【短編】私をかえして

ずんだらもち子

私をかえして

 ――今すぐ帰って!――


 涙ぐむ声が私の耳に届いたのは、友人Aが大きな口の瓶のコルク栓をぽこりと抜いた時だった。その声に聞き覚えがあるような気がした。

 誰の声だろうか。真紀に美奈、瞬と則夫……仲間の誰とも声が違う。私以外の人はその声に反応してないし。

「何開けたの?」

 空の瓶からは、なんだか懐かしい匂いが漂うような気がした。

「旅行の土産です。空気と想いが詰められてるのです」

 やっぱり気のせいだろうか。

「開けてよかったの?」

「せっかくのパーティーです。優が……新しい世界に旅立つ、ね」

 今日は私が海外に留学する前に友人たちがお別れのパーティーを開いてくれていた。色々都合が合わず、この後夜明けとともに旅立つことになる突貫スケジュールだ。

「あなたは……」

 ……なんでだろ。瓶を持つこの人の名前が出てこない。

 誰だっけ。これを開けたの。ていうか――あれ? 居ない……あれ、そうか、今ここには5人だけ……だもんね。

「どうしたの? 元気ないわね」と真紀が顔を覗いてきた。

「あ、ううん……何でもない」

 自分で言いながら白々しいことはわかっていた。

 なんだろう。胸騒ぎがする。あの匂いのせいだろうか。あの一言のせいだろうか。


 ――今すぐ帰って!――


 胸を貫く鋭さと、こっちまで涙腺が緩むほどの悲しい声だった。


 私は、どうすれば……。




「――たったの一言?」

「はい」

 人里から隠れるように位置した名も知らぬ古びた教会の修道士がそう言った。男とも女とも言えない中性的な容姿だった。「この瓶に、過去の貴女自身に伝えたい一言を吹き込んでください。しっかりと想いを描きながら」

「それをこの川に流せば祈りが届くというの?」

「昔から人々の悔いを改める為に言葉を流してきたのです」

 優はやつれた顔で山間の清流を見下ろした。川までは100メートルはあるだろう。今つま先で蹴り飛ばしてしまった小石が、川面に着水する姿は見えない。

「これ、割れずに落とせるの?」

「だからこその奇跡……と言われています」

 優は、多少疑いながらも、瓶に言葉を吐き出した。


 帰国から5年――あの日あの時、たった一人の母が予期せぬ病に倒れていた。優は知らぬまま夜を過ごし、旅立ち、そして母は数日後――。


 もしあの日私が家にいたのならば……と、後悔の尽きることのない十年だった。

 あの日の私に言葉が届くのなら……。

 優は涙を浮かべながら、形見の母のハンカチを詰めこむと、瓶の中へ言葉を注ぐように叫んだのだった。

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【短編】私をかえして ずんだらもち子 @zundaramochi777

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