第2話 懐かしい香り。果てしない後悔
地元を出て一人暮らしをしていた私は、両親に仕事を辞めたことや、今の自分の状態を電話で伝えた。
すると、お母さんは電話口で声を押し殺してに泣きだしてしまった。
どうしたものかと私が二の句を継げないでいると、お父さんが電話口にでてくれ、言葉少なに気を付けて帰ってきなさいと言ってくれた。
うれしい反面、すごく心苦しかった。
今まで散々苦労をかけてきたというのに、まだ苦労をかけてしまうのかと思うと、自分のふがいなさに涙が出てきてしまった。
電話を終え、涙を手で拭ったあと、大家さんのところへ向かい、アパートから出ることを伝えた。
それからすぐに、いらない家具や家電を次々と処理していった。
ただ、捨てるのはもったいないものもいくつかあったので、お世話になった同僚に連絡をいれ、必要ならもらっていただけませんかとお願いした。
すると、仲の良かった数人の仕事仲間が荷物の整理を手伝いにきてくれたのだった。
「ひーちゃんはよくやったよ。ごめんね、こんなことくらいしか力になれなくて……」
そう言って肩を叩かれた時、心が少しだけ軽くなった気がした。
貰い手のつかなかったものは、リサイクルショップに引き取ってもらうことにして、引き取ってもらえなかったものは、少し忍びないが捨てたりして、部屋の中を着々と整理していった。
何もなくなった部屋の中で何とも言えない哀愁を感じながらも、家具があった場所がハッキリとわかる畳の日焼けした部分を指でなぞりながら休憩した。
あとは押入れの中に積んでいる数個の段ボール箱を片付けてしまえば、もう終わり。
オレンジ色の夕焼けが部屋に差し込んできて、換気のために開けた窓から涼やかな風が入り、何とも物悲しい気分になる。
肺にたまった重たい空気を吐き出すようにため息をついて、最後の作業に手を伸ばした。
一つずつ段ボール箱を開け、丁寧に必要なものといらないものに分けていく。
自分が数年間暮らしてきた部屋だ、愛着だってわいている。
もちろん、いつまでもここに住んでいるつもりはなかったけれど、もっと別の形で出ていくことになると思っていたし、そうあってほしかった。
段ボール箱の中にある物は、覚えているものもわすれてしまっているものもあり、忘れてしまったものはきっと人生のどこかの場面では大切なものだったのだろうなと、こみあげてくるものを抑えながら、黙々と片付けた。
すると、段ボール箱が並んでいる中に、小さな箱が隠されているように置かれているのが目についた。
まるで、その箱だけが時代が違うような雰囲気だった。
セピア色の写真の中にありそうな装いに、懐かしさと哀しさが胸を満たす。
箱がかなり痛んでいたので、傷つけないように、そっと開けてみた。
その途端、とても懐かしい香りが箱の中から満ち溢れてきた。
懐かしい香りにあてられ、とめどないほどの郷愁の想いが沸き起こってきた。
箱の中には、白い生地に繊細な模様が縫われたハンカチと、一通の手紙が入っていた。
今にも泣きだしそうになってしまうのを必死におさえ、震える手でハンカチをつかみ、そっと取り出す。
すると、中から小さな鈴が転がり落ちて、音を鳴らした。
――――チリン――――。
耳に懐かしい涼やかな音。
それは、私が幼いころにおばあちゃんがくれた鈴。
色褪せた箱は、会社に就職が決まり家を出るときにもらったもので、困ったときに開けなさいと言われていた箱だった。
おばあちゃんは、幼いころ臆病で人見知りだった私のそばにいつもいてくれた人で、私が入社してすぐの忙しい時期に体調をくずし、そのまま息を引き取ってしまったのだった。
大好きだった、おばあちゃん。
私が物心ついた時からずっとそばにいてくれて、悲しい時もつらい時も、楽しい時もうれしい時も一緒だった。
これからもそうなんだろうと、勝手にそう思い込んでいた。
体調をくずしたと言っても一時的なもので、きっとすぐによくになるものだと信じきっていた。
そんな勝手な思い込みと会社の多忙さが重なり、お見舞いにも数えるほどしか行けなかった。
しかし、突然のお父さんからの電話が、自分の愚かさと浅はかさを思い知らせることになった。
「母さんが――いや、おばあちゃんが、その、昨日亡くなったんだ……」
何度後悔したことだろう。
もっとお見舞いにいってあげればよかった。
もっとそばにいてあげればよかった。
もっと恩返しがしたかった。
葬儀の中、棺桶の中で無機質な表情で横たわっていたおばあちゃんの姿に、周囲の目もはばからずに棺桶にしがみついて泣いた。
悔やんでも悔やみきれない、言葉にできないほどの後悔と喪失感だった。
そんなことがあったせいかもしれない、おばあちゃんからもらった箱のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。
ハンカチから香るおばあちゃんの匂いで、幸せだった子供のころの思い出が
死んでしまいたいなんて、思いもしなかったあのころ。
毎日が幸せだったんだなって、今ならハッキリわかる。
手紙に手を伸ばす。
封を開けた中からは、ピンク色の花びらが小さく描かれた
動悸が早くなる。私は、悲しみや後悔や哀愁の入り混じった、複雑な想いで便箋に目を通した。
『カナミ、辛いことがあっても、途中で投げ出したりしちゃあいけないよ? 少しの勇気を出して戦ったなら、きっとお狐様が幸せを運んできてくれる。それでも、どうしても座り込んでしまって動けなくなってしまったら。その時は、おばあちゃんが一度だけ助けてあげる。だからその時は、おばあちゃんのところにきなさいな』
便箋に記されていた、懐かしさと温もりをおびた優しい言葉の数々が、私にさらなる大粒の涙をあふれさせ、便箋を濡らしていく。
「おばあちゃん……! ごめんなさい……! ごめんなさい……ッ!!」
届くことのなかったおばあちゃんの想い。
私は、なんという取り返しのつかないことをしちゃったんだろう……。
それから、ずいぶんと長い間、おばあちゃんの手紙をにぎりしめたまま呆然としていた。
いつのまにか日は沈み、街には街灯の光が点き始めている。
薄暗い部屋の中、床の上で鈍い光を放つ鈴を拾い、手のひらで転がす。
チリン……チリン……。
心を落ち着かせてくれる、懐かしい鈴の音。
「おばあちゃん……ごめんなさい……」
もう何度目かわからない後悔のつぶやきは、深い闇に包まれていく部屋の中へと吸い込まれていくようだった。
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