2-9 外では……

「──と、取り残された女性をたすけに……」


 喉ぶえにあたっているのは、刃渡りのみじかい両刃短剣ダガーと思われる。


 その薄く冷たい刃の感触が、タケシの喉を正面から側方に移動して、点のような切先を正確に喉仏へと当てたまま、


「お前も訛りがあるな。転生者か」


 髪を掴む手が、わずかに緩められた。タケシは、うなずくだけの空間を与えられ、


「そ…… そうです」



 声に出すと、壮年の手が、肩を揺らすように笑った。


「じゃ、まさかおまえ、あの女魔道士が踏み台にしていたクロカミか」



 喉元の感触に見え隠れする死に、冷や汗がうなじを滑り落ちた。



 口角を上げ、引き攣った愛想笑いをするが、


「──あは、どうも……」


 短剣の男は、彼の耳元に口を近づけ、


「お前は命拾いをした。帰って主人に伝えろ、ウサギを討つ気なら、黒羽衆が手を貸すとな。 ……近いうちに会いに行く」


 そう言うや否や煙の中、短剣を引き、声の主は音もなく跳び去った。






 タケシは、荒い息で、四つん這いのまま、上がってきた苦い胃液を吐き、


「──くろば衆……?」


 煙の中で汗を拭い、つぶやきながら暑苦しげに顔を上げた。


 喉の奥から、吐き足りない恐怖が込み上げてくる。


 だが、少なくとも生命は拾った。


 タケシは如意を握りしめ、こわばったあごの筋肉を揉んで喉元に手で触れ、短剣の跡をさすり、無事を確認すると、心を落ち着けるように目を閉じて、女の咳きこみがする方向に耳を澄ました。




 いまだ煙幕の噴出する音も、弱まった兆しがない。


 タケシは目を閉じたまま、開けていても、閉じていても、この煙の底では大差ないまま、呼吸を数えて整えた。



 そしてふたたび、闇の底を、シカルダから預かっている如意を引きずりながら這って、女の咳き込みにむけ、また別の憲兵の遺体を乗り越えながら、いつでも如意を振れるように、身構えたうえで、その咳き込む女の背中側に回った。



 それから慎重に声をかけた。


「──男の子の、お母さんですか」


 赤い煙の向こうでしゃがみ込んでいた女が振り向いたように、咳の向きを変えていっそう激しく咳き込みをした。何度もうなずいているようである。


 タケシは接近し、視界など無い中で、「助けに来ました、一緒にここから出ましょう」と声をかけ、女性の背中に手を回し、自分の体を支えにしてゆっくりと立たせようとしたが、咳き込みがひどく、とても立てそうにないと言いたいのか女の首を横にふる感触がした。


 タケシは女の脇から如意を、胸の前に横渡しとなるように差し込んで、煙の外へ引きずろうというのか一歩、また一歩と後退しながら、慎重に彼女を後ろ向きに引きずって進んでいく。


 だが、煙幕の赤い闇の中では、出口はおろか風向きもさっぱり分からない。


 赤い煙の中で、目を凝らしても、周囲は真っ暗な壁にしか見えなかった。


 視界を遮られ、方向感覚を喪失した不安が、恐怖をともなって手にしたばかりの安堵を侵食する。


 


 だが、これは単なる空間失調だと自分に言い聞かせ、タケシは深呼吸をしたい気分のまま、それは叶わない煙幕の中で目を瞑り、そして、頭の奥を侵食するしびれのようなこの感覚もまた、幻なのだと心に言い聞かせた。




 そう。ともかく真っ直ぐにさえ進めばいいのだ。ただそれでいいはずだ。


 それでも、この女の咳こみ具合と肩でしている苦しげで細い呼吸からして、この煙の中に置き続けることは、おそらく肺臓の強くない彼女にとって危険であることは間違いない。


 しかしそれにしても、できることはただ一つ。早急に煙幕の中から出ることだ。


 

 タケシは、赤い闇の中で迷いを捨てるように、再び目を閉じ、


 耳を澄まし、


 まぶたの内に、シカルダの、穏やかな目を想い浮かべ、


 咳き込む女の背中に、そっと手を添えながら、自らの呼吸を整え、


 振り上げた如意を、勢いよく石畳に突き立てた。




 すると、赤い煙幕の中に金属音が響き、閉じた目蓋のなか、両目の中間に、その濃淡が反響エコーのように伝わってきた。


 タケシは、目を開き、


「──たぶんコッチです! いいですか、引っ張りますよ、咳は遠慮なく、そのままで結構ですから!」


 信じた方角に向けて後ろ向きに、タケシは彼女を引きずった。



 すると先ほどの男児か、激しく泣き呼ぶ声が聞こえ始め、安堵しタケシは、そのまま後ろ向きに一気に煙幕を抜け出した。



 そして彼の母親らしきブラウンヘアの女性とともに並んでタケシも、尻もちをつき、荒い息を吐きながら仰向けに寝転んだ。



 ぬけるような青空の下、ようやく新鮮な空気を肺いっぱいに満たし、ともかくまた拾った自分の命と、男児の母親の命、その実感に浸った。



 空には風が吹きわたり、遠巻きに人々が集まってきて、あらたに出来つつある人垣のなかでタケシは、寝転んだまま青い空を仰ぎ、



「そうだ、坊やは……」


 振り向いて、泣き声のする空を見上げたが、そこには、


「──?」


 白スカートが、ブーツで踏ん張っており、その先の腕が抱えた男児の手足に、三つ編みと、口びるを引っ張られたままイリアが顔と胸を足蹴に押されながら、白フクロウのような三白眼を怒らせて保育と格闘していた。








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