第17話 罪の意識と前進の意志

 『原典』と写本グリモアの研究は、長い年月と無数の失敗の積み重ねによって微々たる進歩を続けてきた。


 しかし、1948年にアメリカ合衆国の研究所が、『循環系統カテゴリが有するの性質が、他の系統カテゴリに属する写本グリモアへと作用する』、という研究結果を発表して以降は目立った成果も進歩もなく、研究者たちは焦りを募らせていた。


 そんな焦りは目先の安易な結論に一部の研究者を駆り立て、『大いなる鍵』の破綻した理論は土地一つを永劫汚染する、最悪の実験事故を引き起こした。




◆◆◆




「わかってたのよ、時間がないことくらい。でも、いざこうして突きつけられると、急に怖くなったの」


 ——もし、間に合わなかったら?

 ——ほとんど出奔同然で学術都市に来たのに、何もできずに終わってしまったら?

 ——想定よりずっと早く事が起こったら? ……家族が、実験に巻き込まれたら?


 全てはレンジュの推測。

 言ってしまえば被害妄想の域を出ない。

 だが、名前の類似や目的の相似。そしてなにより、チェルノブイリという前例の存在。

 親元を離れた16歳の少女の心を苛むには、十分すぎる材料だ。


「時間がない、急がなきゃって」

「……だから、学園を休んでたんだね」

「ええ」


 扉の向こうから届いた肯定は短く。

 レンジュの精神的余裕のなさの表れのようだった。


「ねえ、レンジュ」


 雪斗は振り返って、扉の向こうにいるレンジュを想う。


 もう、何もできずに立ち尽くすのは嫌だから。

 目の前に、手の届く場所にいるのに、膝を折って後悔なんてしたくなかったから。


「僕に何か、できる事があれば——」

「ないわ」


 ピシャリと。

 にべもなく、レンジュは雪斗を拒絶した。


「……っ。なんで、なの?」

「これは私の問題よ。貴方を巻き込むわけにはいかないの」


 レンジュは、その一線を譲ろうとしなかった。


「それに、ユキトにもあるんでしょ? 編入してまで叶えたかったことが」

「それは……」


 探求者の卵といえど、学生たちの大半は崇高な理由や目的など持っていない。

 それは当然と言えば当然で。

 彼らと外の世界の学生たちとの違いは、写本グリモアに関わる才能を見出されたか否か、ただその一点だけなのだ。


 たったそれだけの差異で、探求者としての志しを若くして有するなど稀な話である。


 そんな中、雪斗は編入という手段を取り、編入初日に明確に『原典を読み解きたい』と言い切った。


「『原典』、読み解くんでしょ? なら、私に付き合って危険を侵したらだめよ」

「でも——!」


 優しさを装って冷たく突き放すレンジュに雪斗がくらいつく。


 貰いっぱなしで何も返せていない。

 会ったその日から、ずっと。


 初めてできた友人が困っている。苦しんでいる。

 それを知っているのに何もしないなんて選択を、雪斗はもう、絶対に選びたくなかった。


「僕がダメなら僕じゃなくたっていい! 鏡花とか、恭介さんとか……学園に助けを求めれば!」

「——ダメよ、それは」


 レンジュは、怒りと諦観の籠った言葉を吐き出した。


「学園には、とっくに助けてって言ったわよ」

「え……」

「けど何度掛け合ってもダメだった。所詮は同族ってことよ。真理に達するためなら犠牲なんて気にしてないの」


 そんなことない、と。雪斗は言うことができなかった。

 一週間前の授業で、シグナは実験事故の無計画や無謀を責めこそしたが、事故の可否については一言も告げなかった。

 いや、むしろ探究のための実験であれば積極的に行うべき——そんな姿勢すら感じられた。


「バカ教師の雑用手伝ったり、学園からの心象が良くなれば態度が変わるかもって試したけど、それもダメだったわ」

「…………」

「——ユキト。私は家を、家族を守るためなら手段を選ぶつもりはないわ。だから、貴方は


 突き放すレンジュの態度に、雪斗は。


「なら……」


 肩を震わせて、千切れそうなほどに強く唇を噛み締めた。


「なら、なんで僕に話したんだよ!?」


 吠える。


「困ってるって、大変な目に遭ってるって! 突き放すなら、なんで言ったんだ!?」

「ユキト……」


 雪斗は握った拳を思いきり扉に叩きつけた。

 らしくない激情に、レンジュは背中を伝って胸に届いた扉の振動に思わず俯く。


「同じ編入生だったから、かしら。なんか、話してもいいかなって思っちゃったのよ」


 レンジュは、苦しげに笑みを浮かべる。

 それが雪斗には見えない表情だったとしても、自分は大丈夫だという、自分への意思表示のために。


「ごめんなさい、迷惑だったわね」


「迷惑だなんて……! 迷惑かけていいって言ったのはレンジュだろ!? 苦しんでる声を聞いて! 『そうなんだ、頑張ってね』なんて、言えるはずないだろ!?」


 幻想による欺瞞にかまけて、雪斗は何度も鍵のかかった扉を叩く。


「友人が……大切な人が苦しんでるのに! 目を背けるなんて、僕はもうしたくない……!!」


 だから頼ってくれ、と。

 そんな雪斗の願いは。


「……ありがとうユキト。でも、貴方を巻き込むことはできない」


 それでも、届かず。


「私のせいで、貴方の目的が果たせないのは嫌だもの」

「僕の目的なんて!」


 この時雪斗は、レンジュがどんな顔をしているのか、克明に想像できた。

 自分を責めて、抱え込んで、押しつぶされそうになっている時の顔だ。


「今は、そんなこと……!」

「やりたいことがあるから都市に来たんでしょ? ユキトは、」

「——違う!」


 扉を叩く手を止めて、雪斗はその場でずり落ちるように膝をついた。


「違うんだよ、レンジュ。僕は……そんな立派な目的なんて、持ってないんだよ」

「ユキト?」


 急に声が萎んだ雪斗に、レンジュは半分、扉を振り返って目を向けた。


「僕は、僕には目的なんてない。だって……僕は逃げてきたんだから」

《雪斗よ……》


 ずっと沈黙を選んでいたクロは、主の心の乱れを心配するように喉を鳴らした。

 クロの視線の先で、雪斗は後悔に顔を歪めて懺悔を吐露した。


「——僕は、義妹から逃げてきたんだ」






◆◆◆






 ——一年前の春、勝者不在のままパナマ戦役が終わった。

 そして、一報から三ヶ月後の夏の日。

 楠木夏希は、一人の男性兵士に連れられて孤児院へと帰還した。


「夏希……」


 2年ぶりに再会した夏希は、別人のようになっていた。


 背が伸びていた。

 顔つきも前より幼さが抜けていて。……右頬と首の左側に、爛れた火傷の痕がくっきりとあった。


 軍服を着ていた。

 汚れが酷く、縫い目もほつれ、何箇所も破けて、修繕の後があった。


 目が虚で、ぼんやりと虚空を見つめていた。


 ——男性兵士の押す、車椅子に乗っていた。


 雪斗は何か声をかけようとして、でも、何で言えばいいかわからなかった。

 再会を信じていくつもの言葉を準備していたのに、いざ対面するとそんなものは全部吹き飛んだ。


 雪斗の後ろに立つ季一や春香も同様だった。


 だから、雪斗はたった一言。


「おかえり、夏希」


 そう言って、迎え入れた。


「…………」


 虚空を見つめる夏希の目はピクリとも動かず。

 雪斗の声にも反応せず。


「……! クソッタレめ……!!」


 唯一気づいた季一が、怒りのあまり自分の頬を殴り飛ばした。


「院長!?」

「お婆ちゃん……!」


 駆け寄ろうとする雪斗と春香を制した季一は、今度は男性兵士の目の前まで歩いて、その顔面を思いきり殴りつけた。


「ふざけんじゃないよっっ!」


 季一が押し倒そうと力を込めると、男は抵抗しなかった。

 馬乗りになった季一はそのまま、枯れ枝のような両腕で、男の顔面を執拗に殴打した。


「お前たち! 一体どれだけ夏希を使った!? どれだけの地獄を見せた!? ……心が、壊れちまうまで! 餓鬼を使って戦争してんじゃねえよクズ共が——!!」


 花のように笑う少女だった。

 雪斗を特に慕い、他人を思いやれる優しい少女だった。


「こんな老いぼれの体を気遣う優しい子だったんだよ! それを、テメェら……廃人にしやがって——!」


 あの時止められなかった自分の不甲斐なさへの怒りすら拳に乗せても。

 老いた季一の腕力では、精々、男に鼻血を一筋、出させる程度が限界だった。


「夏希……」

「夏希、ちゃん」


 雪斗と春香、二人の呼びかけに。

 夏希は、ピクリとも反応しなかった。




 戦争を経験した夏希は、医者に『再起不能だ』とほどに、心が壊れていた。

 脳みそが、外部からの刺激のほとんどを拒絶するようになっていたのだ。



「春香。夏希はどうだい?」

「ご飯、食べてくれません。お水もこぼしちゃって……」


 ただ、死んでいないだけだと。

 植物状態の人間となんら変わらないと。


 孤児院の離れを改装した夏希の治療空間で、季一はぼんやりと目を開く夏希の側で春香の頭を撫でた。


「そうかい。他には、何かあるかい?」

「……うん。たまに、『兄様、兄様』って……雪くんのこと、呼んでる」

「その、雪斗はどうしてんだい?」

「今は寝てる。夜通し夏希ちゃんのこと見てたから」

「……そうかい」


 夏希がいない二年の間に、当時のことを覚えている子供は春香と雪斗を除いて、皆孤児院から巣立っていった。


 今、孤児院の最年長は春香であり、その次に雪斗が来る。

 残る子たちは夏希を知らない子か、忘れてしまった子ばかりだ。



 看病は、雪斗と春香、そして季一の三人で交代で、つきっきりで続けた。


 回復は無理だ、と言われようと。

 三人は、奇跡を信じて看病を続けた。



 ——変化は、ある冬の日に。



「夏希、今日は朝から雪が降ってるんだよ。止んだら、みんなで雪合戦しようってみんなはしゃいでるんだよ」

「…………」


 管を使って水を飲ませた雪斗は、ほんの少しだけ窓を開けて、吹き込む風の冷たさに身震いしてすぐに密閉した。


「夏希は雪合戦、いつも見てたよね。ここの窓からも見えるから、今年は寒くないよ」

「…………」

「待ってて。変えのシーツを取ってくるから」


 雪斗は立ち上がり、母屋の院に行こうとドアノブに手をかけた。


「…………、ぇ」


 その時。

 夏希の内側で、ゆらりと識力が立ち昇った。


「夏希……!?」


 変化を敏感に感じ取った雪斗は、慌てて夏希のそばへ駆け寄った。


「ぅ、ぁぅ」

「夏希、僕の声が聞こえる!? 僕の声、わかる!?」


 虚だった虹彩が震える。

 内側から確かな識力の躍動を感じる。


「ゆっくり、ゆっくり息を吸って!」


 突然芽生えた希望に、雪斗は自分自身が過呼吸を起こしそうになりながらも夏希に声をかけ続けた。


「雪斗! 夏希!」

「夏希ちゃん!」


 そんな雪斗の声を聞きつけた季一と春香が乱暴に扉を開けて離れの中に雪崩れ込む。


「——ぁっ、」


 その、扉の開閉音は。

 夏希に、撃鉄の音を想起させた。


「嫌……来ないで……」

「夏希……?」


 夏希の全身が小刻みに震え、見開いた両目の奥で動向が窄まる。


「近づかないで……!」

「夏希、落ち着いて! 深呼吸を——」


 尋常じゃない体の震え。何かから逃げるように身を捩った夏希は、雪斗の手を振り払い。


「来るな——っ!!」


 流した識力が大気を弾けさせ、雪斗を壁際へと吹き飛ばした。


「づうっ……!?」

「雪くん!」

「雪斗!」


 背中を強かに打ち付けずり落ちた雪斗が床の上で痛みに悶える。その表情は、困惑と恐怖に彩られていた。


「嫌……嫌嫌嫌嫌嫌嫌! そんな目で私を見ないで!?」


 半狂乱になった夏希の全身から無秩序に識力が吹き出し、呼応した大気が暴れるように渦を巻いた。


「違う、違う違う違う違う! 私は、私は化け物なんかじゃない! 私は兵器じゃない! 私は……私は……!!」


 全身を両手で掻き抱いて、勢いを増す夏希を中心に渦巻く大気が窓ガラスを叩き割った。


「畜生、PTSDってわけかい!」


 夏希がここにはいない、記憶の中の幻影に心を蝕まれていることを察した季一が雪斗を庇いながら舌打ちした。


「助けて……助けて兄様! 私はここにいます! ここにいるから……兄様、どこ!? どこにいるの!?」

「夏希——!!」


 義妹の悲鳴に、雪斗は痛む体を引きずって立ち上がった。

 幻想の識力で自分の体の状態を錯覚させ、前へ。


「僕はここにいる! ここにいるよ!!」

「兄様! 兄様……!?」


 二人の目が、合って。


「——違う!!」


 雪斗の体は再び、夏希の手によって一度目より強く吹き飛ばされた。


「ガッ、ゴホッ!?」


 脳を揺らされた雪斗が床を転がる。


「夏希ちゃん、何を……!」

「お前は兄様じゃない! 兄様はそんな声じゃない! そんな顔じゃない!」

「見えて、ないの……?」


 夏希の記憶は、二年前の徴兵の瞬間で固定されていた。


「兄様、兄様の声が聞こえない……顔が見えない……! どこ、どこにいるんですか!? 兄様、嫌……私をひとりにしないで!」


 そして、その記憶すら、苛烈な戦場で摩耗し、擦り切れていた。

 声も顔も思い出せない二年前の記憶かこの亡霊に縋って、夏希の目に、現在いまは映っていなかった。


「私を、置いていかないで……!」


 夏希は今も、戦場に囚われたままだった。




◆◆◆





 最終的に、季一が鎮静剤を投与したことで夏希の発狂は一旦の落ち着きを見せた。


「……雪斗の体は」

「打撲が酷かったよ。内出血もあるし、数日は安静。夏希ちゃんは?」

「今は落ち着いてるさね。……さて。植物状態を脱したことを喜ぶべきなのかねえ」


 回復、と言えるのかもしれない。だがそれは同時に、夏希に辛い記憶と向き合わせることを意味している。

 季一には、その判断がつかなかった。




◆◆◆




 体が痛かった。

 でも、足は動いたから、雪斗は新雪を踏んで離れへ向かった。

 壊れた窓の代わりに、突貫工事で貼り付けられたベニヤ板。

 随分と見窄らしくなった外観を視界に収めてから、雪斗はゆっくりとドアノブに手をかけた。


「…………っ!」


 手が震える。

 手だけじゃない。足も、体も、なにもかもが。

 寒さのせいだと言い訳するためにわざと薄手で来たけれど、寒さだけだなんて言い訳が効かないくらい、心がその先を怖がっていた。


「なつ、き……なんで」


 向けられた偽りなき殺意。

 義妹は、明確に自分を殺そうとしてきた。

 その事実に足がすくんで、怖くて。


「くそっ。なんで、動け! 動けよ……!」


 どうしても、扉を開けることができない。


「回せよ、畜生っ……!!」


 ドアノブに手をかけたのに、動かせなかった。


 0度を下回る夜。

 頬を零れ落ちる涙はパキパキと儚く凍りつき、地面を濡らすことはない。


「なんで、また動かないんだよ。 僕は、臆病のまま……!」


 どれだけ自分を罵っても、雪斗は、離れに入ることができなかった。





◆◆◆




「ちょうど、年始の頃だったんだ。恭介さんが孤児院にやってきて……ここのOBだって。だから、逃げ出すための口実に使った」


 全て、隠さずに話した雪斗は、静かに項垂れる。


「全部後付けなんだ。逃げてきたことを正当化するための」


 雪斗は恐ろしかった。あの場に1秒でもいるのが怖かった。

 愛する家族に殺意を向けられる苦痛が辛かった。

 あの日、自分のせいで戦場に行ったことで傷ついた義妹を直視するのに、心が耐えられなかった。

 全て、自分が弱いからで。

 全て、弱い自分から目を背けるためだった。


「だから、良いんだ。僕の事情なんて。レンジュが気にする意味なんて、何もないよ。……ああ、でも」


 後悔と罪悪感に塗れた独白を経て、少年は自虐的に嗤った。


「こんな情けないやつの助けなんて、欲しくないよね」

「…………」


 聞き届けたレンジュは、無意識に止めていた息を吐き出した。


「貴方がなんでそんなに自罰的なのか、分かった気がするわ。ユキト」


 レンジュはそこで一度言葉を区切って、自然と柔らかな笑みを浮かべた。


「だったら尚のこと、私についてきちゃダメよ」

「うん。やっぱり……」

「違うわよ。情けないなんて思ってないわ。むしろその逆よ、逆!」


 少女は立ち上がって、『どうせ項垂れているんだろう』と当たりをつけて膝をつき、扉を挟んで、雪斗の額に自分の額を合わせた。


「それだけ夏希ちゃんのこと想ってるんだから。絶対に助けないとダメよ」

「……っ!」

「ユキト、本当に逃げた奴は、自分のことをそうやって卑下しないわ」


 レンジュは、雪斗の独白を否定した。


「友達の私が保証するわ。貴方は今、ちゃんと戦ってるわよ」


 自分を責める気質は、何もかもを覚えている証明で。

 罪悪感も全て、考え続けている何よりの証だと。


「だからユキト、絶対に義妹いもうとさんを助けなさい! ——私も絶対、私の家を守るから」

「レンジュ……?」


 扉の向こうで、遠ざかる気配がした。


「——ありがとうユキト。なんか元気出たわ!」

「……っ! レンジュ待って!」


 感覚を裏付けるように遠くなる声に、雪斗は追い縋るようにが立ち上がり顔面を扉に強打した。


「……じゃあね、雪斗」

「〜〜〜〜〜っ、待って! 一人でなんて!」


 直感が叫ぶ。

 一人にしてはいけないと。

 ここで動かななければならないと。


「クロ! ベランダ!」

《承った!》

「レンジュ! そこで待ってて!」


 クロが猛スピードで外廊下を駆け抜ける側で、雪斗はロックのかかった扉に力を込めた。


「〜〜〜〜っ、クソッ! 鏡花が言ってたマスターキー盗んでくればよかった!!」


 立ち往生して数分。

 クロが内側から鍵を開けた。


《……ベランダから外に出たようじゃ。妾がついた時には、既に居なくなっておった》


 クロは、雪斗を勉強机の手前へ誘導した。


《これが残っておった》

「退学、届……」


 綺麗に整頓された机の真ん中に、一通の封筒が置かれていた。




◆◆◆





 翌朝、雪斗は憂鬱な気分で目を覚ました。


「……また、止められなかった」


 布団から起き上がって、机の上に目を向ける。

 そこにはレンジュの部屋から持ち出した、彼女の字で書かれた“退学届”が置いてある。


《結局持ってきてしまったが、よかったのかのう?》

「わからない。けど、僕は辞めて欲しくないから」

《それもそうだのう。さて、報告もする必要がある。雪斗よ、学園へ行くとしよう》


 呑気に毛繕いするクロに、雪斗は小さく頷いた。


「そうだね」





◆◆◆





 その日、学園は異様な空気に包まれていた。

 誰も彼もがコソコソと何か噂を立てるように互いに話し合い、しかし大声で喧伝することを憚っているような。

 どこか陰湿さを感じる空気。


《ふむ。何事かのう?》

「さあ……?」


 胸騒ぎを覚えつつも、雪斗は二階の教室へと入った。


 ——直後、全員の視線が一斉に雪斗を射抜いた。


「え……っ?」

《大注目じゃな》


 予想だにしない注目に雪斗が入り口で固まっていると、前列に座っている男子生徒、レイが遠慮がちに声をかけてきた。


「な、なあ楠木。今朝のニュース、見たか?」

「今朝の?」

《否。今朝は生憎、雪斗が遅起きでのう》


 主人に代わってクロが答えると、レイはごくりと生唾を飲み込んだ。


「み、見てないのか。えっと、その……こ、このニュース」

「えっと……?」


 レイが恐る恐る差し出した携帯には、【緊急】と銘打ったニュースが流れていた。



『繰り返しお伝えします。本日未明、学術都市北区画で“強盗殺人事件”が発生しました』


「は……?」


 センセーショナルな記事を読み上げるニュースキャスターの声は、雪斗には届いていなかった。


『監視カメラと目撃情報から、治安維持局は——』


 視線が吸い寄せられる。釘付けにされる。

 画面右上に大きく映し出された、艶やかな紫髪の少女に。




『星海学園高等部二年生、レンジュ・レーベック氏を、学術都市全域で指名手配しました』

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