第20話 君の笑顔が見たいから

「——どうか、健やかに。レンジュ」


 少女が幼い頃、父と母は毎晩必ずそう口にした。


「なりたい貴女に、なれますように」


「貴女が笑顔で過ごせますように」


 そう願う父と母。

 レンジュは幼いながらに、二人にはどこか諦めがあることを察していた。

 それがどんな諦めなのかは当時のレンジュにはわからなかった。だが、二人の願いを叶えるのなら。


 レンジュは、大好きな両親にこそ笑っていて欲しかった。

 二人の笑顔がないと、きっと自分は心から笑えない。

 そう知っていたから。



 だから、二人を笑顔にできるような、そんな自分になりたいと。



 幼き頃のレンジュは、そう心に誓った。





◆◆◆






 午前中までの清々しい青空は雲に隠れた。


 その日の午後、学術都市には都市全土で激しい雷雨が降り注いでいた。

 白亜の街並みは荒天によって薄暗く灰色に濁り、仮初の大地を叩く大粒の雨が白波のように視界を遮る。


 区画の移動制限は未だ続く。

 たった一人の少女を捕らえるために治安維持局は増員に増員を重ね、厳戒態勢の北西・北・北東区画は自然と市民が外を出歩かなくなっていた。


 その緊張は学術都市全土に広がり、降り出した雨のように、収束の気配は未だに訪れない。


 ——レンジュ・レーベックが指名手配されてから、三日目のことである。





◆◆◆





「『——式、武勇礼賛の拍を鳴らす』」


 濡れた髪が頬に張り付くのも厭わず、レンジュは荒い呼吸で祝詞を紡ぐ。


「『汝、喝采の名は雷』」


 南区画・南西部。

 立入禁止区域に指定される旧建設地区のビル群の足下。


 少女が右の腰に備えた写本グリモアの表紙から雷火が散り、開発途中で放棄された骨組みだけの空間眩く照らされる。


 識力充填。

 情報閲覧。

 干渉——事象構築。


「『担うは細腕、瞬きの中に閃け!』」


 左手が握る、剣をかたどったいかづちが閃く。


「シッ——!」


 レンジュ・レーベックは、鋭い気合いと共に雷剣を一閃。

 鉄筋コンクリートの柱越しに、『鍵』の構成員の一人の臓腑を焼き斬った。


 自然系統カテゴリ・第六世代。

 レンジュが持つのは、天候に関わる現象の再現や応用を可能とする写本グリモアである。


 その手に宿るは、電荷の操作による擬似的な雷の生成と反復、有効範囲の限定による、敵を内部から焼き切る雷の剣だ。


「次は……」


 鈍い悲鳴と共に崩れ落ちる相手の安否を確かめる余裕もなく、後方からの発砲音。


「——っ!?」


 反射的に柱の陰に隠れたレンジュだったが、逃げ遅れた左肩が浅く抉れた。


「んのっ、一体……何人いんのよ……!」


 レンジュが奪った一冊の写本グリモアは、『鍵』を自称する『大いなる鍵』の残党たちにとって、レンジュの想像以上に重要な一冊だったらしいと。


 レンジュはこの三日間絶えず自分を追ってきた連中の鬼気迫る様相に、『いい気味ね』とほくそ笑んだ。






◆◆◆






 雪斗たちがブラックマーケットを訪れた日。

 レンジュはそこで、“気まぐれな女の子”を自称する、血のように真っ赤な髪色の女という協力者を得た。


 情報筋も素性もわからない相手だったが、二年間の空振りを続けてきたレンジュにとっては、まさに蜘蛛の糸の如き救いの手だった。


「『鍵』はぁ〜、自分たちの手で『原典』を作ろうとしてるんだよねぇ〜」

「知ってるわ。あと、私はアイツらの目的なんてどうでもいいのよ」

「そんなこと言わないでよぉ〜レンジュちゃん?」


 黒鉄の世界の端で、二人。

 甘ったるい声音で、女はレンジュの背後から肩に手を回した。

 するりと、獲物を狙った蛇のような身のこなしにレンジュの顔が嫌悪に歪む。


「大事なことよぉ? あの孫子も、敵を理解しろって言ってたわぁ〜」

「……目的が、なんなのよ」

「うふふ〜。彼らの理論では、『原典』の作成には星のエネルギーが必要なのよねぇ〜。ところでぇ、レンジュちゃん」


 血のような女は、レンジュを試すように問いかける。


「星のエネルギー……つまり地脈ね。これを必要とすることぉ、心当たりあるんじゃないのぉ?」

「……写本グリモアの、作成」


 女は心底、愉快そうに笑った。


「うっふふ! 正解〜。『鍵』の人たちにとってぇ〜、地脈の確保は最優先なの〜。だから貴女の家が狙われたのね〜、うふふふふ!」

「何が面白いのよ……っ!」


 いちいち神経を逆撫でするように笑う女に苛立ちを募らせるレンジュ。その姿に、女は少しだけ寂しそうに、つまらなさそうに唇を尖らせた。


「もぉ〜、そんなに怒らないのぉ〜。ここからが大事なんだからぁ」

「勿体ぶらないで、とっとと教えて欲しいのよ」

「せっかちだねぇレンジュちゃん。そんなことだとぉ、幻想の男の子に嫌われちゃうよぉ?」

「……っ!」


 脈絡なく出てきた雪斗を指す言葉に、レンジュの心臓が強く跳ねた。

 顔に出たのかはレンジュ本人にはわからなかったが、変化を感じ取っていた女はにんまりと笑みを浮かべた。


「かわいいねぇ、レンジュちゃん」

「……ユキトは、関係ないわ。大事なところについて教えなさい」

「……んもぅ、つれないなぁ」


 ほんの一言、女は少女のような無邪気な不満を口にした。

 頬を膨らませた女は、しかし次の瞬間にはまた甘ったるい、脳髄を刺激する声を発する。


「彼らにとってぇ、地脈は絶対条件なのぉ。けどねぇ、レンジュちゃんにそれを止めることはできない。……だったらさぁ、レンジュちゃん?」


 それは、悪魔の囁き声のようで。


「彼らの実験に必要な写本グリモア、レンジュちゃんが全部ぜーんぶとっちゃえばいいんじゃなぁい? そうしたらぁ、彼らが地脈を持つ意味もなくなるんじゃないかなぁ〜?」


 実現可能性なんて何一つ考慮してない、ただ、屋上から一人の人間を突き落とすような、殺人教唆にも等しい提案だった。


「……どこで取引、やってるの?」


 しかし、レンジュは躊躇いなく自ら飛び降りる選択をした。


「——うふふふふふ! それを今からするのよぉ〜」


 女は期待通りの反応に、小躍りするように笑い転げた。





◆◆◆





 ブラックマーケットの一斉摘発による警備の厳戒化、摘発位置を偏らせることで治安維持局の警備網に偏りを生み出し、『鍵』の取引場所を誘導した。


 それでも最後は賭けだったが、レンジュは数ある候補の内から一つ、ドンピシャで見つけ出した。


「絶対、逃げ切ってやる……!」


 銃弾が掠った左肩の訴える、焼けつくような痛みを無視。

 レンジュは仮想の質量を持った雷剣を再び柱越しに振り抜いた。


「足音、聞こえてるのよ……っ!」


 二人の大の男が落雷に匹敵する電流の放出を受け、レンジュの死角で崩れ落ちた。


 左腰に備え付けた生命系統カテゴリの第七世代。

 雷剣から漏れ出す電流を生体電気へと変換することで、神経の情報伝達速度を向上させる。


 疲れていようと、識力が続く限り今のレンジュに不意打ちは効かない。


「ぜったい、絶対に守ってみせる!」


 柱に一つ、今一度走り出す。

 後方や上層から響く、二十人は超えるだろうと推測できる夥しい数の足音。

 たった一人の、学生にすぎない少女に対してあまりにも過剰な戦力投入が、敵が焦っていることの証左だった。


「あんたたちに、私の故郷は壊させない!」


 今日の昼過ぎ、雨が降り出すと同時に捕捉されてから早、三時間。

 レンジュが無理やり浮かべる笑みには、隠しきれない疲労が強く滲んでいた。


 最後にいつ寝たかを思い出せない。

 確か半日前に仮眠をとったはず、そう思いながらも確信が持てず、そもそも仮眠はちゃんと取れていたのか。


 水は飲んだか? 食事は摂っているか? ——何もわからない。

 半日前の、それより前の自分が思い出せない。

 ただ、ふらつく足は自分の限界が近いことをレンジュに伝えていて。


 桜の花びらを散らす激しい雨に体温を奪われた少女は、いよいよこの逃走劇の行き止まりが近いことにほぞを噛んだ。


「はぁっ……はぁっ……!」


 不自然な鼓動に脳を絞られるような頭痛。

 指先の感覚はもうない。


 目も霞んで、時折視界が突然揺れる。

 識力も底が見えている。


「それでも、守るっ!」


 引き金に指をかける音に、レンジュは無意識にその場で横転し射線を躱わす。


 膝をついた先で立ち止まらず、90度、方向転換。

 力を振り絞って感覚のない足を動かして逃走を図る。


「もう一度、みんなで……!」


 家族団欒の夢をみる。

 『鍵』によって、いつの間にか失われてしまった、暖かな笑顔の絶えない居間の景色を。


「……っ!?」


 前方、上階との行き来が可能な階段がレンジュの目に入る。

 その最上段に、敵の足が見えた。


「絶対に……っ!」


 ——囲まれる。

 そう悟ったレンジュの判断は速かった。

 背負っていた鞄の中から、セーフティ付きのを取り出し。


「みんなで笑うのよ——!」


 躊躇いなくボタンを押し込んだ。


 ——爆発が連鎖する。


『〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?』


 レンジュが逃げながら柱に設置し続けた小型爆弾が一斉に起爆。

 柱はレンジュの狙い通り吹き飛び、支えを失ったコンクリートの足場が『鍵』の構成員とレンジュを諸共に飲み込んだ。





◆◆◆





 建設途中だったビルが一棟、轟音と共に崩れ落ちた。

 激しい雨音すら貫通して響き渡った崩壊音はやがて途切れ、巻き上がった土埃もまもなく雨によってかき消された。


「ゲホッ、オェッ……………ぁぁ、ぅあ」


 そんな人災の中であっても、レンジュは奇跡的に生き延びてきた。

 頭部からの出血と、右腕の骨折こそあったが、大崩落の中でそれだけの怪我で済んだのは奇跡と言う他ない。


「ふふっ……ザマァみろ、ね」


 逃げ切ってやったぞ、と。

 レンジュは瓦礫の下に埋まった連中に向かって疲れ果てた笑みを向けた。


 出血と骨折、おまけに雨に濡れて低体温。

 意識を保っているのもギリギリだったが、逃げなければならない、と。

 レンジュはその場から立ちあがろうと足に力を込めた。


「……あれ?」


 だが、力が入らない。

 いよいよ限界を超えた少女の両足は、もはや自分で動かすことがままならなくなっていた。


「このっ……! 這って、でも!」


 唯一、かろうじて動く左腕でなんとか移動しようと試みるレンジュ。

 そんな彼女の頭上を、ビニール傘が覆った。


「手を貸しましょうか、レーベックさん」

「……貴方、は」


 目の前の人物がなぜこんなところにいるのか、レンジュがそう問い糺すより早く。


「まったく——、手間をかけさせてくれましたね」


 傘の持ち主はレンジュの折れた右腕を乱暴に掴み上げ、近くの瓦礫に叩きつけた。


「ゴホッ——!?」


 背中から叩きつけられたレンジュがその場にずり落ちて激しく咳き込んだ。

 そんな彼女を気にする素振りすら見せず、男はレンジュが膝をついていた場所に落ちていたリュックサックを拾い上げ、中からレンジュが強奪した一冊の写本グリモアを回収した。


「……ああ、ちゃんとありましたね。貴女が優等生で助かりましたよ」

「……かふっ、づ、……やっ、ぱり」


 レンジュは、心の底から相手を呪うような暗い目つきで目の前の男を睨んだ。


「あんた、『かぎ』、なのね……しぐな」

「おや、驚かないのですねレーベックさん」


 男性教師のシグナは、さして驚いた様子もなか傘の下で悠々と頷いた。


「ええ、そうです。私は貴女の監視役として学園に潜入していました」


 自らの役目をばらすシグナに対して、レンジュもまた驚きはない。


 そもそも学園を信用していなかったレンジュにとって、今さら教師の一人や二人が敵に回ったところで何も感じはしなかった。


「それ、を……! よこしなさい……!!」


 歯を食いしばったレンジュが這うようにしてシグナに手を伸ばす。

 対するシグナは、心底見下したような表情で伸ばされた手を蹴り飛ばした。


「——くだらない。何にしがみついているのですか、レーベックさん」


 シグナは学園での温厚な教師という皮を脱ぎ捨て、冷徹に、嫌悪の眼差しをレンジュに向ける。


「この都市で貴女も学んだはずです。写本グリモアという名の奇跡の末端を。貴女は知ったはずです。探求者たる我々が目指すべき高みを!」


 手元の写本グリモアに瑕疵がないことを確認しながら、シグナは心の底から疑問視する。


「真理の探求という崇高なる我らの使命を前に、! なにをしがみついているのですか?」

「……なに、言ってんのよ」


 レンジュにはわかってしまった。シグナが本気で言っていることが。

 本気で、都市一つ、街一つが滅びてもいいと思っていることが。


「…….しの。私の、故郷なのよ! どうでもいいわけないでしょ!?」


 血が混じった痰を吐き出し、レンジュが激昂した。


「ひいおじいちゃんが守ってきた土地なのよ! おじいちゃんが、パパが、ママが! 暮らしてきた家なのよ!! ——私が大好きな場所なのよ!!」

「——だから、なんだと言うのです?」

「は……?」


 何もわからないとシグナが小首を傾げた。

 その無邪気な子供のような姿が、レンジュの目には途方もなく悍ましく映った。


「それは、私たちには不要なノイズでしょう?」

「アンタ、本気で……」

「貴女こそ、正気ではないでしょう。……嘆かわしい。せっかく機会を与えたというのに、貴女もまた、堕落した思想に染まってしまったのですね」


 シグナは世界を見下す。

 くだらないものだと唾棄する。


「——人は堕落しました」


 シグナは、『大いなる鍵』の残党は。


「『原典』の解読。真理の探究。138億年の宇宙史の中で、人類こそが最も始まりへ近づいた種であることに疑いようがありません」


 訥々と、レンジュというたった一人の生徒に向けて講義を始めた。


「遠い祖先は『原典』に触れ、無数の命を散らし、屍を積み上げました。全ては『原典』の解読のため。種のさらなる進化と永劫の存続のために!」


 『原典』を読み明かすことこそが人類最大の目的だと豪語する。


「しかし、人は堕落した! 真理の探究という崇高な目的は、権力争いの道具に成り下がり、子供のお遊戯の一環へと失墜した! この都市を見なさい、レンジュ・レーベック!!」


 傘を持たない左腕を広げたシグナが血走った目をレンジュに向けた。


「都市は今や技術の実験場に成り果て! 競技祭などというくだらない茶番に人々は金を落とす! 本来の目的など忘れ! ただ有限の時間を食い潰すことしかしない、歴史への寄生虫が現代の人類だ!!」


 興奮に呼吸を荒げたシグナが高らかに叫ぶ。


「何が写本使いアクターだ! くだらない! 仮初の舞台上で踊らされているだけの、それにすら気づかない凡俗共が!!」


 本性を現したシグナに、レンジュはただ瞠目した。

 秘めた憎悪の発露に、無意識に体を縛られていた。


「我らは『原典』をこの手で生み出す。貴様らが金と権力に執心し、愚かな争いに身を投じている間。我らは愚かな先達たちの過ちを超え、自らの手で第四世代に匹敵する写本グリモアを生成した! それがこれだよレーベック!」


 シグナは、レンジュが強奪を試みた写本グリモアをまざまざと見せつける。


「レーベック、貴女は今! 人類の進化を台無しにしようとしていたんですよ!!」

「……その進化で、私の故郷はどうなるのよ」


 レンジュの震えた声の問いかけに、シグナは淡白に答えた。


「壊れます。実験が成功しようが、失敗しようが」

「……っ!」

「地脈のコントロールのためには莫大な資源とコストが必要です。様々な施設も不可欠です。そのためにあの街を買い取ろうとしているんですから」


 ——無理やり奪わないだけ感謝してほしい、そんなニュアンスすら含まれるシグナの回答に、レンジュはあらん限り拳を握った。


「——ふざけんじゃ、ないわよっ!!」


 識力充填。


 搾りカスのような識力が生命系統カテゴリ・第七世代に注ぎ込まれ、レンジュの体をパルスが駆け巡る。


「な——!?」


 脳の命令を外部から強制された肉体が弾かれたように動き、シグナの不意をついた。


「うあああああああっ!」


 さらに、無詠唱による雷剣の生成。

 完全な奇襲が決まる。


 ——直前、レンジュの側頭部に銃床が叩きつけられた。


「——っぷぐ」


 横から脳を揺らされたことで制御が途切れ、瓦礫の上に崩れ落ちる。

 辛うじて動いた少女の両目は、瓦礫の中から立ち上がった男が、銃身を持って銃を振り抜いた姿を捉えた。


「……な、ん…………で」


「貴女もご存知の保護機能セーフティーですよ。学園の指定運動着にもあったでしょう? 全く……早く起きてください。職務怠慢ですよ」


 呆れ声のシグナの言葉を受け、倒したはずの敵が、次々と瓦礫の中から立ち上がる。


 自分の戦いが全て無為に帰す、そんな光景に。

 レンジュの双眸から、涙が滲んだ。


「全く嘆かわしい話です。これだけの才能がありながら、旧態依然にしがみつくなど。——全員、写本グリモア用意」


 『鍵』の構成員たちは物質系統カテゴリ・第六世代の写本グリモアを用い、ビルの崩落で壊れた銃器を再構築した。


「貴女には期待していたんですよ、レーベックさん。才気溢れる貴女なら、我らに賛同し、貴女のご家族を説得してくれると」


 シグナは自らも拳銃を構え、撃鉄を起こした。


「愚かですね。真理の偉大さに気づくことができていれば、無駄な努力を重ねた挙句、無駄な死を経験することもなかったものを」

「わた、し、は……!」


 もはや起き上がることも叶わない。

 ただ涙を流すことしかできないレンジュは、ギュッと瞼を閉じた。


 脳裏に思い起こす、両親への愛。

 新しくできた友への感謝と謝罪。


「穏便な説得案が潰えた今、貴女を生かすメリットはありません」


 シグナの淡白な声は、レンジュのぼやけた聴覚では捉えられなかった。

 ただ、脳裏に。


『私はレンジュ・レーベックよ。レンジュって呼んでくれていいわ』

『僕は楠木雪斗。僕のことも雪斗でいいよ』


 走馬灯のように、駆け抜ける思い出があった。


「……すけて、……き、と」



「撃ちなさい」


 引き金は、残酷にも押し込められた。





◆◆◆





 薄暗い部屋の中。

 十台のモニターの前で、鏡花は天井を見上げていた。


 ——あの日、ブラックマーケットで。


 鏡花が雪斗を「主人公みたい」と評した時。

 彼は自分を、「そんな凄い存在じゃないよ」と卑下した。


 だが、今改めて思う。

 荒唐無稽な作戦。出鱈目な計画。実現可能性が極めて低いギャンブル。


「……みたい、じゃない」


 そんな全ての不確定要素を乗り越えて。

 自分のトラウマすら超えて、そこに辿り着けるのなら。


「雪斗は、主人公」


 有栖川鏡花は、そうしてまた、最大級の賛辞を送った。





◆◆◆





 銃弾の雨が晴れた時、そこにレンジュはいなかった。


「消え——っ!?」


 目の前から、突如としてレンジュが消えた。

 肉片が残らなかったとか、そういう話ではない。忽然と、存在が消えた。


 まるで、最初からそこにいなかったかのように。


「一体どこに!?」


 慌てるシグナの背後で、ざり、と。

 瓦礫の山を踏む足音がした。


 全員が一斉に振り向いた先では、一人の少年が。消えたはずのレンジュを抱きかかえ、静かに立ち尽くしていた。


「……遅くなってごめん、レンジュ」


 少年——楠木雪斗は。


「君を、助けに来た」


 静かな怒りを滾らせて、眦を決した。

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