2-24 恋の記憶
マセューは目を細め、穏やかに微笑みながら告げた。
「ワシはの…… 学者じゃ。転生者を研究しておる」
そう言いながら太くて丸っこい指先で眼鏡をなおし、
「──身なりから見て…… ショウワからレイワ時代と見えるが、お前さんの時代にも苗字が無いなんてことはあったのかね?」
その口ぶりと、優しげな眼差しに、タケシの目に涙が滲んだ。鼻の奥がツンと痛んだ。
確定したわけではない。だが胸の中にまた血が通いだしたように熱くなる。このマセューなる男性が、これまで出会ってきたバルディア人のなかでは特異な性質を持っていることは間違いない。物腰や眼差しに、温かさがあった。懐かしいあの日本の人々にも近いような、そんな感覚だが、──とはいえ、これが巧妙な罠かもしれないと思うタケシもいる。
そんなタケシは、ひとつ息を吸い込んで気を落ち着かせるように吐いてから言った。
「実は、どうもそれが奇妙なことに……忘れてしまったようなんです」
そう言いながらタケシの頬には瞬きとともに一筋の雫が流れ、とりたててそこには感情も無かったが、それでもマセューは、ハンカチを取り出し、タケシの目元を拭いた。
そしてうなずきながら言った。
「──なるほど。そういうこともあろう。転生者というものは、元の時代や元の土地、そういう元々の世界から、いきなりこのバルディアに飛んで来るものでは無いのでな」
彼らは世界の壁を越えた直後、バルディア人が〝回廊〟と呼ぶ
そこには時間の流れが無い。すなわち永遠だ。しかも次の世界へ続く穴がひらく時と場所は、あの龍哭の気まぐれによる。
「その間、ヒトの精神は無限の時間に耐えきれないようでな。崩壊してしまうらしい。いわゆる拘禁反応じゃ。無理もないことだ。死ぬことも出来ず、永遠に独りぼっちのまま、上も下もない空間を漂うのじゃからな。……タケシ、だからおまえのように正気を保ったままこのバルディアに降り立つ者は、少ないと言うわけじゃ」
マセューの目を見上げて、タケシは言った。
「じゃあ、おれが苗字を忘れてしまったのも……」
「うむ。苗字にこだわりがなかったのかもしれん。先人達の研究によれば、転生者は元の世界で大切と感じていたものほど記憶に残しておるようじゃ」
タケシは自分の身の上を思い返してみた。
「そっか……」
たしかに、不思議なほど身内や友人の顔がよみがえってこない。でも悲しくない。
目を伏せたまま、空虚な胸の内を眺めた。
あるいは、そこにイリアが住み着いたのかもしれない。
そんなタケシの髪を、我が子のように撫でたマセューの温かな手は、白衣のポケットから小さな巻物を取り出した。
「あるいは、それよりも大事な記憶があったのかもしれん。……おまえのように高度な正気を保っている者は特に」
そう言いながら慎重に、巻物の止め紐を解き、中を開く。
「ところで、これが読めるか。タケシ」
巻物には、
タケシは、目を凝らす。
「──なんて言っていいのか……達筆すぎてわからないけど、ひらがなみたいだから、日本語の古文みたいですね。……平安時代の女性の書いたもの、あるいはそれを後世の人が模したもの。そんなところですか」
即答めいたその返しと、そのタケシの見上げる眼差しにマセューは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
巻物を閉じ、シルクの布に包んで収めたマセューは、所長へと振り向いた。
「のう、所長。ワシがここに来るようになってもう何年になる」
腕組みをしたまま所長は、難しい顔をする。
「私が赴任する前からだとしか」
マセューは天井を仰いだ。
「コネなし、碌なしの、貧乏学者にはちょうどいい副業じゃったが、それもあってこういう無茶な頼みごとをしたことがないのは、ご存知の通りじゃ」
マセューは、タケシの拘束具を見た。影の中で真剣な表情をしている。そして背中越しに所長へと語りかけた。
「ワシが、貰い受けることはできんかね。この転生者を……」
麦わらの上で横顔を持ち上げながらタケシは、足枷をずらして二人のやりとりを見上げた。
だが所長は重い首を振った。
「……いや、規則や、ノルマのためではないんです。ドクター」
その目は至って実直に見えた。
「先ほどこいつが口走ったパレードの話し、正直、聞き捨てはできない訳です」
「我々にも心当たりがないと言う訳です。──昨今の
「そうか……」
マセューは白衣に手を差し込んで、格子窓を残念そうに見上げた。
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