1-24 樽の中身
「──エメラさん」
イリアは顔を寄せた年増女に、声をひそめて尋ねた。
「あの大柄な憲兵が肩にもたせかけている長い包み、なんだかわかりますか」
店の最奥の壁際、背のたかいその一団のなかでも頭ひとつとび出て
エメラは首をよこにふり、
「わからないけど、
イリアは、眉をひそめてそのエメラに言った。
「たぶん、
彼女は、とびださんばかりに目玉を剥いた。
それでも店を守るためである。エメラは声をひそめ、
「連中、魔獣の討伐隊なんだけど、宿無しだから朝まで居させてくれって言ったのよ……」
それで装備を運びこんでいるのかと、イリアは納得したが、しかし同時に脳裏をかすめていくのは、村の入り口ですれ違った馬車隊の憲兵と遺体の山である。
「討伐というと、ユラの大橋のですか」
エメラもうなずいた。
「──海軍から逃亡した使役魔獣の
「すると…… メスだけがいたと」
「そう。
野生の
メスはゼリーのような膜に包まれた卵を通常ひとつ産み、オスメス交代でつがいはそれを守りながら、自らと配偶者、そして孵化後の子どもの餌をとりに行く。
「しかし卵が死ねば、つがいは解散。巣も放棄するらしいの。だから連中は、教科書どおりに卵だけ潰すつもりだったんだろうけど……」
そこでエメラは乾いた口とエールで湿らせ、
「ところが、ところがなのよ」
耳をかすよう彼女は、イリアを手招きし、
「……でも憲兵といったら、良家の子息からなる戦さ場には出ない市民いじめ専門の警察軍じゃない? だから知らないのよ、あいつら魔獣との戦い方を……」
そう
乾燥に弱いケルピーを、昼間の日差しのした、内陸にひきだす。
「旗を立て、重鋼甲冑の前衛がヨロイをジャラジャラさせて、やぁやぁ我こそはって名乗りをあげながらね」
そして渇いた砂の内陸に足止めし、包囲した──。たしかにそこまでは半水棲魔獣定に対する定石といえる。野生のケルピーの生態からすれば、そうやって手薄にした巣の卵を別働隊が叩けば良いだけだ。
「そう思うでしょ?」エメラは顔をしかめて言った。
だがどういうわけか結局、彼らはメスのケルピーの返り討ちに遭い、小隊の戦闘用員も半数を占める前衛を完全に喪失した。
「──まったくね、毒でも上流からながせばいいのよ……」そんなことは魔獣の討伐になれた野伏や冒険者には常識である。
「だけどそこが、貴族の子息からなる誇り高き憲兵隊ってワケ。……どう言うワケなのか、近寄っちゃったらしいのよ、もうほんと馬鹿! 魔獣にまっこう真剣勝負を挑むとはね。さすが世間知らずのお坊ちゃまよ……」
声はひそめてはいるものの、そう息巻いているエメラにイリアは言った。
「しかし、からくもメスを討ち取ったと……」
「そう。前衛の全滅を代償にね」
その惨状を、村に入るおりイリアは目撃したということか。であるとすれば、
「じゃあ…… あの樽のなかみは……」
イリアは憲兵隊がかこむそれを横目に入れながら、
「メスの首……?」
エメラもそれを否定せず、パイプの灰を下向きに噴き出してから、言った。
「そうね。魔獣を討ち取り、卵を処分できた証に連中、姫首を持ち帰るつもりかもね」
となると討伐隊は、母ケルピーの死後か最中、巣のなかで首尾よく卵は処分できたということか。
「じゃあ目的は果たしたものの、被害は甚大。全滅した前衛を村の墓地に仮埋葬し、通夜のつもりで悼みの酒を献じている……?」
イリアの問わず語りなその想像に、エメラもうなずくが、あの
彼女の口は、ふと思いだしたままにひらいていた。
「でも、あの樽、水はいってたな……」
上げた首級なら、強い酒か、塩で漬けるものだろう。
「そうね」新しい煙り草を詰めながらエメラもそれに同意し、
「でもうちには、ラムもウイスキーも要求されていない。それに塩もさ」
「しかし、水は……」
「勝手に汲んでって言ってあるわ。裏に山からひいてる水路があるからね」
バケツも勝手に使ってって……。そう言いながらエメラの目が、下向きに、ふたたび見開かれた。
「まさか、あの樽の中身……」
その彼女に、イリアも目を合わせ、うなずかざるを得ない。
「タマゴ…… しかもまだ、生きているッ……!」
エメラはマッチの火を振り消し、砂を撒いてある床に捨てて強く踏んで擦り、
「まずいな……」
野生のケルピーなら、巣を放棄して立ち去る。だが使役魔獣には核にした転生者の思考も混じる。
そう考えると「ここは危険だ」と言った、あの憲兵の言葉がイリアの胸にも蘇る。
エメラは乾いた口を、エールで湿し、
「ハズレなことを祈るけど……。店は早じまいにするよ」
泡を指でぬぐい、ハラを決めるよう、そう言ったが、村の広場に最初の悲鳴があがったのは、それとほぼ同時、四つ
それまでもイワエド村の中央、石敷きの広場には、ベンチにつながれたままの犬がいつからか、しきりにほえていた。
飼い主はあの若い男女、どちらかであろうが、とっくに二人は物陰にしけこんでいたし、花火を楽しんだあと、宝物になったタリア渓谷の石を胸のポケットにしまいこんだ幼い少女も、
その父親は、その娘を抱えあげ、宿のある村の木戸のほうを振りかえった。
しかし、目をむけたはずのそこに、あるはずの道がない。
いや、正確には、なにか黒い、
娘を片腕で抱いたまま、父親は、目をこすり、その暗闇のなかの大きなそれに、目を細め、さらに眉間へとつよくシワをよせてこらすが、その大きな影は、左右にゆれながら、河岩のような頭部を、そしてふとい流木のような長い尾を左右し、身重たげに地面をゆっくりと
「おい…… おまえ、あれ……」
夫は、寝息をたてる娘を抱いたまま、妻のせなかに声をかけたが、彼女は同宿の老夫婦へと辞去に忙しく、夫の呼ぶ手を始めふりはらっていたが、それがあまりにもしつこくて、「何よ」とふりかえると、思わず口を覆った。
言うなればそれは、ぬらぬらとうごく濡れ山で、なかば乾きかけた粘膜質の皮膚のあちこちに乾いたヒビ割れがはしってはいるものの、ユラの河岸から大岩が、そのまま這って
「ケルピー……」
大道芸をみていた輪のなかから、だれかがそう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます