く。
「嘘でしょ、それ」
そうだ、嘘だ。しかし、素直にそう答えるはずもなく、僕は沈黙を以て返す。
「ねえ、何か言ってよ。助けになれることなら助けるし、私が気に食わないならさっさと君の前から消える。長い付き合いだし、察せることは多いけど、でも何も言ってくれなきゃ分かんないことだってあるでしょ」
「……僕の悩みなんて、美羽にとっちゃどうでもいいことだろ」
「どうでも良くない」
「どうして」
「気分が悪い」
「美羽の気分なんて僕からすれば知ったことじゃないだろ。何で君の気分のために個人的な話を打ち明けなきゃいけないんだ」
「じゃあ何、いつまでも秋はそうやって解決しない問題抱えたまま死ぬわけ?」
「話を極端にするなよ。時間が解決する問題なんだ、君に出来ることはない」
「時間だけで解決することなんて存在しないでしょ」
「存在するさ」
正確に言えば、僕の問題は時間くらいでしか解決をすることが出来ないことだった。解決策も特効薬も存在しなくて、忘却や諦念といった経年劣化に任せるよりほかにない。それすらも不可能だろうということは、僕自身が分かっているはずなのに。
美羽が自転車を止める。僕も、倣うようにして止め、振り返る。いっそこのまま走り去ってしまえれば良かったのにと思いながら。
そこにあった彼女の顔は、今まで見たことのないような表情を映し出していた。当惑と寂しさ。どうして、という言葉が出そうになる。どうしてそんな表情をするのだろうか。今までの彼女であれば、業を煮やして怒ることはあれどそんな表情をすることはなかったはずだ。それなのに、どうして泣きそうな表情をしているのだろうか。
「ねえ、君は私のことが嫌い?」
一瞬、言葉に詰まる。僕は、彼女への恋を失ってしまった。ただ、恋愛感情を失ったからといって、嫌いになるわけではない。好きではないと嫌いは、言葉にすれば似たものに見えるけれど、あまりにも大きな乖離が存在する。けれど似ていることもまた確かで、その本性を見透かされたようで思考が錆びた歯車のように止まりかける。
沈黙が悪手であることは分かっていた。僕は急いで言葉を継ぐ。その僅かな逡巡が既に取り返しのつかないものであるということを理解していながら。
「どうしてそんなことを急に聞くんだよ」
「不安になったから」
「不安?」
その言葉は太陽と海王星のように箕作美羽という人間にとって、交わるなく最も離れた場所に位置するもののように思えた。箕作美羽は不安をすることがない。彼女は今を生きているから。そして、外界に惑わされることのない自分というものを持っているから。未来や世界に対する揺らぎは、彼女の中には存在しない。そのはずだった。そう思い込んでいた。
「……怖いんだよ、羽がなくなることが。私はこの羽のことを嫌ってるし、憎悪してるけど、でも私の一部であることも確かで。羽を取ることは一種の自殺なんだ」
彼女は俯き、ハンドルをじっと見つめている。そこに、いつもの箕作美羽の姿はなかった。
「死んだ後どうなるのかが、怖いの。何もない場所で、自分さえも分からないままに独りきりになることが、怖いんだ。だから、君さえも離れていくことが耐えられない」
「……何年一緒に居たと思ってるんだよ。今更離れることなんて出来ないだろ」
「何年一緒だったとか、それまでどういう関係だったとか、関係ないよ。何でも一緒、壊すのは簡単で、崩れるのは一瞬なんだから」
肌を内側から食い破られたような感覚がする。そうだ、その言葉は正しい。ずっと大事に抱えてきたはずだった僕の恋は、一瞬で壊れ、崩れ去った。壊すのは作ることよりも、ずっと容易い。
「何かあるなら言ってよ。よく分からないまま終わって、勝手にどこかに行かないでよ」
泣きそうな表情をして、彼女は僕を見る。それは、僕が恋した箕作美羽のする表情ではなかった。
ようやく分かった気がした。僕がどうして恋を失ってしまったのか。羽があるかないかなんて、どうでも良かったのだ。ただ、それは確かに象徴だった。彼女の世界に対する毅然とした態度の、強さの、証明だった。けれど、それを失った彼女に、自分ではなく世界を優先し、ありふれた十八歳へと迎合する彼女に、僕は失望をしたのだ。
羽の有無は関係がなかった。現に僕は、未だ羽の生えている彼女を好きでいることが出来ていない。それは、羽を取るという決断をした彼女のことを受け入れることが出来なかったからだ。
以前までの箕作美羽であれば、孤独を怖がることはなかった。僕に縋るようなことはなかった。あるいは、今のこの弱さこそが、箕作美羽の素顔なのかもしれない。その素顔すらも愛することが出来れば、どれほど良かっただろうか。
自分を殺し、世界を優先する。たった一人の誰かではなく、誰でもない誰かへと変わっていく。それは、特別なことじゃない。誰もが大人になるにつれて為れていく、ある種の成長だ。けれど、僕はそれを受け入れることが出来ない。
僕の恋は、もう甦ることはないのだ。今の彼女の表情を見て、言葉を聞いて、確信してしまう。既に彼女は、僕が恋した箕作美羽ではないのだから。
「どこにも行きやしないさ」と、僕は気休めの韜晦を吐き出す。今目の前に居る少女は、既に僕が恋した彼女ではない。それでも、彼女と共有してきた全ての時間がなくなることもなくて、僕は彼女を突き放すことが出来ない。ただ、この選択もまた残酷であることには変わりがなくて、正解はなかった。この選択は、僕が楽なだけだ。
「大丈夫だよ」という。それは本心でもあった。羽を取る決断は自殺なのかもしれない。ただ、あくまでもその自殺はレトリック上での自殺に過ぎず、その先にあるものは本物の、果てしない虚無ではない。箕作美羽であれば大丈夫だ。僕なんかがいなくとも、彼女は上手くやっていける。
「取り敢えず、僕たちの問題は受験だろ。何をするにしても、まずはそこをどうにかしなくちゃ始まらない」
諧謔めいた口調でそう告げる。どうしてだろう、自分の本性が分かった途端に自然に嘘を吐けるようになってしまったのは。自分でも感心をしたくなるくらい自然に、毒にも薬にもならないただの音を僕は言う。納得をした様子はなかった。ただ何かを口ごもったうえで、諦めたように美羽は自転車に跨る。それを見てから、僕もまた自転車に乗って、ペダルを踏む。
弱さを知ってしまった途端に恋を失ってしまうことは、悪なのだろうか。答えは分からないけれど、恋とは善悪の基準によって変動することのない、個人的な衝動であって、既に僕にはどうすることも出来なかった。
羽を失った箕作美羽は、どうなるのだろうか。ふと、そんなことを思う。空想の中に描いた羽のない彼女は僕には手の届かないところに居るような気がして、寂しくなった。彼女が羽を失った時、孤独になるのは僕の方なのだということに気が付いて。
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