夏らるキラ

鳩芽すい

本文



 雨水の滴る暗渠から黒い獣が前足を踏み出すと、白昼の熱と光をあびて、ヘーゼル色でまん丸の瞳は黒点をぐっと縮こまらせました。

 晴天の下の輝きでは目が眩んで、一切が何の存在もないようです。まっさらな視界は光量に耐えきれないで、JPEGでは表しつくせない青くて青い空の白さがまぶたを炙ります。

 風と青い稲とが踊っています。ゆらゆらと触れあい、両者は猛暑によって輪郭をあいまいに溶かしあっています。そんな舞踏会に招かれた獣はしかし目を細めるだけで、田んぼのあぜ道がつづく先の駅舎へ向かいました。茹で卵のために沸きあがる鍋のような、蜃気楼の立ちこめる砂利道、晴れわたった田園風景に影がぽつりとあります。


 空、稲、雲、土、風

 そら、いね、くも、つち、かぜ

 そらいねくもつちかぜ、

 少女。


 獣は、その世界の中心に制服姿の少女を見ていました。

 スカートが揺らぎ、風鈴が出会いをしらせます。体温も蝉時雨も消えて、獣の存在は漂され、曝され、無になりました。

 ローファーがてくてく歩き、通学カバンが弧を描き、ひとつ結びが揺れて、炊き上がったようなふくらはぎ、うわ向いた上唇がちょんと世界をみはるかします。

獣は少女の足跡にお仕え申し上げました。


 欅の木のてっぺんから、ひとひらの葉が陽にてらされてゆらゆらと落ちてゆきます。

 獣は足を止めました。

 優雅な滑空から、緑色の残像はぶれていきます。急降下で姿勢をたてなおそうと悪あがきして、風に吹かれてくるくる回ります。

 少女は一枚の葉などお気になさらず、まっすぐ駅舎の方へ歩んでいきました。近頃は車の通りが多いものですから、少女は薄ぼんやりと、獣は戦々恐々と、鉄の箱が過ぎ去るのを横断歩道前でじっと待っていました。

 やがて軽自動車が少女をみとめて止まりました。少女は危なげもなくその道をお往きになります。

 おや、すっかり忘れていましたが、葉は地面に落ちてしまったようです。

過ぎ去った、一瞬の夏でした。少女は駅舎の引き戸をお締めになり、今日の夏は終わります。遮断器がおりて、間の抜けた汽笛が駅に響くと、少女をお連れする気動車は街へ向かいます。


それはそれは暑い夏でした。この季節を越せそうにないと病床の老人が言い出しかねないような、それは命を輝かせる夏でした。 

 


昨夜は入道雲が通り雨をまいたようです。獣が水たまりをのぞくと、魂が抜かれたような顔がありました。獣は落胆し、同時になぜだか安心しました。そこに映っていたのは一匹の黒猫でした。ひとひらの葉ほどに軽い、獣は一匹の猫でした。

黒猫は水に飛び込んで、暗渠から引き連れてきた泥を落とそうとしました。それでもなお、元の暗がりに帰ると、地についた黒い四本足と下水のにおいが獣を逃がさなかったのです。

 車の下を、ブロック塀まえの側溝を、誰かにみつけられないように。

 日陰のすみっこで自己の傷を丹念に舐めて、猫はひそんでおりました。

 しかしあまりに腹が減ったので、猫は炎天下へ繰り出すことにしました。


 猫が初めて少女と出会ったときのことです。そう、あれもまた暑い日なのでした。猫は住み処を失い、放浪していたころでした。

これもまた、例の無人駅での出来事です。

少女を拝見するのは駅に限られており、田舎のどうでもない駅だけが猫の夢うつつだったのです。猫が自分の墓標を用意するなら、この駅で決まりでしょう。

 少々事情をお伝えしておきますと、この猫も元は飼い猫でしたが、追いだされてしまったこともあり、世間に対して疑心暗鬼になっていたのです。

 きっぷを回収する木箱を尻目にホームへあがった先、アスファルトにスナック菓子の落ちているところをみて、腹を空かせた猫はこれ幸いと拾いあげました。そこに制服の少女が通りかかったのです。そこで猫は真上に首を据え、しかと少女をにらみつけたのでした。やっとの食事を奪われるとでも思ったのでしょうか。少女はやはり驚きなさったようですが、猫の臆病さが垣間見えたのでしょうか、目をそらして空色のベンチに腰掛けなさいました。そのベンチは古く、日焼けで褪色しています。少女はしきりちらちらと猫の様子を気になさっていましたが、やがて猫になにかする様子はないと分かると、興味を全くなくしなさったようで、ぼうっと遠くをご覧になっておりました。どこまでも見透したような澄んだ黒い瞳でした。少女がもつ射干玉の髪も瞳も、猫の体毛のそれとは黒の質が違います。艶も潤いも、猫の縮れ た黒毛や荒れた爪とは比較になりません。それは同じ黒とは呼ぶのが不思議なほどです。

猫はもう一方のベンチに潜り込みました。そのころには猫は少女の美しさをよく理解しておりました。時折ひそかに垣間見て、その様子は芸術品を鑑賞する批評家のようでした。

田んぼばかりの辺鄙なところですから、一日に各駅停車が二往復しかやってきません。冷房もなく、かろうじて駅舎のトタン屋根が直射日光肌を守るのみです。じりじりと地面から照り返す夏の暑さは分け隔てなく二人をおそいました。

 ふと、猫は少女の見ているものが気になり、ホームの向こうがわを眺めてみました。

 そこには草原の先に、地獄のシャワーを降らす積乱雲と、ごみごみとした大きな大きな都市がありました。

 




 夏といっても早朝は涼やかです。

太陽が昇りました。空のアメジストが橙色に、また次第に白昼色にうつるにつれ、日はじりじりとプラットホームを焼きました。ところが今日の空は次第に暗くなってきたようです。

猫は雨宿りに最適な土管をみつけましたが、先客が数匹いました。にゃあと言われ、猫は別の場所を探すことにしました。

結局駅のベンチの下におりました。駅舎の屋根がきちんと整備されておらず雨が吹き込んできたので、いつも猫が涼んでいるほうではなく、少女が座っているほうです。それでも雨は横から下から猫を粘質にいじめ、すっかり猫の毛はしょんぼりしました。

 かごめかごめが鳴いて、かわらず夕焼けは西にかすかに見えるほどのお天気で、やがてベンチにビニール傘とスカートが座りました。

 猫の真上には少女が座っておりました。誰かと電話をしているようです。冷たい雨にもかかわらず、少女はなにやら声の調子がよく、頬は紅潮しており、美しさはますます周囲を照らさんとするばかりに盛っておりました。

 ビニール傘が雨に叩かれ、ばつばつと鳴っています。

 閑散とした駅には雨音と少女の声が響いており、猫はじっとしていました。

猫はうっすら感じとっていました。学校は夏休み、夏期補習中です。以前の少女はかごめかごめの前、お昼過ぎにはこの駅に帰ってきておりました。少女は変わってしまったのでしょうが、猫に何を言う資格もないのでした。


 じめじめとして、猫が普段住処としている暗渠のような、どんよりとした雨の匂いにつつまれています。猫も、少女も等しく。このような時間がずっと続けば、それは猫にとっての幸いなのでしょうか。しかし猫は、少女が自分の側に近づいてきたことをあまり好ましく思っていないようでした。何か耐えがたいことを耐えるように、じっとベンチの下で身を潜めておりました。

 



 猫は考えていました。猫は何ができるだろうかと。

 猫は思っていました。猫に何かできるだろうかと。


 毎日は、限りなくこれからも続くように思われました。蝉の叫び声が小さくなりました。ひぐらしや鈴虫なんかがさめざめと悲しそうに歌い始めました。

 それでもまだ、昼間は夏が滾っていたのです。

 いつもの駅。

 少女はスマートフォンを指で操作します。

 猫は、少女を眺めるだけです。


 夏、夏、夏、夏、夏

 なつ、なつ、なつ、なつ、なつ

 なつなつなつなつなつ、

 少女。


 猫は何ができるのかを考えていました。

 少女の額から一滴の汗がこぼれおちました。

 ほんとうにそれは一瞬でしたが、日に照らされてきらめきました。

 猫はベンチ下の影におりました。視界の大部分をベンチの座面に遮られており、薄く黒がかった夏はそれでも暑かったのです。

少女が猫を気にとめることはありません。猫にとって不変の無視は居心地がよく、幸いでした。



8月32日になりました。

 欅の木のてっぺんから、ひとひらの葉が陽にてらされてゆらゆらと落ちてゆきます。

 猫は足を止めました。

 優雅な滑空から、緑色の残像はぶれていきます。急降下で姿勢をたてなおそうと悪あがきして、風に吹かれてくるくる回ります。

 少女は一枚の葉などお気になさらず、まっすぐ駅舎の方へ歩んでいきました。近頃は車の通りが多いものですから、少女は薄ぼんやりと、猫は戦々恐々と、鉄の箱が過ぎ去るのを横断歩道前でじっと待っていました。

 

 猫はトラックが近づいてくることに気づきました。少女は暴走するトラックに気がついていません。脳が沸騰したように働きました。その瞬間、少女と猫は真横に並んでおりました。少女の睫毛が眠たげにぴくぴくと動き、その奥の瞳は猫のとっての宇宙でした。

 猫は決心しました。


 はたして、この猫は白線の向こう側に躍り出たのでした。


 やがて軽自動車が少女をみとめて止まりました。少女は危なげもなくその道をお往きになります。

 おや、すっかり忘れていましたが、葉は地面に落ちてしまったようです。

過ぎ去った、一瞬の夏でした。少女は駅舎の引き戸をお締めになり、夏は終わります。

遮断器がおりて、間の抜けた汽笛が駅に響くと、少女をお連れする気動車は空漠とした街へ向かいます。

それはそれは暑い夏でした。それは命を輝かせる夏でした。



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夏らるキラ 鳩芽すい @wavemikam

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