第五話 転生者
1-41 願いは二つ叶わない
夜明け前の空が白み始めている。
弱まったかに見えた雨が、思い出したようにディンゴの頬を打つ。そんな生温かい風の中、彼は目を見張った。
ケルピーの腹の上で、タケシが四つん這いになって、
「まさか」ディンゴは目を凝らした。「……如意は使えないのか」
如意はまだタケシが握っている。こんな好機だ。
ディンゴは駆け出した。
走りながら彼は、広場を見渡す。
ボヤンスキーは、脚をやられているのか──弾き飛ばされた戦斧を手に戻そうとしている── 広場の隅を這っているが、命に別条なさそうだ。
視線の先、酒場からは、窓に身を乗り出してトズランとアルセンが南バルディアの
中央の戸口では、イリアがあそこで魔法を使っているからだろう。青く発光している様子がある。
併せ考えたディンゴは、気づいたように唇を噛み、そして、そのままを前方のタケシに叫んだ。
「タケシ! そのケルピー、今、イリアさんが魔法で押さえているようだ!」
舌をだらしなく垂らし、ケルピーは時折からだを揺らすが、内側から喉を掴まれたように広場の中央にピン留めされている。
しかも、よく見てみれば、その舌は下向きに透明な誰かが剛力で引くように白んでいる。彼女がそこに足留めをかけているのであれば、あの魔獣の奇妙な遅滞は説明できるが……。
──だが。長く続くまい。ディンゴは焦って声を荒げた。
「彼女がもたないぞ! タケシ、トドメを急げ!」
事実、酒場の戸口で、魔法の光が激しく揺らいでいる。タケシは知らないのだろう。魔力を放出している彼女に限界が近いことを。
「私が爆弾でトドメを刺す! 巻き込みたくない! そこから降りてくれ!」
ディンゴは駆けながらマッチを取り出す。
幸い雨は止んでいる。ケルピーも広場の中央で
しかし、タケシにはケルピーの腹の上、こちらを顧みる素振りすらもない。
このままでは、投げられない。
ディンゴは歯噛みし、叫んだ。
「聞こえないのか、タケシさん! ケルピーから降りるんだ!」
しかし、タケシは青山の顔に手を伸ばし、血と泥で汚れた前髪をかき分けた。だが反応はない。口角から垂れた舌が引き伸ばされて血の気を失い青白み、虚ろな目が、それと抗うように虚空を動き回っていた。
「青山さん……」
タケシの手は、ケルピー本体の冷たさとは違う、人間らしい体温を青山の額に感じた。
「……俺です、覚えていますか」
しかし、青山の目が泳ぐたび、同調して膝の下でケルピーの胴体がタケシを揺さぶった。認めたくはないが、このケルピーの肉の奥で青山が魔獣と神経的に動機している事は、疑いようがない。
「タケシです……!」
しかも、その顔に生気は無い。
生ける屍とは、こう言うことかとタケシは唇を噛んだ。
彼は、なおも呼び続け、
「待ってください! おれは、この人と〝回廊〟で会ったんです!」
だがディンゴの表情は、信じられないことを耳にしたとでも言いたげに、薄笑いを浮かべてから、一変し、怒りを含んだ。
「──
だがタケシはその声を無視し、青山を見つめながらディンゴへと、不服げに言う。
「そうです。青山さんって言うんです。あなたと同じ警官ですよ」
ディンゴも、ムキになったように叫ぶ。
「無理だ! 馬鹿げている! 核になった者は二度と人間には戻らない!それに…… 回廊とか…… お伽話もたいがいにしろ、目を覚ませ!」
「──見ろ! イリアさんがケルピーを止めている! だが長くは持たないぞ、トドメを刺すには今しかないんだ!」
タケシの横目に、ディンゴの手の中のマッチが見えた。
「長くは持たないって…… どういうことですか」
不吉な言葉に、焦りが心を覆った。
「いいだろう。知らないのだな! ──いや……。知らぬ振りでも言わせてもらうぞ!」
ディンゴは身振りも大きく説いた。
「魔力とは、すなわち生命の力! ……だから、あの光は、彼女の生命そのもの! このまま彼女にケルピーを押さえさせておくつもりか! 光が尽きた時、イリアさんは死ぬのだぞ!」
タケシは目を剥いた。
放心したと言っていい。
だが言い聞かせるように叫んで彼の言葉も現実も、すべてを否定した。
「嘘だ!」
「──嘘じゃない!!」
ディンゴは押し込んでさらに、声を大にした。
「なぜ彼女が魔獣を足留めできているかは、わからん! だが君も分かるだろう! 何のために彼女が、命を削って…… 魔法をかけているのかは!」
タケシが酒場を見れば、イリアの魔法色で、戸口が青く光っている。
タケシは、きつく目を瞑った。如意を片手に、うなだれた。
青山の目が、上向きに痙攣している。
タケシは
「きいてくださいよ……」
「──いや聞かん! 聞け! きみが本当に回廊をみたのか、そこで何があったかは、知らん!興味もない!…… だがその両手で、ふたりは同時に救えないぞ! 分かっているのか!」
「だって…… おれ…… この人と……」
「ヒトじゃない! もうそれは魔獣に知性を供給するだけの副脳だ!」
タケシの口が、嫌だと震えながらわななき、天を仰いだ。
「…… 一緒に…… 龍哭を……」
「そうか! じゃあ彼女のことはいいのだな!」
ディンゴが指で酒場を示し、
「なのにあの子は! お前を信じ、今も命を削っている!」
蒼白の顔面でタケシの目が、灯火のような彼女の燐光を、震えながら捉えた。
ディンゴは鬼のような形相でサーベルを抜き、見上げる彼に迫った。
「いいか! どちらかを選べ、彼女か、
タケシは雨に絶叫した。
だがディンゴは間を挟まず、サーベルの刀身を逆さに持ち、「執れ!」とケルピーの腹上に放った。「これ以上、私を失望させてくれるな!」
サーベルの白刃が、タケシの目の前に躍った。雨粒が静止したように見え、タケシは反射的に、サーベルの柄に手を伸ばしていた。
「救え! 転生者も、彼女も! 完全にだ! やってみろ、お前がだ!」
タケシは、前髪の中で涙を流しながら、歯を食いしばりサーベルを手に、天を仰いだ。
唇からは血が滲み、つむって目を天にそむけたまま、鋭い切先を、青山の首元に当てた。その時──
──イリアが倒れたらしい。ディンゴが振り向くよりも速く青山が舌を収納し、竜巻のような胴体で地に弧を描き、ケルピーは一回転し、ふたりを天と地に分け弾き飛ばした。
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