第21話 幻想の王の原点回帰

 打ちつける雨が、少女の顔を汚す血を洗い流してゆく。

 雪斗は、レンジュの額にこびりついた血を優しく拭った。


「う……」


 訪れない命の終わり。

 触れた肌の確かな体温にレンジュはそっと瞼を開け、ぼやける視界の中で雪斗を見つけた。


「……ゆ、きと」

「うん」

「なん、で」


 意識が朦朧とするレンジュに、雪斗は静かに微笑みかける。


「ビルが崩れる音が聞こえたから」


 両手で抱える少女の体は、とてもか細く、鉛のように重く。

 震える体躯を、雪斗は壊れないようにそっと強く抱きしめる。


「レンジュが頑張ったおかげで、間に合った」

「ち、がう……」


 レンジュは左手で、雪斗の服の袖を弱々しく引っ張った。


「いもうと、さん……たす、け、ないと」

「そのつもりだよ。けど……それは、君を見捨てる理由にはならない」

「…………!」


 目尻に涙を溜めるレンジュ。

 雪斗は『鍵』を、シグナを強く睨みつけた。


「素晴らしい才能ですね、楠木くん」


 対するシグナは、純粋な賞賛の意味を込めて雪斗を評価した。


「我々全員の目を欺く幻影の使用。こと幻想系統カテゴリの練度において、貴方は学生の域を超えていますね」

「シグナ。あなたはレンジュの敵ですね?」


 賞賛の言葉を全て無視した雪斗の問いかけに、シグナは少し考える素振りをみせた。


「ふむ。私個人が、というわけではありませんが。……ええ。一般的解釈で論ずるのなら、私はレーベックさんの敵なのでしょう」

「……つまり。レンジュを苦しめてきたのは、あなたたちなんですね」

「——それは違いますよ、楠木くん」


 シグナは隣に立つ構成員に傘を持たせ、自分はその下で演説でもするかのように手を広げた。


「レーベックさんが苦しんだのは、彼女自身の過ちです。堕落した思想に染まり、我ら探究者が本来歩むべき道のりを違えたのですから」

「本来の道のり? リスクを顧みない実験を強行して土地を汚染することが、写本使いアクターの在り方だと?」

「いいえ、それは誤解です」


 眉を顰める雪斗に対して、シグナはあくまでもの立場を取る。


「君は我らの所属について尋ねなかった。ならばもうご存知でしょう、楠木くん。我らの前身たる『大いなる鍵』は、破綻した理論で土地ひとつを汚染した。私はあの凶行を唾棄しています」


 それは思考停止の結末であり、探究者としては失格だったとシグナは評した。


「我ら探究者の唯一にして至上の喜び。それは真理への到達、すなわち『原典』の解読! ——楠木くん、貴方ならわかるでしょう?」

「…………」

「『原典』が、我らの到達すべきものが失われているというのに、人々はなんら危機感を示さない! 楠木雪斗くん、生命の『原典』を求める君ならわかるはずです。今、我々に必要なのはだと!」


 シグナは、レンジュから奪い返した写本グリモアを愛し子のように撫であやす。

 その表情は慈愛そのものであり、彼が自らの道を一片たりとも疑っていないことも雄弁に語っていた。


「その道標を生み出すために、人工的に『原典』を創り出すために、地脈が必要……そうですね?」

「——ええ、ええ! その通りです!」


 シグナは頬を紅潮させて強く頷いた。


「楠木くん、我々と共に来てください。君の識力と知識、幻想の写本グリモアに対する理解の深さは貴重だ! 生命の『原典』を欲する君の願いのためにも、我々、『鍵』と共に来るべきです!」


 一歩、雪斗へと近づく。


「こんなハリボテの伽藍堂で学ぶ意味などありません! 無駄な時間を浪費することはありません!」

「無駄、ですか」

「——ええ。君の願いに、この時間は不要です! ノイズでしかない!」


 もう一歩。

 あと数歩で、手の届く距離に踏み込む。


「当然、その女の安全は保証しましょう! 無意味な時間を過ごしてきた彼女も、君のモチベーションになっているのなら生かす価値があります!」

「…………」


 雪斗は、強く、奥歯を噛んだ。


「レンジュが、無意味な時間を過ごしたって?」

「……ええ。くだらない郷愁に浸り、人類の進歩に牙を向いた。せっかく素養があるというのに、愚かなことです」


 緩慢に首を振ったシグナは、気を取り直すように空虚な笑みを浮かべた。


「さあ楠木くん、人類の未来のため——」



「ふざけるな」



 たった一言に込められた強烈な拒絶と敵意に、シグナの表情が強張った。


「無意味じゃない。無価値なんかじゃない」


 雪斗は、静かに怒る。


「家族を想って、たった一人で戦ってきた。誰の助けも得られなくても、折れずに、ずっと」


 雪斗は自分の腕の中で今も震える、ボロボロになっても戦い続けた少女の。


「その想いの価値も、意味も——あなたが勝手に決めるなっ!」


 家族を絶対に守ると、扉越しにそう宣言した切なる声を想う。


「僕が今ここにいるのは、レンジュが諦めずに走り続けたからだ! 戦い続けたからだ!」

「…………」

「鏡花のサポートも、恭介さんの後押しも! 僕がここまで走って来れたのも! 全部レンジュの今日までの積み重ねがあったからだ!! ——だから今! お前を否定するために、僕がここにいる!!」


 昂る感情に、雪斗の内側から識力が漏れ出す。

 それそのものが幻想の性質を宿す特異な識力が、辺りの景色を蜃気楼のように歪ませてゆく。


「——撃て」


 シグナの素早い射殺命令。

 雪斗を仲間に引き入れることを諦めた男の対応は早かった。


「ユキト……!」


 レンジュの警告虚しく、無数の銃弾が雪斗に迫る。


 鉛玉の雨は——果たして。

 雪斗の目の前に生まれた空間の裂け目に呑まれて消えた。


「今のは……あの黒猫の能力ですか!?」


 無詠唱による仮想空間の作成、それによる銃撃の無力化。


「構いません、撃ちなさい!」


 力の正体に当たりをつけたシグナは再び射撃命令を出した。


「いずれ識力が尽きます! 物量で押し込むのです!」


 豪雨に負けない激しい発砲音と硝煙を、しかし雪斗は意に介さず。

 悠々と背を向けた雪斗は、比較的平らな瓦礫の上にレンジュを下ろした。

 雪斗は自分の上着をレンジュの肩に羽織らせ、優しく笑った。


「……なんで、来たのよ」


 レンジュは、雪斗を責めた。


「来るなって、私、言ったのに……!」

「言われた。けど、僕が君を助けたかったんだ」

「……っ、なに、してんのよっ」


 降り注ぐ銃弾も、雨も。

 雪斗が展開した空間の裂け目に飲み込まれて二人には届かない。


 絶対的な安全圏の中で、レンジュは大粒の涙をこぼす。


「アイツらに、目、つけられたら。ユキトの目的、邪魔されちゃう……!」

「…………」

「私の、せいで……ユキトに、迷惑かけて……! それが、嫌だったから……! だから、一人で来たの。来たのに!」

「——大丈夫だよ、レンジュ」


 雪斗はレンジュの頬を撫で、溢れる涙を指でそっと拭う。


「僕はアイツらには負けないから。それに、レンジュのせいなんかじゃない。君のせいだったことなんて一つもない」

「けど……!」


 とめどなく溢れる涙が雪斗の手をつたって、雨に濡れた瓦礫の上を滑った。

 雪斗は、安心させるように笑う。


「僕はレンジュの友達だからね。だから、いくらでも迷惑かけたって良いんだよ」

「……っ! それを言うのは……反則よ」


 かつて自分が言った言葉が返ってきて、レンジュは思わず顔を伏せた。


「待ってて、レンジュ」


 もう一度、少女の涙を拭った雪斗は静かに立ち上がる。

 その表情は、普段の穏やかなそれではなく。


 やるべきことを、たった一つ見据えた雄の顔だった。


「——君を守る。その涙を止めてみせる」


 振り返る雪斗が、同時に右手を軽く振る。


 ——世界から、雨が消え去った。


「〜〜〜っ!? 全員止まりなさい!」


 ピタリとかき消えた雨。異常性に気づいたシグナの号令に他の構成員たちも動きを止め、異常に気づいた者たちから順に困惑したように辺りを見回した。


「——。もう一度聞く」

「……!」


 明らかに雰囲気が変わった雪斗に、気圧されたシグナが一歩退いた。


「お前の言う未来に、レンジュはいるか?」

「……っ! あるわけないでしょう! 必要な犠牲というものです! 君にならわかるでしょう、楠木雪斗!」


 逆上するようにシグナが吠える。


「義妹を自身の身代わりに戦争へ行かせ! 廃人になった少女を置き去りに自らのために都市へ来た君なら! 進歩のために犠牲を厭わない精神を理解しているはずです!」


「……確かに、あの日。僕は何もできなかった。僕は自分可愛さに、夏希の前から逃げ出した。——でも、僕はもう二度と背を向けない! そう決めた!」


 雪斗が眦を決し、心臓の鼓動に従い識力が溢れ出す!

 その膨大さに、シグナたち『鍵』の構成員が表情を凍り付かせた。


「レンジュの言葉が、そうすべきだって僕に教えてくれた!!」


 吹き荒れる識力に世界の法則が歪み、しんしんと、白い雪が降り積もる。


「レンジュの未来が進歩の犠牲になるのなら。それを、お前たちが引き起こすなら!」


 雪斗が右手を正面の虚空に翳す。

 すると、どこからともなく一匹の黒猫が踊るように手の甲へと舞い降りた。


《征くぞ、我が契約者よ》


 雪斗の無言の肯定に、黒猫は一冊の巨大な本に姿を変える。

 ——大きな、見たことのないサイズの本だった。

 雪斗の体幹を覆い尽くすほどの、金の刺繍が施された黒い表紙の本が。


「——そのふざけた現実を! 理不尽を! 不条理を! 立ち塞がる何もかもを、僕がこの手で拭い去るっ!!」


 雪斗の目の前で、開かれた。



「『——幻想世界の空に告ぐ!』」



 瞬間、雪斗の全身から爆発的に識力が溢れ出し、世界を席巻した。


「なんっ……なんですか、これは!?」


 雪斗が発する絶大な識力に、シグナは反射的に簡易観測装置を胸から取り出し、そして絶句した。


「測定、不能……!?」


 一般的な写本使いアクターの識力消費、その100すら観測可能な計器の故障に、シグナはあらん限りに目を見開いた。


「『万象見渡す宵の淵 希望育むしずの唄』」


 遮るもののない、荘厳な祝詞が響き渡る。


 幻想が世界を覆うように、粉雪はやがて吹雪へと至る。

 雪斗を中心とした半径2km圏内、旧建設地区の全てが季節外れの豪雪に見舞われていた。


「か、観測班……! 南地区旧建設地区を見なさい! た、待機中の戦力を全て南へ! 今すぐに!!」


 泡を食ったシグナは、八つ当たりをするように他の構成員に檄を飛ばす。


「何を見ているのですか! さっさと撃ち殺しなさい!!」


 シグナの号令に、吹雪に体温を奪われていく構成員たちが焦りながら雪斗へ照準を合わせ、掃射。


 しかし、届かず。

 無詠唱で生み出される世界の裂け目が弾丸を飲み込み、一発たりとも雪斗へ届かない。


「か、観測班! 何をしているのですか! は、早く報告を! 増援を——」

『うーい、こちら観測班』

「は……?」


 通信機の向こうから聞こえた、耳にするだけで苛立つ仕事嫌いの同僚の声に、シグナの額に青筋が立った。




◆◆◆




「わりーけど、待機中のやつ全員お昼寝中なんだわ。だから諦めてくれや」

『き、様……篠原恭介ェ……!!』

「随分と刺激的な有給休暇じゃねえか、シグナ」


 通信機の向こう側は、奇襲をかけた恭介ただ一人によって壊滅していた。

 意識のあるものは、恭介ただ一人である。


「ようやく尻尾見せてくれたな。……っと。そういや観測報告だったな。いいぞ〜。気分がいいから特別にやってやる」

『無気力な貴方が、何故……!!』


 一言一言が神経を逆撫でする恭介に、シグナは怒りのあまり問いかけた。

 回答は、しごく単純なもの。


「んなもん俺が教師で、レーベックが生徒だからに決まってんだろ。悉くアイツのSOS握りつぶしてくれたみてえだな。——今度はテメェが希望を潰される番だ、シグナ」


 恭介は、煽りすぎたなー、と。

 今にも通信機をぶち壊しそうな気配のするシグナに、ほくそ笑みながら観測結果を伝えた。


「えーっと数字は……あ? これなんて読むんだ? わかんねえけど……あ! あっはは! すげえな雪斗のやつ! と同規模だってよ!」

『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!』

「あ、切れた」


 恭介は特に感慨もなく、適当にデータの回収を始める。


「後始末ヤバそうだなー。でもなんとかするって言っちまったしなぁ……はあ、暫くサービス残業かぁ」


 来月に高額なクレジットカードの支払いを待つ男は、自分から引き受けてしまった仕事の難易度に憂鬱なため息をついた。




◆◆◆




「ふざけるな……これが、一人の人間の識力とでもいうのですか……!? こんなことが、許されるわけが……!!」


 吹雪の世界の中で、雪斗はシグナたちを睥睨する。

 その目にあるのは、殺意でも、敵意でもない。


 そこにあるのは、たった一人の友を守る誓いを立てた意志だった。


「『涙を拭えし、安らぎの暇』」


 祝詞は完成に至り、吹雪の世界が終わりを迎える。


『眩き陽の永遠はなく 夜よ、等しく降り注げ!』



 弾倉の尽きた構成員たちは肩で息をし、シグナは怒りと、自分の心臓を鷲掴みにされるような未知の感情に身を震わせる。


 その、眼前。

 吹雪の空が晴れ渡る。


「……ふざけるな」


 シグナの声は震えていた。

 彼だけではない。

 その光景を見ていた者全てが、理解を拒んで、ただ、仰ぎ見る。


「今は、まだ夕方にもなっていないんですよ……! 学術都市は、雨に見舞われているはずなんですよ……!!」


 たった一人、レンジュは。

 吹雪の中でも不思議と寒さを感じなかった少女は、頭上に広がるそれを見て小さな歓声を上げた。


「綺麗……」



 見上げた先の、無窮の星空へと。



「なんなのですか、この夜空はァ——!?」


《——これなるは、一つの奇跡の具現》


 雪斗が右手に持つ巨大な一冊の本の中から、半透明の黒猫が姿を現した。


《不可能を可能へと至らしめ、この暗き現実を、理想にて染め上げる願いの紡ぎ手である!》


 黒猫の高らかな唄声に呼応するように、雪斗の身にも変化が訪れる。

 虚空より滲み出た夜色のケープを羽織り、頭上には半分に割れた冠を戴く。


《決意と、願いと、契約をもってここに告げる——王は回帰したと!》


 雪斗の肩で、黒猫は高らかに唄い啼く。


《——この夜空を仰ぎ見よ!!》


 空間一帯を覆う夜空に星々が祝福のように瞬いた。


《これなるは原初、世界を創りし七柱が一つ、幻想が生み出す夜空なれば! ——名を、“斜陽の黒”!》


 それは、始まりの空。

 世界が生まれたその瞬間、眩き光と共に訪れた、万物万象を包み込んだ夜である。


 ——なればこそ、彼の右手にあるものこそが。


《ここに立つ楠木雪斗こそが! 『原典』を担いし、我らが幻想の王である!!》


『なっ——!?』


 その宣言に、誰もが言葉を失った。

 シグナは再びの絶句に目を見開き、レンジュすらも、驚きに両手を口に当てた。


「ユキトが、幻想の……?」


「馬鹿な……『原典』だと!?」


 失われたはずの『原典』の実在。

 『鍵』の構成員の誰もが否定しようと口を開き、しかし、雪斗が放つ桁違いの暴圧に否応なく口を閉ざした。


「——行こう、クロ」


 幻想の王、楠木雪斗は。


「この幻想で、暗闇の未来を塗り替える!」


 星が照らす夜の下で、自らの願いに誓いを立てた。

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