1-42 盲目の達人

 夜明け前の空の下、緋色の道着を着た男が、


「タケシさん!」


 彼の頬をたたき、目を覚ませと求めている。




 ぼんやりとタケシは意識を取り戻した。


 彼は上体を起こした。



 雨水を湛えた広場には、空が映っている。


 その空の中央に、ケルピーが佇んでいる。


 白んだ遺体が点々とし、雲が流れている。


 酒場はタケシたちの背後にあった。






 ケルピーに弾き飛ばされた後、どうその上から落ちたのか…… 覚えていない。痛む頭を振ってタケシは、陶然としていた意識を払拭し、はたと気づいたように緋色の道着の武僧へと向き直り、水音を立てて正座した。


「──シカルダさま! どうしてここに!」


 盲目の武僧モンクは、微笑むが、


「それよりも、手を」


 と、如意を握らせてから、美しくも凄惨な、天と地が交差したような広場を、耳で探るように、見回して、


「これは、あなたの作戦ですか」


 タケシの手を引きながら、自分も腰を上げた。



「そうです……。でも俺のせいで……」


 ケルピーが水鏡に残る三本の脚を踏ん張って、腹を浮かせ、水面に複雑な波紋を広げた。シカルダの肩越しにそれを認め、タケシは、悔しげに如意を握りしめた。


「……台無しです」


 風が渡り、水面にさざなみを立てる。


 だがシカルダは、


「何をおっしゃいますか」


 彼の肩を叩いて、力強く微笑んで見せる。


「あなたが生きている。まずは合格点じゃないですか」


 そう言いながら彼は、這い寄るケルピーの腹と石畳が擦れる水音に、振り向いて、


「しかし。賢いあなたのことです。次の作戦はもうここに、あるのでしょう」自分の剃りあげた頭を、つついて見せる。



 タケシは、胸が熱く、まだやれそうな気持ちになった。


「生き延びたら、次はできるだけ早く前を向かねばなりません。いいですか、タケシ、」


 そう語りかけつつ、シカルダは、ケルピーに向けて胸を張り、


「ひとの瞳は、前に向けて付いているのですからね」


 足もとでひかがみを揃え、けして大柄とはいえない痩躯のシカルダが、前方から這い寄る巨大な川馬ケルピーを見下ろすようにおとがいを上げ、睥睨する。










 ケルピーの近付く波紋が、徐々にシカルダとタケシに接近している。


 その距離は五〇メートルほどか。


「状況をきいておきましょうか」


 近付く魔獣に耳を向けながら、シカルダは、背中のタケシに尋ねる。




 重鋼甲冑の大男が、脚を砕かれたながらもケルピーの尾を切り落とした。憲兵隊の生き残りが爆弾を作り、如意はイリアの重力魔法でコアを撃ち抜くトドメとして機能することが分かった。だが、戦況は振り出しに戻ったと言っていい。


 ケルピーの腹を、再び、めくり上げるか、持ち上げなければならない。




「オレのせいです」タケシは拳を握った。


 だがシカルダは、肩を落とすタケシに、背中越しに微笑む。


「いや、よくやりました。味方の命を落とさず、敵最大の武器を破壊しました」


 ケルピーに向かい、両耳を澄ます。距離は三〇メートル。


「しかし、シカルダさま、ケルピーは……!」もう目前である。少なくともタケシにとっては、退避か突撃か、どちらかを実行すべき距離だ。


 距離二〇メートル。ゆっくりではあるが、力を溜めたようにそれは身を左へと屈め、跳躍を企んでいるのか、間合いを測っている。


「……シカルダさま!」


 タケシの手を、シカルダは、背中ごしに制し、


「水を張った石畳。まさしく、ケルピーに有利な地形です」


 彼の揃える踵も、水になかば浸っている。


「ゆえに、逃げても、攻めても、すぐに追いつかれます」


 だがシカルダは、


「かといって、逃げも、攻めもしないのは、座して死を待つようなもの」


 タケシは周囲に、使えそうな物を探したが、ケルピーの距離はもう一〇メートルを切っている。


 なのにシカルダは、足もとに波うつ水面よりも、静かで、


「──タケシ、息を吸い込んで、腹に力を張っておきなさい」


 それは、おおよそ魔獣を目と鼻の先にしているとは思えない余裕で、まるで名画でも鑑賞するように、後ろ腰に手を置いたまま、


 ケルピーの鼻面に穴が二つとも見え、もうそこから出入りする息に、手が触れられそうな距離にまで近づいていると言うのに、


「彼らは言葉を解します。細かい作戦は申せませんが──」


 と、ケルピーが天を覆うように開けた歯のないアゴを、シカルダは上体を折りながら片足立ちして避け、浮かせた右足で、タケシの腹に当てたところから彼を後ろ蹴りに押して、十メートルほども先に向けて跳ばした。


 空中で、腹に力を入れよと言ったシカルダの言葉を思い出しながら、タケシはろくに取れる受け身もなく、水飛沫を上げて尻餅をついたまま石畳を後ろ向きに転げて滑り、逆さまになって、ようやく止まったが、



 シカルダは、ケルピーの噛みついた手応えの無さに動きを止めた頭部の、その横からイタズラ小僧のように、顔を出し、


「──ね? 大丈夫でしょう」


 両足を揃え、バランスをとりながら微笑んだ。





 まるでサーカスだとタケシは思った。


 そしてシカルダは、魔獣の側面を、後ろ手を組んだまま悠々と歩き始め、


「さあ。あなたの相手は私です。あっちで遊びましょう」


 と、魔獣の脇腹を、手のひらで叩いて触れ、


 反射的に身をひるがえして噛むケルピーの、その大口のもとにまたシカルダの姿は無く、ケルピーは左右に目をやって、敵を探すが──



 シカルダは、また静けさを取り戻して空を映しつつある水面を、波紋も立てず尻尾に向け歩いていく。



「──せっかちですね。遊びですよ。まじめはいけませんね」


 その手の先は、指で油断なくケルピーの胴体をなぞっている。



 そして、タケシの呆然と自分を見上げる顔に向けて、


「この通り、私は指で気配を読んでおります。安心して行きなさい」

 

 ケルピーは彼のそう言い終わるのを待たず、切れた尾の一撃を一閃したが、ほんの半歩ステップしたか、シカルダは、それを見切って、


「さあ。あなたはディンゴさんのもとに走って、次の作戦を」


 余裕でタケシの目に、微笑んで見せる。


 そうしながらもまた、ケルピーの噛みつき二連撃を風に乗って悠々と、揺れ柳のようにかわしつつ、


「──ただし、走らせたら、いけませんよ。最近は回復魔法の手習いで忙しいものですからねえ。すぐ息切れしていけません……、──おっと。いいものが。」


 そう腰をかがめ、水面から拾い上げた石をケルピーの片鼻に詰め、悪童にかえったように肩をあげて、小走りに回り込んでいく。ケルピーも、噛みつこうと身をよじりながら追う。




 タケシは、魔獣を翻弄するシカルダに一礼し、酒場に向けて駆けだした。

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