2-8 喉元に突きつけられた刃

 視界は、赤黒いだけで、何も見えない。



 しかし、耳をすませば、煙を噴いている何かの向こう側で、女が咳き込むような音がしている。


 タケシは目を閉じた。


 やはり、──その咳は前方から聞こえる。



 タケシは、石畳の上を這いずって、咳のする方向に、石畳すれすれを進んだ。










 イリアは、煙幕玉の色だと言っていたが、はたして実際にその中へと飛び込んでみれば、途切れを知らないヘアスプレーが吹き出しているような音が、赤い闇の中に満ちている。これが煙幕だとすれば、一体だれが何の目的で噴き出させているのか。


 あるいはその誰かが、まだこの煙中で身を潜めているのかもしれない。


 タケシは目を左右させても何も見えない闇の中で身震いがして、とても立って歩くことは叶わなかった。



 這いながら、その女の咳き込みに近づいて、腹這いのまま移動するタケシの手にまた、まだ温かい血の感触がした。血溜まりだ。その中にもう一体の死体があり、まだ温かいその甲冑の体を這って跨ぎ、向こう側を手探りするうち、横たわる誰かの全身を覆う甲冑に、あるのは皮膚感覚だけだとは言え、タケシは息を飲んだ。


 血溜まりの中に手を触れると、やはり、そこにはローブの感触があった。


 もしこれが青ければ、そして頭部以外を覆う全身の甲冑が銀であれば、


「──これ、憲兵隊の人か」


 タケシは、青いローブに全金甲冑のディンゴを思い浮かべた。






 しかし、彼は唇を噛んで、また四つ足で這い出した。


 煙幕の中に、あの咳き込みを長居させたくない。


 それに、イリアが言うように、一発目の煙幕で集めた野次馬を二発目の爆弾で出来るだけ多く仕留める計画かもしれない。


 さらに憲兵を少なくともふたり屠った ──しかも一瞬にして二人をだ── 刃物を持つ誰かが、この煙幕のなかに、まだ身を潜めているかもしれない。


 タケシは首を振った。わるい妄想は手綱を振り切った馬のごとく膨れ上がっていく。


 光の差し込む隙間もない深海の底に居るような中で、方向感覚を失ったまま、こうしているうちに背後にも、そして顔のすぐ横にも、何かが居るような嫌な気配を感じる。しかもそれが人間でない可能性もある。


 首筋に汗が浮き、如意を縛った腕が震える。


 記憶に生々しいケルピーとの戦闘での恐怖がまぶたの内に蘇ってきて、タケシは目をきつく閉じた。


 目と鼻の先に、あの使役魔獣が大口を開けて、タケシの首がそこを通過するのを待っているような気がする。


 胸を押さえ、荒い息で汗も流れるまま、彼は闇の中、四つん這いから仰向けに転がった。


 来なきゃよかったと、猛烈な後悔が胸に去来する。目頭が熱くなり、口もとをへの字にして、タケシは、イリアのことを想い出した。


 道着の袖を噛んで目を押さえ、叫びたい衝動に耐える。


 だが、押さえきれない恐怖はそのままに、彼は息を整える。


 




そしてベソをかきながらも、ふたたび如意を抱いて煙幕の中を進見始めたが、そっと近づいてきた何かに髪を掴まれ、剥き出しに持ち上げられた喉に、氷柱つららのような冷ややかさを感じ、


 タケシは、赤い闇の中、動きをとめ、歯を食いしばったまま、生唾を飲み込んだ。




 しかしその影は、


「物好きにとびこんで来たようだが、あんた、何者だい」


 どこか聴き覚えある壮年男の声で、髪を掴んで持ち上げたタケシの喉に、短剣ダガーを当てたまま、その耳もとで囁いた。





「──と、取り残された女性をたすけに……」


 喉ぶえにあたっているのは、刃渡りのみじかい両刃短剣ダガーと思われ、それの冷たいつららのような感覚が、タケシの喉の正面から側方に移動して、点のような切先を正確に、喉仏に突き付けたまま、


「訛りがあるな、転生者か」


 その男が手をわずかに緩めた。タケシに、うなずくだけの空間を与えるためだろう。


「そ…… そうです」



 すると壮年の声が、彼の髪を掴んだまま、


「じゃまさか、あの女魔道士に踏み台にされていた小僧か」


 肩を揺らしているように笑った。






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