1-15 皇太子と復讐の影

 亭主はうなずいたが、肩をすくめてお手上げだとばかりに首を横に振った。


「ニエの海軍が陸戦隊を組んだのですが…… これが全滅しましてね」



 脱走した使役魔獣の川馬ケルピーは、その海戦のあったニエの湾より内陸のユラの川の中流域にまで入りこんでしまっている。となると本来の管轄は国内軍である憲兵隊にあるが、だとしても捕縛の道義的責任は海軍にある。


 しかも現在、憲兵隊は市城都市ミハラを訪れている賓客の警備に駆り出されており身動きが取りにくい。となるとなおさら脱走使役ケルピーの捕縛、あるいは討伐の任は、海軍の肩に重くかかってくる。


 その結果として、このひと月ばかりで海軍は、川側からいちど捕縛に挑み、どれもが川へと引きずりこまれ、二度目は討伐に切り替えた作戦をふたたび川側からすすめ、二名の将軍以下あわせて百名の兵が消息不明らしい。



「なにそれ……」


 イリアは絶句した。


「──だって、相手は使役魔獣とはいえ、ケルピーが一頭でしょう?」


「いや、そこはそれ、海軍でしてな。軍艦はもてども、ユラの川床は浅うございます。……使役アルケロンにひかせた小舟数隻で川をさかのぼり、分乗した海兵で巣を囲んだのでございますが──」



 帝亀獣アルケロンとは、大亀に似た水棲魔獣である。生来の堅固な装甲に加えてその幅広く平らな亀甲のうえに人や物質をのせて遠泳し、また肺呼吸をすることもあって浅瀬や干潟でも行動ができる。上陸作戦にはもってこいの使役魔獣といえるが、今回の討伐は幅1リーグと狭い川を遡行しての作戦である。舟艇カッターの牽引役以外には対使役魔獣の戦闘では壁以外の活躍はできなかったのだろうし、水中で戦闘が始まったとしたらなおさらだ。甲羅の端に開けた穴から張る綱で小舟を数珠につなぎ、曳航する駄馬以上の役割はこなせまい。



「──結局、海兵たちは、思うような斬り込みもかけられぬまま、ひとり、またひとりと小舟から川にひきこまれ……」




 沈鬱な表情のままの亭主だが、イリアはすっかり呆れている様子で、


「そりゃケルピー相手に水上でチャンバラなんて、ハエがカエルに挑むようなもんでしょうよ」


 ……で、その後アルケロンがどうなったのかと言えば、


「ニエの軍港に帰還したそうでございますよ」


「そうよね。それが普通の使役魔獣ってもんよねぇ、」


 イリアは、ため息まじりに遠い目で、窓の外の広場を眺めた。



 おなじ使役魔獣でもアルケロンのほうは正常に機能していた事になる。と言うことは、脱走使役のケルピーは、よほど調教に失敗していたか、そもそもコアにすべき転生者の選択に問題があったことになる。




「まぁ。そこは、かの春の国のすることでございますから……」


 そう亭主は口を濁したが、使役魔獣の製造技術を今も独占する春の国は、友好国であるこの国に対しても、戦闘使役獣については型落ち品か、失敗作を供与する。



 イリアは呆れ顔のまま、


「こっちはコッチで、前衛の壊滅した憲兵隊をみたわ。あれは何かしら」


「それは今朝このイワエドを出た討伐隊でございましょう」


 海軍も川側からせめて二度、壊滅し、陸からせめた憲兵隊カヴァレールも、今日敗走したとなると、橋のたもとの巣でケルピーの卵が孵化し、巣立ちをむかえる冬至の前までは、本当に大橋は閉鎖しかねない。


「困ったもんね……」


「──ミハラに産物をはこぶ隊商も、明日には西の街道を迂回する模様でございます」


 冒険者さまも、もしミハラにお急ぎであれば、そうなさるのがよいやもしれませんなと、そう結んで、亭主はインクの乾いた宿帳を閉じ、後ろの棚へしまった。



「そうね。急ぐ旅ではないけれど、路銀も怪しいし。私も明日から迂回することにするわ」


 そう言うとイリアは、窓の外にみえる広場の喧騒に、再び目をやった。


 石敷きの広場では、家族連れが楽しむ花火がいくつも影を照らし、富豪の一行や隊商の子供らの小銭を求めて祭り屋台も出張っているし、石造りの砦跡のような酒場なのか食堂なのか、堅牢な建物が煌々とランプを灯しているのが見える。



「華やかね。あれもミハラへ行くつもりだったのかしら」


 彼女は、外のその喧騒を穏やかな目でながめていたが、背中をむけている亭主がなにげなく、


「ええ。なんでも春の国の皇太子殿下が御留学先をおさがしで御来訪中だとか」


 そう和やかに言うと、イリアの眼の色が、刃物のように冷たく急変した。


 それに気づかず亭主は、受け付けの棚から振り向いて、


「はやいものですな。春の国のイオリ殿下ももう十五歳。今節十の日まではミハラに御滞在だそうで……」


 その、男装の少女冒険者の様子がおかしいことに気がついた。


「どうか…… なされましたか」


「── いや。なんでもない。ときに、ご亭主。今日は何の日であったかな」


「三の節の、七つ日でございますが」


「そうか……」


 下手に触れれば切れそうな、つめたさをおびたその少女の横顔は、くちびるをかんで、何ごとかを押し黙り、思い詰め、考えている様子であった。




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