旧友

1 偶然の出会い

第1話 出会い

 僕の住まう街には取り留めもない事柄も、そうではない広告の風景も、それらが一緒くたになって存立するといった、生命に準じた都市づくりがなされていた。僕は街中で涙を流したことなど幼いころから一度もなかった。嗚咽や膝を抱える行為の根拠として信じるに値するものは、年数を経た自分の肉体ではなく、刻一刻と変わりゆく背景に近しい。そうでなくてはいけない。そうでなければイマジネーションは、現実を液体として見えるようにして、中身も外面も、すっぽりと完全に埋めつくされた容器を、尊厳を勝ち得た便利な僕が、ぼんやりと眺めるのに終始する。そうなれるだけの自惚れを保持しているのなら、僕はもっと北極圏に物理的に近づく必要があった。だいたいがそれを必要と感じずに、すでに知られた安らぎのみを、花の蜜を吸う小虫のようにありふれた代替え品で済ましてしまう。生活を繰り返す、それとは真反対にあるはずのあるはずの思考が、道徳の根幹を、生きる上での利便性として享受してから、例えば財産を手放さない老人どもがそれを嘆く態度をあらわにするのが、いささか愉快でもあり、事物の鏡心を知ることが、そもそも鏡心とはなんだという疑い、強固な足かせを思考のなかでは素朴にしてくれた。

 街には偶然がひそんでいる。路地の壁には変色した跡が残っているし、それらが文字や空想上の絵に見えなくもない。吊るされたものなどがあれば、人前で指をさしたり声をあげたりはしないけれども、ほんの数秒、朝焼けを見上げるだけの心に静けさを取り戻したと思えるあの感覚を欲して視線は奪われる。長く真っすぐな道のりに、その両端に生える民家の燃えるような秋の紅葉から、僕は想像力を欠いていたのを認める。

 喫茶店のなかには顔の青白い何人かの知り合いが一つの席に集まっており、僕は彼らに手を振ってからカウンター席に腰をおろした。店主はおらず空調の設定温度などはいじれないお店であり、毎月一定の額を支払えばいつでも出入りすることが可能な会員制の喫茶店だった。専用のカードもあるらしいのだが、財布がかさばるのを嫌って、はじめからアプリでの決済を使用していた。

 あらかじめ行く時間に予約を入れて、ゲートを通るためのQRコードをかざしてから店のなかに入る。音もなく横向きに開いた扉は漆喰で作られた木製のものだった。いわゆる扉というよりも外から見ればまっさらな壁に近しい。それに不自然にもドアノブがついてあり、頭上には熊の形を模した金属が飾り付けられていた。

「この前に貰ったクッキー。とても美味しかった」

 雑談をしていた集団の中から一人の女が、僕のとなりに座った。彼女は田宮夏那といって、唇が分厚く眉毛もきちんと切り揃えた、同い年の女の子だった。

「気に入ってくれると思ったよ」

 すると彼女は微笑み、四角形のミントが添えられたチョコケーキをくれた。僕はそれを受け取り、銀のフォークを持って、相手の体をじっと見つめた。彼女の細くてしなやかな足が僕の足下に絡みついた。

「美味しかった、というこの平凡な感想は、あなたの望んだとおりのものだった?」

「僕は平凡なクッキーを君に渡したのだから、それと同じ言葉が返ってくるのはしごく当然だと思う」

「そうなんだ。でも、私の個人的な感想を言うとね。男の人に紙袋に入ったお菓子を貰うのはあれが初めてだったから」

「本当に?」

 僕はケーキを一口で食べて、相手の反応を伺った。

「本当だよ」と田宮は平然とそう言ったが、僕はこれが嘘なのを知っていた。しかしそれを咎める意味はまるでなかった。

「このお店も気に入ってる。なんだか知り合いばかりでごたごたしているけれど、たまにあなたみたいな人に出会えるから」

 詳しい事情を知らないが、この喫茶店は色々なものを捨てられなかった人間の集まりであると思う。異国風のものが散乱していた。カラフルなお面や皺だらけの瓶包み、様々な柄のカップが奥のカウンターに並べられており、彼らはそれを自由に使い、互いに嫌悪感を催すことはほぼなかったといってよかった。

 扉が開いて、また誰かが入ってくる。その人物は僕を見かけると真っ先に話しかけてきた。

「ああ、久しぶり。元気そうでなによりだよ」

 僕はそれが誰であるのかわからなかった。人違いでないかとさえ思った。彼は一度も席には座らず、立ったまま紙コップのコーヒーとサンドウィッチを持って、壁にかけられたロックバンドのポスターを目にしながら、しばらくそこにとどまるのかと思っていると、外へ出てそれから戻らなくなった。

「塩原君、いつもあんな感じだよね」

 田宮の呟いた一言で、僕はそれが誰であるのかはっきりとわかった。あいつは、塩原は頭のきれる奴だ。それゆえに「元気そうで」などと言った情緒に寄った無意味な言葉など、決して言わない奴だった。僕は不吉な予感を覚えながら彼女の腕に新しい時計があるのをみつけた。ブレスレットのような輝きのない金色に塗られた代物である。

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旧友 @franc33

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