第28話 偽物の恋人と本物の絆

 あれからどれだけの時間が過ぎたのか。

 自宅マンションに帰り着いてから部屋の床に座り込んでいた海斗は、ふと床に投げ捨ててあったリュックから水筒を出し、その中のぬるいお茶を呑む。

 ふう、と息をつくと、カチカチと時計の針の音が聞こえてきた。


「……ああ、もう二時か。昼ご飯、作らないとな」


 でも、身体はちっとも動こうとしない。その気力が湧かないのだ。

 それならもう少しゆっくりしようと、海斗はクーラーもついていない部屋で目を閉じる。

 すると、その時。

 玄関のインターホンが鳴り、海斗は仕方なく椅子から立って玄関の扉を開けた。

 そこには思った通り、肩にタオルを掛けた制服姿のクルミが立っている。


「やっほー、海斗くん! キミの彼女が会いに来たよー!」


 クルミは走ってきたのか、息を荒くして元気いっぱいに笑う。

 ここひと月の間にすっかり聞き慣れたクルミの声に、海斗は笑顔で軽く手を挙げた。


「よっ、クルミ。先週のバイトぶりだな。……っていうか、まだそれ続いてるのか? まあ、俺としては嬉しいけどさ」


 そう言うと、クルミは不思議そうに海斗を見つめてくる。


「……なんだよ?」


 問いかけると、クルミは首を横に振った。


「ううん。海斗くんが素直だったから、ちょっとビックリしただけ」

「……そう、か? あんまり自覚はないけど……ま、とりあえず家上がってくれよ。ここじゃ暑いだろ」

「うんっ! お邪魔しまーす!」


 ひと安心したように柔らかな笑みを浮かべるクルミを家の中に招き入れて、海斗は部屋の中に入るとリモコンを手に取ってクーラーをつけた。

 あとに続いて入ってきたクルミがその様子を目にして、驚きの声を上げる。


「あれ? 暑っ! こんなに暑いのに、クーラーつけてなかったの⁉︎」

「ん? まあな。俺、田舎出身だし、これぐらいの気温にはけっこう慣れてるんだよ」

「ええ……そのうち熱中症になっちゃわない?」


 と、クルミは引きつった表情をしている。


「いや、まだ余裕。まあ、そのうちもっと暑くなったらクーラーつけるから」

「あたしから見ればもうつける時期なんだけどね……。でも海斗くん、ホント気をつけなよ?」

「はいはい」


 そう返事したものの、海斗の田舎では三十五度になってからが本番だ。だから、本格的なクーラーの出番はまだ少し先だろう。

 海斗の返事が雑だったせいか、クルミはジトッとした疑いの目で見つめてくる。


「もー、ちゃんと気をつけるつもりあるのかなぁ?」

「そりゃあるよ。大丈夫だって」


 つい返しがおざなりになってしまい、また呆れた顔をするクルミ。やがて拗ねたように、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

 すると部屋の床に放り出されたリュックを見て振り返る。

 ツンツンと海斗の肩を叩き、問いかけてきた。


「で、海斗くん。ちょっといい?」

「どうした?」

「ねえ。もしかしてだけど、海斗くんって今相当疲れてたりする?」

「え?」


 急に自分の体調を言い当てられて、海斗は戸惑い動揺する。


「……まあ、そうだけど。なんでそんな話になるんだよ」

「だって普段の海斗くんなら、リュックぐらいすぐ片付けそうじゃん」

「ああ……」


 たしかにそうだな、と海斗は思った。


「にしても、よく見てるなぁ。クルミってそんなに頭よかったっけ──」

「──そんなに、なぁに?」


 感心する海斗に、クルミの威圧的な声と視線が突き刺さる。……まあ、怖くはないし、むしろ可愛い部類だろうが。

 そんなクルミだが、よく考えると海斗を転校させる発案をしてきたのは彼女だ。

 それを思い出して、海斗はクルミを見直すことにした。


「いちおう言っとくけど、あたしは欲望に負けてるだけで地頭が悪いわけじゃないんだよ? ……そう。欲望に負けてるだけでね」

「あ、二回言った……」


 途中まで得意げだったクルミは、冷静になってしまったのか落ち込んだ様子でしゅんと肩を落としている。


「じゃあ、実はテストの点数とかもよかったり?」

「うぐっ……そ、それは……その、アレだよ、アレ」

「あ、ダメだったんだ」


 海斗が色々と察して呟くと、クルミは拗ねた様子で唇を尖らせた。


「むっ……そうだけど、そんなハッキリ言わなくてもいいじゃん!」

「いや、取り繕っても結果は一緒だろ」

「むぐぐ、この鬼畜海斗くんめー!」

「はいはい」


 悔しそうに睨んでくるクルミをさらっとあしらい、海斗は肩をすくめる。

 ずっと立ちっぱなしも疲れるだろうと、海斗はクルミに近くの椅子に座るよう促してから、すぐに席を離れて冷蔵庫のお茶を持ってきた。


「ん、ありがと」

「ああ」


 ガラスコップの冷たいお茶が喉を潤し、海斗はクルミとほぼ同時にぷはーっと声をこぼす。


「……それで、どうだった? ちゃんと言えた?」


 クルミが心配そうな眼差しで、気遣うような声で問いかけてきた。

 ふっと口角を上げ、海斗はコクリと頷く。


「ああ。これ以上ないぐらい上手くいったよ。ずっと言いたかったことも全部言えたし、仕返しもできたからな」

「……そっか。じゃあ、よかったぁ」


 ホッとした様子で胸元に手を当て、白い頬を桜色に染めて、クルミが笑った。

 その笑顔はどこまでも慈しみに満ちていて、海斗は思わず惚けてしまう。

 クルミはそんな海斗を見て、きょとんと不思議そうに小首を傾げた。


「ありゃ? 海斗くん、どうかしたの? そんなにぼうっとしちゃって」

「……いいや。なんでもない」


 自分の魅力を分かっていないらしい無自覚なクルミの反応に、海斗はまた笑みを浮かべる。


 ──ああ、本当に……


「ただ、クルミに会えてよかったと思ってさ」


 そんな思いを、心の奥底から抱いていた。

 笑う海斗の顔を見て、クルミは一瞬驚いたように目を丸くすると、悪戯っぽく揶揄ってくる。


「今日はどうしちゃったの? すっごい素直じゃん」

「……そうかもな。まあ、これで恋人のフリも終わりなんだろ?」


 今更恥ずかしくなって、海斗はコップに視線を落としながら残りのお茶の水面を小さく揺らす。

 今感じているものはコップの冷たさか、それとも寂しさか。

 クルミはどこか儚げに微笑み、ゆっくりと頷いた。


「……うん。そうだね」

「だから、今ぐらいは素直になっとこうかと思ってな」


 海斗もニヤッと悪戯っぽく笑って答える。

 すると、クルミがあっけらかんとした様子で言った。


「そう? じゃあ、あたしも言おーっと」


 何を、と問う間もなく、クルミはテーブルに肘をついて、海斗の顔を覗き込むように見つめてくる。


「……ねえ、海斗くん。あたしも、キミに会えてよかったよ」


 ニッと歯を見せて、クルミが笑う。


「──だから、ありがと!」

「こっちこそ、ありがとな。クルミ」


 海斗もクルミと目を合わせて、同じようにニッと笑い合う。

 この関係の名目は、恋人のフリだった。

 それでも、二人で過ごしてきたこの一ヶ月間の絆は、きっと本物にも劣らないだろう。






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