第5話
朝になってハナは暇を願い出た。泣きついて詫びるだろうと思っていたらしいお嬢様は、女中の潔さに少々驚きつつ、荷物をまとめるよう言った。娘を放任している奥様も引き止めなかった。
我慢していた涙があふれ、それでも顔をあげてハナは駅に向かったという。切符を買い、ホームに向けて歩き出したとき、その腕を後ろから掴まれた。
「待って、ください」
引き留めたのはもちろん斎藤である。困り顔のハナを前に息を切らせながら、決して腕を離そうとはしなかった。
「実家には帰らないでください」
「他に行くところがありません」
「僕の実家に、帰りませんか」
返事の仕方が分からないハナに斎藤は言った。
「昔、父にも言われたことがあります。お前は勉強はできても商売向きじゃない、人の心に疎いからと。なら勉強だけして出世してやろうとこちらに出てきました」
唐突な話にハナは黙って続きを待った。
「先日、その父が体を壊したと連絡がありました。旦那様には僕が花屋を継ぐと言って、帰郷の許可をもらいました。このまま家族を見捨てたら、疎いどころか心無い人間になってしまう」
「じゃあ、最近お嬢様の機嫌が悪かったのは」
「僕が将来を捨てたからですよ」
一呼吸してまっすぐにハナを見る。
「実家を継ぐと決めた時から、あなたを連れて行くつもりでした。僕と結婚して、花屋をやってくれませんか」
少しの沈黙があって、ハナが口を開く。
「私も、今のあなたが商売向きだとは思いません」
そしてゆっくり笑った。
「誰かが手伝ってあげないといけませんね」
*****
「じいさん、かっけー! 俺は絶対言いたくないけど」
ゴミを集めながら彼が言う。私だって、そんな格好つけすぎたプロポーズは嫌だ。もちろん祖母みたいな答え方もごめんである。
「ばあさんも粋だよな」
「本当のところは、花屋で働きたかっただけらしいよ。ついでに結婚してあげたんだって」
「え」
「つまり女は強かってこと」
絶句する彼の手からチリトリを奪い、ごみを捨てる。
「ま、まあ、とりあえず丸くは収まったんだよな。良かった良かった」
「第一段階はね」
ここで話は終わりじゃない。そもそも、本編にすらなっていない。
「ここまでがプロローグよ。この後結婚するんだけど、やっぱりお爺ちゃんは商売向 きじゃなくてねぇ。店の花を全滅させたり、借金背負ったり、警察沙汰になったり、そりゃあもう大変だったんだと」
「波乱万丈すげぇな」
「離婚の危機が一桁じゃなかったって」
「げっ」
さっきから使い物にならない彼の手に雑巾を押し付ける。何か言いたそうな顔をしながらも、惰性でカウンターを拭き始めた。
「そんなこんなで、ウチの花屋は小さな老舗として生き残ってきたのが奇跡なのよ。それ聞いたら私だって継ぎたくなっちゃうわけ。しばらく閉店してたけど、やっと新装開店できるんだから」
「フラワーデザイナーの資格まで取ってな」
人は花束一つに振り回される。意外な一面を見せたり、本音を言う勇気をくれたり、人生を変えることだってある。こんなにドラマのある仕事なんて、憧れてしまうではないか。
そう、この亡くなった祖父母の昔話が私の仕事のルーツだ。そしてこれから彼のルーツにもなる物語。
「その店の婿になる覚悟はどうよ?」
冗談めかして聞いたら、向こうも大げさに親指を立てた。
「まかせとけ」
その一言に笑いが漏れた。
多分私にも、これから波乱万丈が待っているのだろう。とっても幸せな苦労話が。
赤の女王 野守 @nomorino
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