2-7 救いを求める声

 一方、タケシは、全力で駆けながら、前方の煙へと目を凝らす。



 サーカスの人垣が崩れ、散り散りに逃げ出してからは誰一人として顧みる者のない路地の一帯に、赤い煙が濃く充満し、壁のように立ちはだかっている。


 その赤い壁の手前に、逃げ遅れたような男児がひとり、倒れたまま泣き声をあげているのが見えた。








「大丈夫かい、怪我はないか、痛いところはない?」


 駆け寄って尋ねると、男児は泣きながらもうなずくが、ちいさな靴の足を挫いたのか、立てないでいるようだった。


 膝小僧を擦りむいてはいるものの、それ以外に目立った外傷もない。ただ、ショックからだろうか体温が低い。とはいえ、それ以外には怪我はなさそうで、ひとまずタケシは胸を撫で下ろした。



 しかし、それよりも大切なものを煙の中に置いてきてしまったかのように男児は、その小さな手で、赤い煙幕の中を指差し、いっそうと激しくタケシに向け、泣き始めた。


  


 その様子に、タケシは周囲を見回した。


 年端もゆかない男児だ。一人でサーカスを見物をしていたとは考えにくい……。


 しかし、父兄の姿は無い。



 となると、男児の指さして泣く先には、


「もしかして、あのなかに、おとうさんか、お母さんがいるの?」


 タケシが尋ねると、男児は涙を両手で拭いながら、肩を震わせて大きくうなずいた。




 タケシは、濃厚な煙の中へ目を凝らしてみるものの、赤いモルタルのような煙幕は光をわずかも通さず、


「まるで中が見えないな……」


 自分も汗を拭いながら、タケシはつぶやいた。


 赤い煙は、縦横の幅を広げてゆっくりと、確実に厚みを増している



 タケシはとりあえず男児を抱き上げて、後退することにした。だが男児は、まるで下ろしてくれとでも言うのかタケシの小脇中で暴れ、泣き叫び、足を突っ張ってのけぞるように抵抗し、赤い頬からとめどない涙が流して母を呼んだ。





 タケシは、膨張し続ける煙の壁をはなれた位置から見上げ、わずかに息をつまらせた。


 だが、怖れを払い落とすようにかぶりを振って、男児に言った。



「いいかい、ここで待ってて。お母さんは必ずおれが、連れてくるから」


 タケシは、帯をといて、武術着の上着を男児にかけて包み込み、抱きついてきた男児の髪を撫でて、


「できるかな? ──よし、約束だよ、誰にもついていっちゃダメだよ」


 その顔の涙を拭いてやると、右手に如意を固く握り、男児にと微笑んでみせた。



 そうして、立ちあがり、口もとを黒いTシャツの裾で押さえて、視界ゼロの赤い煙幕の中に飛び込んだ。













 赤みがかった煙の中で、タケシは左右を見渡す。


 しかし、光を全く通さない煙の中は、ほぼ闇だと言えて、ほのかに酸っぱいような煙が立ちこめる中で、何かが、まだ煙を盛んに噴く音がしている。


 まるで視界の無いなかを、タケシは手探りで、靴底をたかくもちあげないまま、石畳に引きずるようにして、赤い血の海の底を、歩くようにゆっくりと進んだ。




 口元はシャツで押さえ、如意の先で赤い闇の中を、杖のように突き、探りながら歩く。


 この奇妙な煙が、喉や粘膜を激しく刺激しないものだったことには感謝をしたいタケシだが、だとすると、イリアの言ったようにサーカスが演出で使う煙幕が、なんらかのミスで燃え始めたのだろうか。


 そうならばと、タケシが煙の中で、「だれか、逃げ遅れた方はいませんかーー!」と声を上げた時、視界ゼロの石畳の先を手探りしている如意の先が、倒れたままなのだろうか、誰かの身体の一部に触れて、薄い金属板のような音を立てた。







 タケシは、すぐその場にかがみ込み、左手を伸ばしてその甲冑を着込んだ体に手を這わせ、男児の母親が金属製の甲冑を着込んでいるのも妙な話だと、奇異に思いながらも、大丈夫ですかと声をかけながら、揺らすが、重たいそのからだは力無く揺れるだけで返事をしない。重たく無反応なそれが、押されて揺れるたびに、喉のところでヒュウ、ヒュウと笛を鳴らしたような風音を立て、寒気が走った。


 タケシがその手で、横たわる身体の顔を探り、ヒゲの生えた濡れた口周りに呼吸がないことを感じ、その下へ手を這わせ、首筋に指先を当てたが、その脈はすでに失せており、しかも脈がないどころか、その首には、まだ生温かい、ぬらぬらとした血の感触がした。


 タケシは慌てて手を引っ込めたが、気管のどぶえが、ありえない位置で切り裂かれ、ぱっくりと開放している感触を手が覚えている。


 鋭利な刃物が、一瞬で切り裂いたに違いない。


 目を固く閉じたタケシは、背中に、汗が滑り落ちるのを感じた。


 








 脳裏に、イリアのむくれ顔が浮かぶ。だから言ったのにと、みさかいなく騒動に首を突っ込むからよと、そうイリアの幻影が煙の中で叱責するが、タケシは、シャツで手についた血のぬめりを拭い、如意を固く握りしめて、煙の中で荒れた息を落ち着け、首すじをつたう汗はそのままに、歯を食いしばり、耳を澄ました。




 視界は、血液の中を泳いでいるような赤黒いだけで、何も見えない。



 引き返した方がいいとも思った。煙だって、時間がたてばきっと晴れていくに違いない。そのあとで、あの子の母親を探せばいいじゃないかとも思いながら、しかし、耳をすましているうちに、煙を噴く何かの向こう側で、女の咳き込むような音がした。



 タケシは、目を閉じたまま、聞こえなかったかとにしようかと迷った。


 ただこのまま後ろ向きに進めばいい。

 誰もこの煙の底で、自分の行いを見るものはいない。


 とは言え、タケシは、赤黒い煙の闇の中で、臆病を振り落とすように首を激しく振った。







 やはり、──煙を噴いている何かの向こうで、その咳込みの音は聞こえる。


 さきほどの男児の母親か。それとも……



 タケシは、決意した目を開けた。



 だが、そこまでの間に、誰かの首を切り裂いた何者かが、潜んでいないとは限らない。タケシは、頭を抱えて自分に悪態をつき、激しく髪を掻きむしり、


「──ああもう、なんで、 おれはホントによぉ……」


 諦めたように、咳の音に向けて石畳すれすれに顔を寄せて手をついて、


「はぁ…… 二度としない、もぅ、にどと人助けなんかしないぞ、ほんとに……」


 涙ぐんだ半ベソのまま、無視界の中を這って進みはじめた。









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