第29話 お向かいさんは知っている
「ねえねえ、ところで知ってる?」
椅子の背もたれに体重を預けた海斗に、クルミはご機嫌そうに口元を綻ばせてコップを片手に問いかけてきた。
「何が?」
「あたし、今海斗くんの高校、校門の近くから見てきたんだけどね? あの学校の人たち、みーんな体育館で話し合いやってたの」
「え、マジか。そりゃ大変だな」
他人事のように呟き、海斗は残り少なくなったお茶を飲む。
とはいえ完全に無関心というわけでもなく、いい気味だとは思っているが。クルミも口元に手を当てて、クスッと痛快そうに笑った。
「たぶん、海斗くんの言葉が相当効いたんだね。あの様子じゃ、まだしばらくはお昼ご飯も食べれないよ?」
「なら、腹鳴らしてるやつとかいそうだな? ……あ、でも、俺もまだ食ってないな」
「え、もう二時なのに? でも、あたしも食べてないや」
「なんだ、クルミもか」
昼食を忘れていたことを思い出し、お互いに対して笑みをこぼす。
「ていうか、うちの高校に来てたのか。悪いな、俺だけ先に帰ってきちゃって」
「んーん、全然。あたしも連絡なんて入れてなかったし」
ふるふる、と首を横に振り、クルミは「それに」と続けた。
「お陰で海斗くんの仕返しの成果が見れたもん。別に後悔することじゃないよ」
「あー、それはそうかもな。俺も見たかったし」
海斗が言うと、あはは、とクルミは苦笑を浮かべる。
「……でも、海斗くんの場合は見つかったら気まずいんじゃない? あの人たちにとっても」
「違いない。ただの嫌がらせにしても悪趣味だしな」
そう言って笑うと、クルミも頷いて同意した。
「んで、昼ご飯どうするよ?」
海斗は一旦話を戻し、クルミも昼食を取っていないものと推測して問いかける。
すると案の定、クルミは悩む様子を見せたものの、昼食を一緒に取ることは否定せず。
「うーん……もう二時だもんねー。どっか外で食べる?」
「だな。正直、今更作るのも面倒臭いし」
海斗が賛成すると、クルミは勢いよく手を挙げる。
「はいっ! それならあたし、亜紀さんのカフェ行きたい!」
「お、そりゃいいな。俺も報告とかお礼とか言いたいし」
頷くと、クルミはさらに表情を明るくしてグッとガッツポーズをした。
「やったー! じゃあ、早速──」
その勢いのまま、クルミが椅子から立ち上がろうとした。
「あー、ちょっと待った」
「ん? なぁに?」
すでにほとんど腰を上げた状態だったクルミは、ストンと椅子に座り直してきょとんと小首を傾げている。
海斗を見つめるその瞳には、彼らのような怯えも悪意もない。
そんな視線や目が合うこと自体に慣れていない海斗は思わず一度顔を背け、頬をかきながら口を開いた。
「あー……その、ずっと聞きたかったんだけどさ。クルミって、なんでわざわざ俺と恋人のフリまでして助けてくれたんだ?」
「え、なんでって?」
「だって、普通はそこまでしないし、する必要もなかったろ? なんでそこまでしてくれたのか、ずっと不思議に思ってんだよ」
そこまでしてもらえる心当たりなんて、海斗にはお菓子やアイスクリームを奢ったことぐらいしか思いつかなかった。ここまで助けられてばかりだったのに、いつだってクルミは海斗に対して好意的な感情を向けてくれる。
いや、きっとそれだけではないのだろう。
幾ら人付き合いの経験が少ないとはいえ、海斗は決して他人の気持ちに鈍感なわけではない。クルミが海斗に抱いている思いが友情だけではない可能性には、かなり最初の頃から感じていた。
自分のことを理解されないのは、酷く心が苦しくなることだ。
だから、たとえ結果的に理解できなかったとしても、相手を理解することは諦めない。
そんな海斗だからこそ、気づけたのかもしれない。
「──なあ、もしかしてだけどさ。俺とクルミって、前にも会ったことあるのか?」
言ってから、そんなはずないかと海斗はすぐに思い直した。
なぜなら、出会った時に『初めまして』と挨拶を交わした記憶があるからだ。
(……いや、ちょっと違うな)
思い直した思考を自ら否定し、再び考えていく。
そして、思い出す。
『初めまして』と言ったのは、海斗だけであったことに。
クルミが口にした言葉は『よろしく』という挨拶だけであったことに。
そうして海斗は、自分が心の片隅で抱いていたクルミへの違和感に納得がいった。
クルミはまだ出会って間もない頃から、海斗のウワサに対して強く感情移入してくれているのだ。
それに証拠となるような発言こそなかったものの、海斗はクルミの名前を初めて知った時、かなり変わった苗字にも関わらず、どこか聞き覚えがあった。
クルミの態度。そして、苗字への既視感。
その理由を今改めて考えてみると、答えは一つしかない。
「……どうなんだ? クルミ、答えてくれ」
もしそうだったなら、彼女は海斗の態度に傷ついたはずだ。
だから、知らなければならない。
海斗はその使命感に動かされて、ただ真っ直ぐに目の前にいるクルミを、クルミだけを見つめ続ける。
「ふふっ」
すると少し呆気に取られていたクルミは、海斗と目が合った途端に堪え切れずに笑い声をこぼす。
しかし、それは揶揄うような笑みではなかった。
コクリとあごを引いて頷いて、
「……うん、そうだよ。あたしは、キミを知ってる」
と、そう言った。
「…………そっか」
やっぱりかという納得と、驚きがある。
同時に海斗の中で罪悪感が込み上げて、海斗は椅子にもたれかかると長く息を吐き出した。
そんな海斗を気遣うように、クルミがフォローの言葉を口にしてくれた。
「あ、でもね。別に気に負わなくてもいいんだよ? あたしが勝手に覚えてただけだし、キミを助けたことだって、あたしが好きでやったことだもん」
「……だから、もういいんだよ」
しかし、最後のひと言。
海斗を見るクルミの笑みには、隠し切れない諦念と寂寥感が漂っていた。
その事実を、海斗は見逃さなかった。
「ほら、それよりお昼ご飯に──」
「──クルミ!」
椅子から立ち、クルミが逃げるように玄関に向かおうとした。
そんな彼女の名前を呼んで駆け寄り、海斗はとっさに腕を掴む。
振り向いたクルミの瞳は、酷く不安げに揺れていた。
そして、一瞬の逡巡。
今言おうとしている言葉を実現できなかったら、クルミに今よりもっと大きな悲しみを与えてしまうから。
それでも、海斗のことを大切に思ってくれる彼女のために。
いつの日か、心の底から信じて大切に思いたい彼女のために。
様々なことを考えて覚悟した上で、海斗はクルミに人差し指を突きつけて、堂々と宣言する。
「いつか絶対、俺がクルミのことを思い出すから! だから……だから、それまで待っててくれ」
真っ直ぐに見つめて、真っ直ぐな言葉で。
かつてクルミが言ってくれたように、今度は海斗がそう告げた。
「…………海斗くん。本気なの?」
クルミは心配そうに瞳を揺らす。
しかし、気づけばその口調には呆れも混じっている。
だから海斗は、力強い頷きを返した。
「ああ、もちろん。……ま、さすがに今すぐとは言えないから、そこは申し訳ないけどな」
そう言っていると、クルミはなぜか俯いたまま動きを止めてしまった。
「……クルミ? 大丈夫か?」
声を掛けるが、返事はない。
海斗が心配して肩を揺らそうとすると、クルミはいきなり顔を上げ、腹を抱えて笑い出した。
「あっははっ! ほ、ホントに言ってるの⁉︎ アホだ、アホがいるー!」
「んなっ、クルミが言えたことか! 紛らしい行動しやがって!」
海斗はここがマンションであるにも関わらず、つい叫んでしまう。
軽くチョップを食らわせてやろうと海斗が振り下ろした手をするりと避けて、クルミは玄関に向かいながら途中で振り向くと、満面の笑顔で手を振ってきた。
「でも、ありがとっ! やっぱりあたし、海斗くんのこと、けっこう好きだよ!」
──ったく、クルミは……
「はいはい。俺もけっこう好きだよ、クルミのこと」
調子のいいやつだなと呆れ笑いをして、海斗はさっさと行けと言うように手をヒラヒラとさせた。
するとクルミはむっと顔をしかめて叫ぶ。
「もー! 乙女の本気をバカにしてー!」
あとで仕返しするからねと言って、クルミは海斗を待つことなく、玄関から外へと駆けていく。
「…………」
部屋の中に一人残された海斗は、自分の口元を覆うように手を当てて、頬の熱に触れながら呟いた。
「そんぐらい分かるに決まってんだろうが、あのアホ……」
まだクーラーは切っていないはずなのに、海斗は冷水のシャワーを浴びたくなるほどの暑さを感じていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
誠に勝手ながら、この作品をキャラ、ストーリー共に大きく作り直すことにいたしました。作品を完結させることができず、大変申し訳ありません。
またどこかで見かけた時はもっと面白いと思っていただけるように頑張ります。
お向かいの来宮さんがやたらと親しげな態度でトラブルに巻き込んでくる話 平川 蓮 @rem0807
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