第15話 破綻した回帰

「さて。本日はお休みした篠原先生に代わり、わたくしが講義を務めます」


 ——ああサボりか、と。


 恭介に代わり教壇に立った、ベージュ色の長髪を束ねた男性教師シグナの言葉に二年一組の生徒一同は悟ったように静まり返った。


「ねえユキト。あのバカ教師、なんで休んだと思う?」

《借金取りに追われておるのではないか?》

「ブラックマーケット的な賭博場で捕まったに一票」


 付き合いの浅い雪斗たちも恭介の扱い方に慣れてきたのだろう、真偽はさておき『恭介ならあり得なくともあり得そう』な雑な予想を立てた。


「さて、今日の範囲ですが……なるほど」


 シグナは綺麗に髭が剃られた顎を興味深そうに引っ掻いた。


「今日は普段より暗い話になりそうですね

《ふむ、暗いとは?》

「真理探究の暗部というものです。1970年頃、『大いなる鍵』を自称する集団が、“『原典』の復活”を唱えました」


 クロの合いの手を注意せず、シグナは厳かな表情で授業を始めた。


「配布した資料を見てください」


 雪斗は指示に従い、悪戦しながらも手元のタブレットに配布資料を表示した。


「皆さんご存知の通り、『原典』とはとても長い間行方がわかっていません。なので当然、歴史の空白に便乗して『『原典』なんて存在しない!』と言い出す者たちも居ました」

《勝手な奴もごごご》


 茶々を挟もうとしたクロの口を、レンジュが真剣な表情で塞いだ。

「ごめんなさいクロ、静かにしてて」


 その余裕のない横顔は、雪斗にはどこか共感できるものだった。


「『原典』の行方に関して、我ら探究者の間では玉石混交の話題が日夜飛び交いました。そんな中『大いなる鍵』という組織は“『原典』の分裂”を喧伝しました」

『分裂……?』


 聞き慣れたようで覚えのない単語に、生徒たちは揃って首を傾げた。

 そんな中、雪斗の前列に座る男子生徒、レイが右手を挙げる。


「シグナ先生、分裂とは? 分割とは違うのですか?」

「国語的な字義は似ていますが、別物ですね。分割というのはご存知の通り、情報の部分転写を繰り返したっものです。そして、分裂というのは……そうですね」


 シグナは悩ましげに、知恵を絞るように顔を顰めた。


「お餅のように千切って分けるのが分裂です。『大いなる鍵』は、今ある写本グリモアは全て、姿という説を提唱しました」



 その言説は、現在主流とされる『原典』の行方不明という説よりも多くの研究者たちに希望を与えるものだった。


 形のないものを追い求めるのは、否応なく神経が、精神が削れてゆくものだ。

 それが何千年と積み重なる研究ともなれば尚のこと。


 多くの研究者たちは、一筋の希望のように降ってきた『分裂説』へと火に入る虫のように群がった。


「しかし、この説には致命的な穴が……写本グリモアの体系との食い違いがあったとされます。——楠木くん!」

「うん……え、僕!?」


 唐突な使命に驚く雪斗に、シグナは静かに頷いた。


「復習です。現存する写本グリモアはどうやって作られましたか?

「えっと……『原典』が持っていた情報を小分けに保存した、んですよね?」


 自信なさげに答えた雪斗に、シグナは穏やかな笑みを向ける。


「そうです。合っているので、もう少し自信を持って言いましょう。続きをどうぞ」

「はい。そうやって保存したのが第一世代の写本グリモアで、第二世代以降の写本グリモアは一世代前の写本グリモアの情報を小分けに。——最終的に、現在の第八世代まで分割されました」

「よろしい。内容は合っていますが、記述問題なら六十五点ですね」


 シグナは厳しい採点を言い渡した。


「もう少しわかりやすく伝えることを意識しましょう。さて」


 シグナは以前、恭介が書いたものと同じ“系統樹”の絵の横に、並列にいくつもの円を並べた図を書いた。


写本グリモアというのは例外なく、親になる上の世代がします。しかし、『大いなる鍵』の分裂説を採用すると、全ての写本グリモアになってしまうのです」


 じっと、生徒たちはシグナの話に聞き入る。

 自分たちが将来どんな道を選ぶにせよ、この話は聞き逃してはいけないという直感を、シグナという教師が叩きつけてくるから。


「この横並びの何が問題か。それは、今から説明する事実の一つと致命的な矛盾が発生するのです」


 体系化した『原典』と写本グリモアの関係性。

 これらは、すべての世代に共通する一つの事実によって、既に証明がなされている。



 ——紀元前213年。

 焚書坑儒の名で知られる、始皇帝による思想弾圧事件。

 当時、始皇帝は同時期に“感情系統カテゴリ”の写本グリモアの徹底焼却を行った。


 感情の写本グリモアが有する様々な能力を危険視した、かの皇帝による大量廃棄。

 この一斉焼却によって、写本グリモアにはがあることが証明された。



 ——即ち、転写元に当たる上の世代の写本グリモアを消失した写本グリモアは例外なく力を消失するのだ。


 転写元の第七世代の写本グリモアを完全に破壊し処分した場合、転写先である第八世代の写本グリモアは一冊の例外もなく力を失ったという実験結果がある。


《——ふむ。『大いなる鍵』という連中の説が破綻しているのはわかったがのう。これがどう暗部に繋がるのだ?》

「それを今から説明します」


 シグナは教科書へと、あからさまにを込めた視線を投げかける。


「彼らは、破綻した理論のまま『原典』の復活を強行しました。その結果……土地が一つ死にました。チェルノブイリです」


 破綻した理論による『原典』への回帰は、当然のように失敗に終わった。


「世間一般には原発事故として処理されていますが、その実は『大いなる鍵』による秘匿実験が根本の原因なのです。……詳しい実験内容も、後に続く者が現れないように秘匿されています」


 そうして隠匿されているのは、チェルノブイリの汚染事故があまりにも凄惨で、真理の探究という写本グリモア研究者すべての政治的障害になりかねなかったからである。


「彼らは盲目的にひた走り、土地一つを汚染し切って、70年近く経った今も立ち入ることができない死の土地を生み出したのです」


 シグナは、嗤った。


「……全く、これを愚かと言わずしてなんと言うのでしょうね」

「……っ」


 雪斗は視た。

 シグナがほんの少し、ゾッとするような酷薄な笑みを浮かべた瞬間を。

 思わず呼吸を止めてしまうような怖さ……それに気づいた生徒は雪斗以外にはいなかったのか、皆真剣に授業に聞き入っていた。


「皆さん、忘れないでください。我々は探究者です。これは、不可能に挑むという意味ではありません。理論を積み立て、可能を足場に次の可能性を正しく選別するのです。無謀と履き違えてはいけません」


 シグナは、今度は穏やかな微笑みを湛える。


「そうした積み重ねこそ、我々の目指すべき真理の探究なのです」



 終業の鐘は静かに、厳かに鳴り響いた。




◆◆◆




 『原典』と写本グリモアの歴史は決して美しいものではない。

 それを既に知っている雪斗であっても、今日の授業は胸に重くのしかかった。


 『原典』解読への道は、生半可なものではないと再認識させられた。


《なかなかしんどい話だったのう》

「そうだね。レンジュは……」


 雪斗が隣の席を向くと、レンジュは両肘を机に突いて両手で顔の上半分を覆って俯いていた。


「レンジュ、やっぱり体調悪いんじゃ」

「……ん。ええ、そうね」


 気づいたレンジュは俯いたまま、その声は明らかに疲れを滲ませていた。


「……ごめんなさい、ユキト。ちょっと保健室で休んでくるわ」

「大丈夫? 付き添いとか……」

「平気よ。そのくらいの余裕はあるわ」


 ゆっくりと立ち上がったレンジュは明らかに顔色が悪かったが、本人の言う通り、足取り自体はしっかりしていた。


「気をつけてね、レンジュ」

「……ええ。ありがとね、ユキト」


 ほんのちょっとだけ笑顔を浮かべ、少女は足早に教室を去った。


「風邪?」

「わかんないけど、辛そうだったよ」


 背後に音もなく近寄ってきた鏡花に、雪斗は特に驚くことなく対応した。


「……驚かせたつもりだった」


 が、そのそつなさが鏡花的にはマイナスポイントだった。


「慣れてる?」

「……うん、まあ。鏡花と同じようなことをする義妹いもうとがいたからね」

「雪斗。違う女の話は、NG」

「え」


 わざとらしく頬を膨らませた鏡花は、振り向いた雪斗を諭すように頷いた。


「レンジュが怒る」

「そうなの……?」

「怒ると、オタクはおいしい」

「どういうこと???」


 案の定、突然話がすっ飛ぶ鏡花に雪斗は疑問符を浮かべ。

 しかし、目線はレンジュが出ていった教室手前の扉に向いていた。


「心配?」

「……うん、そうだね」


 

 どうにも、胸騒ぎがしていた。

 すれ違いざま雪斗の耳に届いた、レンジュの呟き。


『——もっと、急がないと』


 倒れそうとか、吐きそうとか。

 体調が優れないことからくる呟きとは、どうにも違うように感じられて。

 雪斗は、胸の内の不安が拭えなかった。



 ——それから一週間。

 レンジュは、学園に来ていない。

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