2-23 正気の転生者

 タケシはうなづいてみせて、口を開いた。


「口内を診察するんでしょう? はい、どうぞ」


 脈を採った手をそっと離すような手つきで感じた。このドクターという人物、悪い人ではない。タケシはにっこり微笑んだ。


「ほ! こいつは驚いた!」


 嬉しそうに眼鏡を直しながらマセューは腰を持ち上げて、タケシに問いかけた。


「名前は憶えておるか?」


 タケシは瞬きをしながら答えた。


「──ドクター マセューと、所長さん? でしたっけ……?」


 マセューは腹を抱えて笑い始め、そのまま所長を振り返った。


「所長、こいつは大ごとじゃ。まさかの……こいつは、正気の転生者じゃ……!」






 所長と呼ばれたそのカイゼル髭をたくわえた憲兵隊長は、肩に房付きの肩章エポレットをつけている。それは確か士官を表したはずだとタケシは思いながら、ドクター・マセューなる白髪の中年の丸っこい顔もその正面からまざまざと見た。


 所長は、タケシのことを、高価な落とし物か、せいぜい稀少種のイヌを見るような口ぶりで一瞥し、マセューに、


「道具屋通りで行き倒れたのをシャスポーが捕獲しました。発見時は朦朧としていた模様ですが、ご覧の通りの肉付きでして。あるいは新参者かと思い、再度お越しいただいた次第です」


 所長は声を出すたび髭を動かす。その腰にはあのディンゴの同じ型のサーベルを帯びてはいるが、目つきは良くない。いかにも事務方といった冷たさが滲んでいる。


 また、この所長がドクターと呼ぶ医師あるいは学者だろうマセューは、白衣を羽織って銀縁の丸眼鏡をかけている。人相は悪くない。目も鼻も頬も丸っこくて血色がいい。


 マセューは膝を伸ばし、タケシの顔色を見下ろしながら首を捻った。


「あの筋で気を失い倒れたと言うから、酒かジギタリスかと思ったが……脈以外におかしな所もない。もしかしておまえ、胸を強く打たんかったか?」


「ええ、まあ。そんなところです」タケシは言った。


 脳裏にはイリアが抱きついたことを思い出し、胸がひとつ高鳴った。だがあまり詳細は明かさないほうがいい。それよりも、


「──所長さん、ちょうど良かった。話したいことがあるんです。明日のパレードに関する重要な話です」


 それがあまりに意外な言葉だったのだろう。タケシが横たえる顔に所長は目を見開いたが、タケシは間を置かないで言った。


「春の国の王子の、命に関わる問題です」



 マセューが促したように、所長は顔を上げて、ふたりは目を合わせた。


 気を落ち着けるように息をすいこんだ所長は、タケシに向き直るものの、先に口を開いたのはマセューの方だった。その切り出し方は、所長の動きかけた髭を手で制しつつ、さらに言えばタケシの言った言葉をも遮るようなタイミングだった。



「──まあ少年、大事な話しじゃろうが、それは後回しにしたほうがいい」


「え、でも……!」


 身を起こしかけたタケシを、マセューは手で制し、口の前に片手で指を立てた。


「悪いことは言わん。妙なことを言えば拷問が待っとる。だから今は静かにしておれ、少年」


 その背後で所長がオホンと咳払いをしたが、マセューは素知らぬふりをする気なのかカバンに聴診器を押し込みながら、白々しいまでの淡白な表情で所長に言った。


「まあ、身体は健康体じゃよ。留置には問題なかろう」


 安堵したような所長が、再び咳払いをしてから、軽く頭を下げる。


「それはどうも。ありがとうございます。で、真贋のほうは……いかほど……?」


 マセューは、ひとつ勿体をつけたいような顔で手を止めて、言った。


「──ん。転生者で間違いなかろうよ。捕獲ノルマに加えてよかろう。だが……。知能は稀に見るレベルで高いまま保持しておるようじゃ。……こんなこと五十節に一度あるかどうかで……」


 そう言いながら、うつむいたマセューに対し、所長はにわかに喜色を浮かべ、


「それは助かります! 何しろここのところ警備で予算が尽きかけておりまして。では、さっそく春の国の大使館に連絡を飛ばし……」


「あ、いや、そのことじゃがな、所長。なんというか、……もうひとつだけ、念の為に調べさせてもらっていいかのう?」


 すると所長は、表情を曇らせた。その許可は出すものの、


「ええ、まあ。そうおっしゃるなら……お付き合いしましょう」


 渋る顔をそのままに、腕を組んで、怪しむような目付きで二人を見守った。






 マセューは、あらためるようにタケシへと向き直った。


 今度は動物ではなく、甥っ子でも見るかように、その視線の高さを彼に合わせて、その瞳の中に温もりのような穏やかな輝きを浮かべた。


「きみ、名前は、なんだね」


 タケシには、不思議に感じられた。このバルディアで目を覚ましてから本質的に醜悪な人物というものには出会ってこなかった気がするのだが、それでも今のマセューの目には、これまでに向けられたことのない種類の深い情があった。


 それは、雪溶けてきたあのイリアの目の中に見え始めた柔らかさに似ているが、それよりもさらに距離がないものに思える。


「──タケシです」


 マセューは、さらに微笑を浮かべた。


「そうか、タケシか。うじかばねは無しかね」


 返ってきたその言葉に、タケシの顔は横たわったまま大きく驚いた。

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