第2話 編入手続き

 学術都市。

 白亜の城とも、海上都市とも、実験機構とも。

 種々様々な呼ばれ方をするが、この都市に明確な名前は存在しない。


 なにせ、学術都市の建設には『原典』への到達という崇高な共通目標こそあれど、様々な世界、無数の組織の思惑が複雑に絡み合っている。

 そんな都市に、いずれか特定の言語を類推させる名前をつけることは憚られた。


 学術都市は、世界が一丸となって一つの目標に邁進する場所である——そんな体裁を守るために、偏りを生みかねない正式名称があってはならないのだ。



◆◆◆




 学術都市全体を巡る環状道路を走る無人タクシーの中で、黒猫のクロは雪斗の太ももを足場にして後部座席の窓に張り付いて外の景色を眺める。


《こう見ると、背の高い建物はどれも色味が似ておるのう。どれも白一辺倒では虚しかろうに》

「都市独自の建築基準法があんだよ」


 クロのぼやきに、前の座席で空になったカートンをもの悲しげに眺める恭介が答えた。


「ここは海上都市だから潮風対策が必須なんだよ。だから、背の高えやつは建材の関係でどれもこれも似たような色になんだよ」

《なるほどのう。ところで雪斗や、さっきから一言も喋っておらぬがどうしたんじゃ? やはり寿司が当たったのか?》

「ううん。ちょっと緊張しちゃってね」


 自身の言うとおり、雪斗の横顔は襲撃者と対峙した時に比べてもやや強張っていた。

 肩に力が入っている雪斗を恭介が振り返る。


「そういや、お前は結局学校行ったことねえのか」

「うん。だから、星海学園が初めてだよ」


 16年の人生で初めて、雪斗は学校という未知を経験する。

 歳の近い義理兄妹こそ孤児院にいたが、全くの同い年、しかも他人というのは雪斗にとってほとんど未知の体験だった。

 緊張するのも無理はない。


「はっはっは! 高校が人生最初の教育機関ってのは中々豪胆だな! ……あん?」


 大いに笑った恭介だったが、ふと。自分が雪斗の後見人かつ、雪斗が通うことになる学園の教師であることを思い出した。


「いやちょっと待て。その辺のフォローって俺がすんのか?」

「よろしくね、恭介さん」

《期待しておるぞ》

「うーっわ! めんどくせぇー!」


 心の底から嫌がる恭介の教師らしからぬ発言に、雪斗とクロは揃って噴き出した。



◆◆◆



 学術都市は最先端の写本グリモア研究機関であると同時に、将来的に研究に携わる人材の育成機構も兼ね備えている。


 都市は八方位と中央、合わせて九つの区画に分割されている。そして中央を除く八方位区画がそれぞれ一つずつ、教育機関を有している。

 雪斗が通うことになる星海学園は、南西区画の教育機関だ。


「凄いな……本当に至れり尽くせりというか。見たことのない施設ばっかりだね」

《見よ雪斗! 保育園や一時預かり施設から大学院まであると書いておる!》

「そうだね。ところでクロ、さっきから尻尾が邪魔だよ?」


 空港で配布されている無料パンフレットを眺める雪斗とクロ。

 特にクロは、未知の土地へのワクワクから尻尾をブンブンと振って雪斗の両頬をペシペシと撫で倒していた。


《ふむ! ここなら妾の新しいおやつも見つかるであろうな! “カリカリ”にはそろそろ飽きてきたところゆえな》

「喜べ黒毛玉、ペットの預かり所もあるぞ」

《妾をペット扱いするでない! あと毛玉と呼ぶでない! フシャー!》

「いやその鳴き方は完全に飼い猫だろ……まいいや。お前ら、そろそろ着くぞー」


「《はーい》」




◆◆◆




 目的地である学園に到着したのは、五時を回った頃だった。

 部活に所属する者は今まさに精を出している最中であり、それ以外の生徒は放課後の街に繰り出すか、帰宅を済ませた頃合い。

 学園近辺だからこそ、この時間帯は人通りはまばらだった。


『料金は、二万——』

「あーはいはい。カード一括でよろしく」


 到着した無人タクシーの提示したそれなりの金額に恭介は躊躇いなくカードを切った。

 ちなみに昼食の回らない寿司もカード払いである。


「なあ雪斗、経費ってのはいい言葉だよなあ」

「恭介さん、それ職権濫用じゃないの?」

《此奴が公僕なのは行政の敗北ではないのか?》


 二人と一匹が降りたのは、“星海学園高等部前”というバス停の看板を僅かに過ぎた場所。

 ここから徒歩二分先に目的の校舎がある。


「なーに言ってんだ。お前を迎えに行ったとか、そこでトラブルに見舞われたとか。理由が目白押しだろ?」


 それに、と恭介は付け加えた。


「俺は今日、テロを未然に防いだわけだからな! 今日くらい贅沢してもバチ当たらねえって、な?」

「まあ、恭介さんに助けられたのは事実だけど」


 複雑そうに笑う雪斗。

 実際に恭介に頼った立場な手前、否定はできなかった。


《雪斗のフォローありきだろうに、まったく調子のいい奴だのう》


 クロのぼやきは、旨そうに煙草を吸う恭介には届かなかった。

 もうほとんど学園敷地内だというのに新しい煙草に火をつける恭介に、クロと雪斗は揃って半眼を向けようとして。


 目の前に飛び込んできた光景に目を奪われた。


「うわあ……!」

《ほう、これは中々……》


 雪斗たちの目に映ったのは、校門の向こうに聳える巨大な白塗りの校舎。

 一般的な高等学校と比べても明らかに大きい、大学の小規模なキャンパスほどある立派な学び舎だ。


 だが言ってしまえばただの学校であり、普通の人間にとってはさして感動を覚えるものではない。

 だが、雪斗にとっては違った。


 校舎に続く真っ直ぐな石造りの道。

 校舎手前に広がる、運動部たちが汗を流す校庭。

 丸みを帯びた屋根の体育館。

 校庭や校舎を取り囲む植え込みの豊かな草花。


 テレビや雑誌の写真、あるいは通り過ぎる車窓から眺める以外に縁がなかった“学校”が目の前にある。


 雪斗の覚えた感動は入学式の児童や生徒、学生が感じる期待感とはまた違う、幻が現実になる瞬間に立ち会うような興奮だった。


「これが学校かあ……!」


 子供らしく頬を紅潮させ目を輝かせる雪斗の姿に、恭介は煙草を咥えたままニヤリと笑った。


「こんなんで驚いてたら心臓がいくつあっても足んねーぞ?」

「本当に、来たんだな……僕」

「ったく、聞いちゃいねえ。ま、無理ねえか」


 やれやれと肩をすくめる恭介だったが、その態度は決して嫌がっているようには見えなかった。

 むしろ、雪斗の肩で観察していたクロには、恭介の態度は年相応の雪斗を見られて安堵しているように見て取れた。


「雪斗。お前の目的とか色々あるだろうけどよ。初めての学校生活なんだ。存分に楽しめよ」

「……! うん。ありがとう、恭介さん」


 恭介の激励に含まれた『初日から気負いすぎるな』という意味に気づいた雪斗は、空港からずっと張り続けてきた肩肘の力をようやく緩めた。


「さて! さっさと転入手続き済ませるぞー! このままだと晩酌の時間がなくなっちまうからな!」

「感謝する気持ちがなくなっていくなー」



◆◆◆



 必要書類は事前に用意していたものだけ。

 残るは本人と親権者……後見人である恭介のサインを書くだけで、つつがなく編入手続きは完了した。


「——はい。これで手続きは全て完了です。編入おめでとうございます、楠木くん」

「ありがとうございます、シグナ先生」


 編入手続きを担当した白衣姿の男性教師のシグナは、ふうと息を吐いた雪斗を労った。


「初日から災難だったようですね。空港でテロ未遂に遭ったとか」

「あはは……そうですね。結構面食らいました」


 実際のところ雪斗は終始落ち着き払った態度だったが、本人的にはそれなりに驚いたというのも間違ってはいない。


「学術都市ではよくあることなんですか?」

「そうでもありませんよ。小競り合いであればそこそこの頻度ですが、空港を襲うようなテロが頻発することはあまりありませんね」

「……そうなんですね」


 頻発、という言い回しが気になった雪斗だったが、正直緊張もあって疲れていたのでそこを掘り下げる気にはなれなかった。


「無事で何よりです。篠原先生も、サボらなかったようで安心しました」


 シグナは後見人として雪斗の隣に座る恭介にジロリと睨みを効かせた。が、恭介はどこ吹く風。


「俺への信用がなさ過ぎて涙が出るね」

「恭介さん、どんだけ不真面目なんですか?」

「自慢じゃないが、俺の趣味は酒煙草ギャンブルだ」

《公僕にあるまじき姿だのう》


 あと本当に自慢になっていない。

 二人と一匹に呆れられても全く動じない強心臓の恭介だった。


「——さて、楠木くん。本当ならこのまま授業を受けてもらう予定だったんですが」

「もう、終わっちゃってますよね?」

「そうですね。今はもう放課後。部活動に所属する子も帰り始める頃合いです。なので、明日に繰り越しになります。篠原先生、引き継ぎ、よろしくお願いしますね」


 雪斗の担任教師になる恭介は面倒くさそう……というか誰が見ても『面倒くさい』と読み取れる顔をしていた。


「し・の・は・ら・せ・ん・せ・い?」

「あーもーわーった! わかったから! そんな威圧すんなよシグナ。ちゃんとやるって!」

《この男、よほど信用がないようじゃな》


 クロの呆れきった視線を受ける恭介は『しゃーねーな』とため息をついた。


「んじゃ雪斗、諸々は明日説明すっから今日は寮向かうぞ」

「わかったよ。それじゃあシグナ先生、失礼します」

《世話になったのじゃ》

「はい。学園生活、楽しんでくださいね」


 朗らかに笑うシグナに見送られ、二人と一匹は職員室を後にした



◆◆◆



 正面玄関に向かう階段の途中、恭介は思い出したように鞄から一台の真新しい携帯を取り出した。


「ああそうだ。雪斗、お前これ持っとけ」

「これは?」

「お前の携帯だよ。ここじゃあ無いと不便だからな。とりあえず初期設定終わらして俺の連絡先だけ入れといたから、何かあったら連絡よこせ」


 手が空いていたら対応してやると、恭介は雪斗の胸元に携帯を押し付けた。


「これが僕の携帯か……」


 何の変哲もないごく一般的な携帯だが、雪斗の感動はひとしおだった。


「なんだ黒猫、その懐疑的な目は」

《恭介の割に気が利いておるなと思うてのう》


 クロの容赦のない回答に恭介はこめかみを抑えた。


「——俺、そんなに信用ないか?」

《これまでの不真面目言動があるからのう》

「あのなあ、俺は一応雪斗の後見人だぞ? その辺はちゃんとやるに決まって——」


「やーーーっと見つけたあーーーーーー!!」


 そこに、大音声が廊下の端から端まで響いた。

 西階段を降りたばかりの雪斗たちの鼓膜を揺らしたのは、反対の東階段手前にいた制服姿の少女。


「げえ……!」


 と声を漏らしたのは案の定と言うべきか、恭介だった。

 少女は両手いっぱいに抱えていた紙束を廊下のわきに下ろし、クラウチングスタートの姿勢を取った。


「恭介さん、あの子は……?」


 雪斗が尋ねるよりも早く、少女は紫の長髪を振り乱し、見事な踏切で全力疾走のスタートを切った。

 そして雪斗の横では恭介が逃走をはかり——雪斗は半ば無意識に足払いをかけた。


「ふんぶっ!?」


 情けなくすっ転んだ恭介。

 そこに、凄まじい加速で突っ込んできた少女渾身の飛び蹴りがお見舞いされた。


「雪斗、おま、裏切り——」

「どーーこほっつき歩いてたのよこのバカ教師ーーーーッ!!」

「ホギャアアアアアアアアアアアアアア!?」


 グギャッ! と、恭介の背骨から鳴ってはいけない音がした。


《ふむ、雪斗よ》

「なにかな、クロ」

《薄めのピンクであったな》


 雪斗は携帯を持たない右手で顔を覆って崩れるように俯いた。

 何が、と聞かなかったのは彼の理性の賜物だった。


「……僕は今、猛烈に記憶を消したいよ」


 星海学園、初日。

 雪斗の学園最初の思い出は、教師が女子生徒に飛び蹴りを喰らうというなんともバイオレンスで刺激的なものとなった。

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