第五話 入部なんて、無理だよ……
美味しいばんご飯を食べても、お風呂に入っても、大好きな本を読んでも、ぐっすり寝ても――気持ちは全然晴れなかった。
おとといはずっとみんなの劇のことを考えてて、ふわふわ幸せな気持ちだったのに。
昨日は心が、どんより重かった。
重い足を動かして、頑張って教室に向かう。
春日井くんに、謝らなくちゃ。
きついこと言ってごめんなさい、勝手に帰っちゃってごめんなさいって、ちゃんと言わなきゃ。
いつもより重く感じるドアを開けて教室に入ると――。
――たったったっと足音を立てて、誰かが目の前まで走ってきた。
「さとちゃん、おはよ!」
「春日井くん!?」
春日井くんは昨日までと変わらない、明るい大きな声で挨拶してくれる。
私がおはようと返すと、嬉しそうに笑ってくれた。
すぐ傍に来た春日井くんが、勢いよく頭を下げた。
「昨日はごめん!」
「ううん、春日井くんは悪くないよ……!」
どうして、春日井くんが謝るの?
春日井くんも他のみんなも、何も悪いことなんてしてないよ。悪いのは、私なのに。
「無理に入部させたかったわけじゃないんだ。さとちゃん、気に入ってくれたと思ってたから……一緒にできたら嬉しいなって、思って」
「気にしないで。みんなキラキラしてて、いいなって思ったから……ごめんね」
私、本当に楽しかった。
もしも声劇部に入れたらとっても楽しいだろうなって、憧れちゃった。
だから……春日井くんは、何も間違ってない。
「部長も言ってたけど、下手でもいいんだよ? やりたいって気持ちがあればそれで――」
「――ごめん、それでも入部はできないよ」
春日井くんの声は怒ってない、悲しんでもない。
私のために言ってくれてるってわかってる。
だけどやっぱり、私には無理だよ。
「……部活、やりたくない?」
困ったような顔で、心配そうに聞いてくる。
「…………やりたいよ。できるなら」
やりたい。入りたいよ、本当は。
「なら――」
「でも私、本当に演技できないの! 下手とかじゃない、できなかったんだよ……!」
春日井くんの目が、丸く見開かれた。
「何かあったの……?」って、遠慮がちに聞いてくる。
また、大きな声を出しちゃった。落ち着け、落ち着いて私。
「人前に出て発表するのとかも、あんまり得意じゃなくて……劇は、ちょっと嫌な思い出があるの」
「何があったのって、聞いてもいい? 話したくないなら言わなくていいよ」
春日井くんは優しい声で、えんりょがちに聞いてくれる。
どうして、私なんかにこんなに優しくしてくれるんだろ。
「あのね、本当に、つまらないことなんだけど……」
言っても困らせるだけかもしれない。
弱虫だって、呆れられちゃうかもしれない。
でも、何だか春日井くんになら話せる気がして――ゆっくり、嫌な思い出を口に出した。
**
劇とか演技をする機会って、なかなかないよね。
私もそんな経験ほとんどないけど……一回だけ、簡単な劇をしたことがあるの。
幼稚園の年長さんの時の、おゆうぎ会。
内容はあんまり覚えてないけど……私は一言くらいしかセリフのない、小さな役だった。
たった一言を何度も何度も練習して、絶対大丈夫だって思ってたのに――ダメだったの。
舞台に立ったら、びっくりするくらいお客さんの声が聞こえてきて、怖くなっちゃったんだ。
あ、私、普通よりちょっと耳がいいんだ。だからいっぱい、聞こえたの。
お客さんっていってもみんな誰かのパパやママだから、酷いことを言う人なんていないんだけど……。
――うちの子の出番、まだかしら?
――主人公の子、元気だね。
――もっと出番増やしてくれたいいのに。
ひそひそ好き勝手に囁く声が、いっぱい耳に入って来た。
それにびっくりして、混乱して、何となく怖くなって――何も、言えなかった。
舞台の真ん中でぼーっと立ち尽くすだけで、何もできなかったの。
**
「そうなんだ……」
私の弱々しい独白を聞いて、春日井くんは悲しそうに顔をくもらせた。
ただのおゆうぎ会。下手か上手かなんて関係ない。
元気にセリフを言えたらそれでよかった。
なのにそんな簡単なことも、私にはできなかったんだ。
そんな私に部活なんて、できると思う……?
「うん……そんな昔のことって思うかもしれないけど、私はあの時から、全然成長してないと思う。ずっとずっと、演技ができないままの私なんだよ」
みんな仲がよさそうで、劇も面白い、とっても素敵な部活。
たった二回行っただけなのに、私はあの場所が、大好き。
大好きだからこそ、それを私がくずすなんて、絶対に嫌なの。
春日井くんの緑色の目が、寂しさと悲しさに染まってる。
心配そうに、気遣うみたいに私を見てくる。
「……ごめん。変な話して」
「ううん。話してくれてありがとう」
私が謝ったら、春日井くんは優しく言ってくれた。
悲しそうな目を細めて笑ってくれる。
春日井くんはまだ心配そうな顔をしてるけど――キーンコーンカーンコーンと、チャイムが鳴った。
先生が入ってきて、賑やかに話をしてたみんなも、ぞろぞろと自分の席に着く。
「あ……座らないと。後でね!」
ちょっと残念そうに言った春日井くんも、自分の席に戻っていく。
私も、自分の席に戻らないと。
そう思って席に行こうとしたら、春日井くんがくるりと振り返った。
「ねぇ、さとちゃん……。もし、昔なんて関係なかったら――そんなの全部、乗り越えられるとしたら……声劇したい?」
落ち着いた静かな声で、そう聞いてくる。
いつもの元気いっぱいな声とは印象が違ってて、なんだかくすぐったい。
少し影のある表情に、ドキッとした。
「……うん。うん、したい、やってみたい……!」
ぎゅっと胸の前で手を握って、正直に言う。
この手を伸ばして、届いたらいいのに。
舞台の上に手を伸ばしたって、客席からじゃあ届かないのに。
決して届かない願いを、春日井くんにぶつける。
「――わかった」
私の願いを受け止めた春日井くんは、力強くうなずいた。
その顔からも、声からも、何を考えているのかは全然わからなくて――。
――だけど何かが起こりそうな、何かを起こしてくれそうな予感がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます