1-36 戦場
酒場では、イリアの背後でアルセンが叫ぶ。
「続けてボヤンスキーのほうだ! お嬢、頼んだぜ」
「任せて!」
イリアは指鉄砲の先を、やや落とし、ボヤンスキーの背中に狙いを定める。
この距離であれば、
「トズラン、タイミングを測れ!」
「──了!」
トズランが、閉じていた片目を開き、ボヤンスキーに迫るケルピーの間合いを
「ボヤン、接敵まで、五〇、……四〇、……三〇、」
イリアは息を吸い込み、右の指先から胸鎖関節のくぼみまでのラインを一直線に集中し、ボヤンスキーの背中のさらに奥、心臓に、瞳孔の焦点を合わせる。
「……一〇、……今ッ!!」
指先から青い魔力を、イリアが放つ。
「グラッボ!!」
ボヤンスキーの背後で酒場の戸口の足もとが閃光し、
重量三倍の重鋼甲冑が、石畳みに重量三倍の戦斧を押さえ付ける。
その総重量は、瞬間的に一トンに迫った。
ケルピーは身をよじらせ、全力で反転しながら、そのボヤンスキーと言う鉄の塊と、地面にめり込んでいる戦斧の刃に、尻尾を、低く一閃したが、
ばつん── と、嫌な音を立てて空に舞ったのは、黒々とした尾の、その四分の三であった。
宙で半回転し、落ち、回転しながらそれは濡れた石畳を滑って、切れ別れた本体のケルピーも、重心の狂った巨体を制御できないままに横回転して、背中を石畳に叩きつけた。
「すごい……」
ディンゴは、力尽きたように足もとの前で止まった尾の先から、信じられないものを見ているかのように、仰向けにもがいているケルピーへと目を上げた。
──ここまでタケシさんは、計算していたのか……
だが、それは無い。仰向けになることまでは、想定外だったに違いない。
そう悟ったディンゴは咄嗟であった。しゃがみ込み、胸の前で爆弾を襷掛けにしたシーツを外し、小瓶の栓を抜いて、中身の蒸留酒をシーツ全体に流しかけ、揉み、染み込ませた。
その視線の先で、小山のようなケルピーは、仰向けのまま、失った片方の前足に加え、切断した尾も使えず、腹を天に露わにしたまま、短い手足で雨雲を掴むようにもがいている。
今、あの胸に戦斧を振りかざせば、
絶好のチャンスである。だがディンゴは奥歯を噛みしめた。
なのに、この機会に、ボヤンスキーは地に伏せたまま動かないのだ。やはり尾の衝突は尋常ではなかった。重い甲冑の中であってもやはりダメージは人間相手の比ではない。ボヤンスキーは意識を失っている。──そうに違いない。
ディンゴは、震える手で
──今宵は 十五夜、死ぬには 佳き日
彼は目を開け、立ちあがって、酒場に目をやり、雨に煙る、最後の景色を焼きつけた。
無意識のうちに、口にしていた乳母の歌が胸に響いた。あの頃、自分は何も知らなかった。だが今、命を懸ける理由は、あそこにもにある。
その目は、この世の一切に別れを告げるように、穏やかで澄んでいた。
夜目が利くのは、トズランだけであって、酒場の窓から、そのディンゴの様子に気がつけるのもまた、彼だけであった。
窓に足をかけ、彼は広場の一点、ディンゴの顔に目を凝らしているが、アルセンは、
「どうした、トズラン……」
声をかけた。
だが返事をしない彼に、
「おいまさか、ボヤンスキーの奴……!」と、別の窓から身を乗り出した。
だが、
「──ボヤンは無事です。気を失ったのか、動けません」
しかし、トズランは、唇を噛んで続けた。
「ディンゴの奴が……」
戸口でイリアが、息を呑んで彼を見上げた。
「ディンゴさんが、どうかなってるの!?」
アルセンも、
「おいおい、まさか。逃げ出したんじゃあるめぇな……」
不穏な顔で赤鼻に問うが、
「逆です。あのバカ……」
広場に目を合わせたままトズランは、胸の内を隠し、つとめて冷静に告げ、
「──死のうと…… しています」
目を固く閉じ、トズランは、窓枠に拳を当てた。
その夜目には、仰向けのケルピーも、削げ落ちた尾も、うつ伏せのボヤンスキーも、そして自爆を決めたディンゴの微笑みも、全ての判断材料は明らかで、
「──クソ憲兵!」
堪らず、感情剥き出しにトズランは、広場に向けて怒鳴り、叫んだ。
「何でそいつを投げないんだ!」
その絶叫は、彼にも届いている。
ディンゴは口角を上げ、
「すまない。──今、確実に
脚で、切れ落ちた魔物の丸太のような尾をまたぐ。
タケシの古代武器にも期待したいところだが、確実性において、今、この爆弾に勝るものではない。
「クソ憲兵! その爆弾を、さっさとカエル野郎の胸に据え付けやがれ!」
だが意外にも、酒場からは、赤鼻のトズランが途切れることがなくディンゴを急かし、罵倒する。
彼は苦笑した。酒場のほうを見遣る。
「火矢で狙う! はやく、早く、俺の言う通りにしろ馬鹿野郎!」
トズランは、彼を殴りたい腕を掲げ、振り回している。
だがディンゴは、上空の雲に、指を向け、
「もう雨だよ、トズラン」
離れていても、この闇夜でも、トズランの目にだけは、その表情までもが明らかで、
「だが君の心変わりは嬉しかった」
そう、つぶやいてディンゴは言うと、再びケルピーに向けて歩きだした。
マッチには、ディンゴ自身が蝋で防水したはずだ。とは言え、この雨が豪雨になれば、箱の方が濡れる。着火は叶わないというわけか。
赤鼻は、このもどかしさに、石壁を叩きながら絶叫した。
「この…… クソ憲兵…… ばかやろーーーーーーーー!!」
三日後、このイワエドの村から二〇
逆方向と言え、軍が逃したままの使役魔獣が街道を塞いでいることは、一行の耳に入れないわけには行かない。となると、この夏の国の面子に関わる。夏の王は、領主へと急ぎケルピーの討伐を命じ、領主は、管轄の憲兵隊に、このイワエドでの討ち取りを厳命した。
星空は、インクを流したように暗くなり、雨粒が頬を打ちだした。
この雨が、朝までに全てを洗い流す。
ディンゴは指先で、マッチの軸から蝋のコートを落とし、箱に当てた。
残る
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