1-35 核(コア)の記憶
青山亮二は、混乱していた。
まだ立っても歩けない娘の匂いを追い、夢中で這ううちに辿り着いた集落だ。
なのに待ち構えていたのは、警察署の同僚たちだった。
事情を飲み込めないまま、彼らの集合する砦に自分も顔を差し入れ、状況を尋ねたが、同僚達は青山を取り囲んで攻撃した。
撃たれた肩が、動かない。
だが、仲間から撃たれるような憶えは一切、無い。
身体が重く、心も……。
彼は、蹴散らした警官たちの遺骸の中で、途方にくれた。
いつから追われる側に回ったのか。たしか帰りの電車には乗った。
あれは当直明けで、うたた寝をした。
それきりだ。気がつけばそこは見知らぬ土地で、日本語を話す外国人たちに捕らえられ、手足に枷を受けたまま幾日も馬車に揺られ、荷物のように下ろされた街の城で、検査を受け、それから……
あのねばねばとした光なかに漬かって、それから、……それから、どうしたのだろうか。いくつもの戦いをした気がするが、
──あるいは、むしろ、むこうの記憶が夢だったのかもしれない。
妻があり、子ができた。
サッカーをして、ビールを飲んで、仲間達と過ごした大学時代があった。
中高と付き合った幼馴染があった。
転校した先でいじめに遭った小学校があって、
物心がつきはじめた幼稚園の事や、
父母と宮参りをした記憶。
そして、かつてバルディアにいた記憶。
思考は、堂々巡りをし、何も得るものの無いまま、夜だけが更けていく。
何もかもがあやふやな記憶の中に、ひとつだけ確かな物があるとしたら、それは今自分がいる夜の戦場だけだ。
娘は、風に乗って届く匂いからして、石組みの砦の中、警官達にまだ囚われている。
込み上げてくるこの衝動に、間違いなどない。
自分は確かに娘を追って、ここまで来た。そして傷ついて、力を尽きるのを待っている。
それまでに、やることは、ひとつ。
娘をこの腕に抱きしめることだけだ。
かつての同僚たちは、小さく、素早く、連携し、立てこもる砦の入り口は狭く、自分の巨体の侵入を許さない。
痛みだけが、仲間のように思える。
この乾いた身体は、もう思うように動かない。
無理を押せば、ゴムのような音を立ててきしむ。
だが、あたりの空気に増してきた湿気が、折れかけの心を包み込んだ。
風の中に、妻の声が聴こえる。
青山は、顔を上げた。
鼻をくすぐる乳のような、赤子の香りは、まだ漂っている。
なによりそれが、彼を奮い立たせた。
青山は身を起こし、掻き集めた同僚たちの
二度、三度、そして四度、五度と、仲間の血を浴びせる。
砦の中は、混乱していることだろう。
気がつけば、青山自身の身体も血に染まり、息が楽だった。
雨の匂いが強まった。
今なら、あの砦を撃ち砕ける。
それに、こんなチャンスは二度と来ない。
そんな気がした。
青山亮二は、砦に向けて身体を捻り、ゆっくりと這った。
痛みもない。もう悲しみもない。
うるさい御者も上司も市民も統制も、存在しない。
ここには、己のため、闘う自由がある。
──しかし、青山の耳に、砦の跳びでた小さな影が、左手と右手に分かれ、駆けていくさまが手にとるように聴こえた。
そして中央の、あの入り口からは、大きめの無法者が、金属のなかに身を詰めて、自分とは正対し向かい合うよう、ゆっくりと、斧を石畳に立てて足を根のように張り、立ち塞がった。
青山は腹の中で、嗤った。
同僚たちも、数を減らしている。
だとしたら、次の一戦で全ては決まる。
だがここで、彼の嗅覚は混乱した。正面の、あの無法者から娘の匂いが強く香るのだ。
嗅覚に届くそれと、金属の臭いの絡みつきが、脳と神経細胞の中で、不吉な可能性として閃光のように結びつく。
あの無法者、娘を喰ったか、殺めたか……
思考が、差し込んでいた光と入れ替わるように、魔獣の本能を優位にさせた。
青山は、瓦礫を蹴散らし、身体を捻りながら、砦に突進する。
あれを潰し、乗り越える。
娘はきっといる。
ちょうどタケシがそれを説明するのに、手のひらを石畳に見立て、垂直にしたもう一方の手を左右の刃に見立てたように。
そして、突き立てた戦斧の奥に、仁王立ちする。
刃の裏側が、自分の持ち場だ。
ここを、死守する。
いつもの事だ。
そのボヤンスキー目掛け、ケルピーは突進している。距離は二〇〇mか。タケシはその魔獣を横目に対向し、彼らを右翼に迂回した。上手く魔物は撒き餌に食いついた。このまま自分とディンゴさんは上手く背後に回れそうだ。あとは……
「──頼んだぞ、イリア!」
祈ることが、力となって自分に返ってくる。タケシはそんなことも知らなかった。祈ることは、繋がること。繋げること。信じること。
祈りとともに、彼は駆けた。
野球でも受験でも、こんなことは無かった。
参道口へ、全力で石畳を蹴る。
まだ早いが、もう叫びたい。生きている実感があると。
一方、左翼からは、ディンゴが回り込んでいる。
中央を、ケルピーが突進して行く。
ディンゴは左翼を駆け、遺体の陰に飛び込んだ。
爆弾を脇にずらし、身を低くすると腰のサーベルを抜き、天高く掲げた。
その白刃の
「ディンゴの配置、ヨシ!」
背後で指揮を執るアルセンに言う。
酒場の正面口では片膝を付き、指鉄砲を遠く構えるイリアがあり、
「ボヤンの接敵まで残り、十分の一(一〇〇m)!」
トズランが告げると、イリアが腕全体に溜め込んだ魔力を、歯を食いしばり、抑えつつ、アルセンに言った。
「グぎぎ、…… どっち!」
アルセンは、
「──参道口! 範囲魔法! 狙いは!」
イリアは、参道口一帯に、収束率を落として、手で掴むような狙いを付け、
「……、いいわッ、いつでも……!」
「ヨシお嬢!
アルセンの号令に、イリアが解き放った魔力で店内が歪んで激しく一瞬白む。
遠い参道口のほうから、ひとつ、甲高い金属音がした。
駆けているタケシにも、それは聴こえ、
「やっぱりだ!」
目を輝やかせた。
酒場を振り向くと、窓から火矢が、飛び出して、夜空に弧を描く。
重力呪に反応した、如意が形を変え、音を立てた。タケシの予想通りだ。
その音を耳で拾ったトズランが、割り出した地点に放った火矢が、これだ。
「いいぞ! こい! こい! よし、行け、行けーーー!!」
火矢が追い越し、導くように飛んでいく。
その先に、間違いない。如意がある。
そして如意とは、間違いない。
──魔力を運動エネルギーに変換する、一種の
雲の下、火矢は流星のように飛ぶ。
導くような光跡を追って、タケシは全力で石畳を駆けた。
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