1-38 〝回廊〟にて
光のなか、タケシは、その一部となって漂っていた。
どれ程のあいだ、こうしているのかも分からない。
それは永遠のように長くも感じられるし、ついさっきまで地上で、泥にまみれていたような気もする。
だが、彼はいつの間にか元通りの傷も汚れも無い身体に戻った状態の実体を取り戻しており、仰向けに光の中を漂っているなか、次第に意識を取り戻して来た。
何もかもが夢のようであるが、横目に、小さく、だれかの背中が見えたような気がして、タケシは光の中、身を起こした。
その背中までの距離は、遥かに遠い。
彼方の点か、粒子のようにしか見えないが、タケシが、確かにそこへ行きたいと望んだ直後、それは、
──もうすでにタケシの目前にあった。
歳は三十過ぎだろうか。
男の背中は、広い。
濃紺の制帽を被っているが、その男も、驚いたようにタケシへと振り向いた。
背格好と言い、また青い服装もあって、はじめタケシには彼がディンゴかと思えたが、目の前にいる男の髪は黒く、白人然としたディンゴの顔つきとも金髪とも異なる。
また、男の濃紺の制服も、憲兵隊のローブではない。
タケシは目をこすり、彼の衣服を凝視し、記憶の糸を手繰った。すると、それは自分が見慣れているはずの日本の、警察の、濃紺の制服だった。
「いやあの……。こんなところに…… お巡りさん? ですか」
つい心が漏れたついでに、タケシは、その優しそうな警察官に声をかけた。
彼も、この奇妙な空間に突然現れた黒Tシャツのタケシに、戸惑っていた様子だが、あらためて彼のスニーカーの先から頭の髪型までを見回して、気持ちを落ち着けたように、日本語で、
「──ええ。警視庁の青山と申します。……と言っても、わたし自身がいま、迷子でして……」
そう苦笑して、
「途方に暮れていたところなんです」
はにかむように首をかしげ、鼻翼を爪の先で掻いた。
「おれはタケシです。って、苗字も住所も、忘れてしまいましたけど……」
自己紹介をしながら彼は、自分のからだのあちこちを触って身分証を探すが、その手に触れるメタリカのTシャツも黒パンツは、血でずぶ濡れになる前の状態に戻っていることに気がついた。
「──戻ってる……?」
しかも、尻のポケットには、PASMOが入っている。
それは剣歯虎との戦いの直前、イリアに渡したままだと記憶していた。
「──変だな」
一方、青山も、上も下もない純白の広間を見回して、耳を澄ましている。
無限の空間を満たす光は、極彩色の螺旋が、粒の様に積み重なってできている。
タケシも、周囲を満たしている液体のような光を凝視するが、光の白さを構成する粒子の一粒には、ここに似た果てしない純白の空間が包まれている。
それはまるで無限の入れ子構造だった。考えてみても理屈は分からないが、見ようと望めば、どこまでも拡大することができる。
「──しかし、ここは、天国と言うやつでしょうか」
青山は、途方に暮れたように言った。
確かに、そう呼ばれる場所かも知れない。少なくとも地獄のようには見えない。
だが。タケシには、別の直感があった。
「ここは…… たぶん……」
上もなく、下もない光の空間の中で、彼は頭上を見上げると、
「〝
根拠は無いが、不思議と胸の中に、そうだと言う確信が有った。
つぶやいてタケシは、青山の視線に気がついた。
「──いや。バルディア人の和尚さんが、この真っ白な空間のことを回廊と呼んでいたもんですから……」
そう聞くと、青山も神妙な顔をし、憶えがあるような顔で、口もとに手の背を当てて腕を組み、復唱した。
「バルディア……」
その目が、何かを思い出すかのように忙しく動き始めた。
あるいは目の前に居る青山も、おなじ転生者なのかも知れないと思ったが、目を動かしてしきりに何かを考えている彼には声はかけづらいように、タケシは口をつぐんだ。
すると、青山は制服のポケットから、私物スマホを取り出し、画面を開き、
「そう。たしか、私もそのバルディアに居たんです。きっとこれは……」
そう言いながら、小説を表示した画面のスマホをタケシの手に渡した。
「最近、ネット小説と言うものが流行っていましてね。そのなかに、〝異世界転生モノ〟ってジャンルがあるんですが……」
青山は、自分が飛ばされた先の世界が中世のヨーロッパの様であったこと。しかし何故か日本語が通じ、なのに土地の人々は、日本人の自分を珍しがった上に、捕らえ、連行したとタケシに熱っぽく、経緯を語った。
「──で、これってその、〝異世界転生〟なんじゃないかって思うんですが、タケシさんはどう思いますか」
タケシが、スマホの小説の冒頭に目を通し、うなずくと、
「──そうか……」
青山は、ふと、目を上げた。
「なにか、思い出されましたか」
タケシの問いに、青山はうなずいて、口を開き、
「年間、日本では、どれくらいの行方不明が起きていると思いますか」
タケシの首をひねらせた。
「千人くらいですか」
「いや。──届け出があっただけで、去年度は九万人……」
タケシは息を飲み、目を開いた。
「そんなにも……」
「原因の大半は、家庭内のトラブル、つまり配偶者や親子関係における問題ですが、他にも借金や金銭の問題、メンタルヘルス、認知症や障がいを原因とした失踪も……。──とはいえ、その九万件のうち、八〇パーセントは後日、何らかの形で発見されています。しかし……」
タケシが相づちのように呟いていた。
「そのうち二割は、帰って来ていない、……ってことですね」
表沙汰にならない事件や事故もある。そこを差し引いて、仮に全行方不明者の一パーセントが異世界への転生者、あるいは回廊への転落者だとすると、その数は九〇〇人。けして少ない数ではない。
青山はうなずいた。
「この仕事をしていると、たまにあるんです。……たとえば密室からの失踪や、おかしな状況で発見される遺体。もちろん人づての噂話で、直接担当したって話は稀ですが……」
多くの場合、それは夜勤中の暇つぶしに新入りに聞かせる怪談噺であったり、職場限定の息の長い都市伝説だが、見渡す限り平坦な農地に推定一〇〇メートルの高さから墜落死したと思われる遺体や、数十年前に死亡届が受理されている失踪者と身体的特徴が完全に一致する死後数十時間の行旅死亡人の惨殺体など……
「──しかし、異世界転生が現実に存在するとしたら、これらもあながち、あり得ない話じゃないなって」
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