1-5 PASMOとハンカチ、友情の始まり
歯を食いしばり、脂汗をにじませながら、もがき苦しんだ直後である。タケシは地面に倒れたまま、荒い息をつき、手当てを受ける前よりもやつれたように見えた。
一方、イリアはすこぶる上機嫌に見えた。
「ユーも運がよかったぞ。サーバルが見つけたとき、下手に意識があったら殺されていただろうからな」
彼女は、肩掛けバッグに軟膏の合わせ貝をしまい、バッグの封を確認した。
「──これで準備よしだ。そっちはどうだ、行けるか?」
しかし、タケシは道に手枕で横になったまま、彼女に背中を向けた。
「……いくって。どこにだよ」
イリアはつけひげを両耳にひっかけ、
「この先にイワエドという宿場村がある」
タケシは、寝転んだまま振り向いて、すっかり変装を終えた彼女を横目に見た。
「村って……そう言う事じゃねえし」
そのタケシを見てイリアは、さっさと立てと促した。
「じゃあ、どう言うことだ。はっきりと言え」
タケシは頭を掻く。
「……だって、きみは旅の人だろ」
「そうだぞ。ちょっと討たねばならない
タケシは、体を起こして座ったまま、訝しむ顔で見上げた。
「……かたきって、じゃあきみは、
イリアは豊かな金髪を後ろで束ねて、外套のフードにおさめる。
「そうだ。このワエド山脈から南に向けて一〇〇〇リーグ。歩いて一節はかかる旅だ」
一リーグは距離の単位で、一キロメートル。一節はタケシの世界の一年に相当すると、イリアは言った。
「……ずいぶん地球に詳しいんだね」タケシはそう言い、あぐらをかく自分の膝に目を落とした。「でも、それだけ転生者が多いってことか」
その割には、異世界から地球へと帰還する事例を聞かない。タケシの胸に、もう帰れないかもしれない寂寥感が込み上げた。
空を見上げて、この先に続く街道を見、彼はイリアに尋ねた。
「その旅に、おれを連れて行くって、きみはそう言うのかい?」
しかし、イリアは、腕を組み、フードの中で考え込んでいるように見える。
「──たしかに行くぞとは言ったけど、まあ、そういうことになるかな。使役魔獣とはいえ、王都まで一緒に行くわけだし……」
タケシは、怪訝な顔をした。
「だから、それって一緒に旅をするってことじゃないの?」
フードの中でイリアが一度、こちらを見る。
「まあ、そうだな。ただし形は変える」
タケシは、唖然とした。
「かたちが…… かわるって、へ?! それどう言うこと?!」
だが彼女は顔を背けた。
「今は言えない。とりあえずユーをミハラまで連れて行く。さっさと立て、奴隷はモタモタするな」
「ドレイ?!」タケシが素っ頓狂な声を上げた。「仲間じゃなくて!?」
イリアは、視線を戻して頷く。
「ともかく、晩までにその腕の処置をしないとな。魔物の噛み跡は、ほんとに腐っちゃうんだぞ」
タケシは自分の右腕をつかんで、軟膏の刺激臭のする傷痕を、あらためて見返した。
「まぁ。きみと行けるなら、奴隷だってなんだっていいけどさ。……でも処置って軟膏も塗ったし、もう充分じゃないの」
イリアは、激しく首を振って見せた。
「バカ、それはただの応急処置だぞ、村で解毒を受けさせるから、早くしろと言っているんだ、早ければ早いほどいい!」
タケシはフフンと笑った。
「ドレイってのは、ずいぶんと大事に思って貰えるもんだな。なんか悪くない」
「そりゃ、ユーの身に何かあったら……わたしも困るからだ」
タケシは満足そうに頷いた。
「よし、分かった。一緒にいくよ。……でもさ、イリア。村に行ったとしても、この世界じゃ無料で毒を消せるものなのかい?」
イリアは肩にバッグを掛け直し、イワエド村があるらしい登り坂方面の道を一度見た。
「それは、タダというわけにはいかないぞ。それは失礼だからな」
タケシは手足を大の字に伸ばして再び地面に寝転んだ。
「じゃあ俺むりだ。PASMOしかもってねえもん」
イリアが、目を瞬かせて、おうむ返しに反芻した。
「ぱす、も?」
「ん? おれの世界の、おかね。こっちじゃどうせ使えないんだろ?」
そう言いながらタケシは、寝っ転がったまま尻のポケットからパスケースを取り出して見せた。
イリアは駆け寄り、パスケースを手に取ると、不思議そうにしげしげと見つめた。
「まさかだぞタケシ、これが、お金か!?」
その表情を横目に、タケシは、小さく笑いを浮かべる。
「そうだよ。正確には金額がデータで入ってんだけどね」
イリアは、ICカードの表裏を盛んにひっくり返して、眉間にシワを寄せている。
「こんな薄いのの中に、コインがか……?」
彼女は、カードの下に手のひらを添えて、ひっくり返し、中身が容易に落ちぬものと見るや振って、曲げて、一心にしごき、挙げ句の果てには噛んで、思いつくひと通りはしてみた様子だった。だが、その仕舞いに世界が終わったような顔を見せた。
「タケシ…… だめだ、これ、でーたでが、でてこない」
タケシは、初めて勝ったような気がして、思わず顔がほころんだ。
「イリア、やっぱりカードって、はじめて?」
「……いや、ぷらっちっくは、しってるぞ」
「なんだよ、つまんねえ異世界だな」
今度はPASMO中からコインを振り出す作戦なのか、イリアは肘にスナップをつけ、中身を振りだそうとしている。
「しかし、タケシは、エンダマとか知らないのか?」
タケシは怪訝な顔をしたが、思いついて言う。
「
イリアは、子どものような目でうなずきながら、カードを振っている。イチノエンダマが好きだそうだ。
「あればくれ」
「そうか。んー……。ガキんのころはつかったけどな。よくコンビニとかでお菓子買うのに……」
イリアは残念そうな顔を見せた。
「はー!年齢でかわるのか。残念だな。しかし頑固なぷらっちくだなこいつは!」
彼女はくたびれた顔で、パスケースにカードをさしこんで戻した。
タケシは道に寝転がったままでいる。手枕で彼がまた、ゆっくりと背中をまるめていく。イリアはその様子を不自然に感じたらしく、顔付きを変えた。
タケシは、込み上げてきた悲しみを、息を殺して耐えた。
その様子を見たイリアは、急性毒を疑うように顔をタケシの肩近づけて掴み、揺さぶり、タケシの顔色を伺おうと覗き込んだ。
「タケシ、まさか具合が悪いのか、しまったな……思ったより瘴気の祟りが早かったか……!」
だがタケシは、そのイリアから顔をそむけて、さらに背を向けた。
「ちげえよ。傷は平気だって」
それは、目元を隠すためだった。
その背後でマントをさばく音がした。イリアが座ったのだろう。
「泣いているのか」
タケシは、鼻をすする。
「──ちょびっとな」
そう強がりながらも彼は、鼻を痛いほどこする。
バッグから何かを取り出す音がし、往来のど真ん中で丸くなっているタケシの肩に、イリアはハンカチを置いた。
「使え。返さなくて良いぞ」
しばらくタケシは、そうしてハンカチを肩に乗せたままでいたが、落ち着いてきたのか鼻をひとつ大きくすすると、
「──おれ、友達ってやつも、そんなにいないからさ。もとの世界に未練なんて、あって無いようなもんだけど……さ。」
肩のハンカチを手にして、涙まじりの鼻をかんだ。
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