第43話 コンパル
終演後、余韻を断ち切ろうと足早にホールからロビーに向かった。演奏者たちが聴衆や知人たちに囲まれ、舞台の上とは別人のような打ち解けた顔で笑っている。人ごみに紛れ、そっと出口に向かっていると、小声で呼び止められた。黒田くんだ。
「黒田くん? お疲れさま、どうしたの?」
「い、いつ、渡したらいいと思う?」
「はい?」
「は、花」
ああ、後ろ手に持っているそれは預かりものではなく、黒田くんから美瑠への花束だったのか。さりげなくのぞきこんだ。華やかさと気品を兼ね備え、さらに素晴らしい芳香を漂わせている。緑色がベースになっていたことに私は驚いた。美瑠の好みをよく知っているじゃない。
「受付でお花やプレゼントって、預かるんでしょ? それと一緒にすればいいんじゃない?」
「え、あの、えっと……」
もじもじしている。歯切れが悪い。黒田くんらしくないな、どうしたんだろう。
「あの、あの――直接、渡したい。受け取ったあいつの顔が見たい」
「あ、そういうこと。じゃ、もう少し待って、挨拶している人たちがはけたところで、渡したらいいんじゃない?」
「うん……」
黒田くんが右手に目を向ける。華やかな一団の中央にいるのは美瑠だ。そしてそのすぐ脇にトキワさんがいる。美瑠が周囲を囲む人たちと話しては、トキワさんに話しかけ、返事を促すように、背中に手を当てる。トキワさんは笑いはしないものの、穏やかな表情で、口を開き、美瑠にうなずいている。ふたりがまとう真珠色と黒はまるで対照的なのに、しどけなく肩に打ちかけた音の余韻はよく似た煌めきを放っていた。
黒田くんがささやく。
「ねえ、渡すときさ、一緒に来てよ。人が少なくなったとしても、あの中に割って入るのは、俺、ひとりじゃ無理だ。どう見ても場違いだもん」
トキワさんに気づかれないよう、そっと帰ってしまおうと思っていたが、諦めるしかなさそうだ。
「わかった。じゃあ、人が減るまで、もう五分くらい、ここで待ってようか。受付、離れていて大丈夫なのね?」
「うん、俺、前半の担当だったから」
「ということは、後半はホールの中で演奏が聞けたの?」
「うん」
「どうだった?」
「世界が違う」
ひとことそう言って黙りこくった黒田くんの気持ちが、少しだけわかった。
「ねえ、その花束、グリーン系なんて珍しいよね。花屋さんに選んでもらったの?」
「いいや、自分で選んだ花で作ってもらった」
「そうなの? 美瑠のイメージにぴったりだよ。しかも、かおりが良い花束なんて。素敵だよね」
「俺の家、花屋だから、花を選ぶのは慣れてるんだ。贈る相手を思い浮かべて、どんな花が似合いそうかって想像するの、好きなんだ」
そう言って照れくさそうに笑った。黒田くんにそんな特技があったとは知らなかった。興味をひかれ、もっといろいろ聞いてみようと口を開きかけたときだった。大きな声で呼びかけられた。
「やっほー、コンちゃん!」
はっとして、声のしたほうに目をやる。美瑠だ。人の群れが薄くなり、一部途切れたところから美瑠が顔をのぞかせ手を振っている。
「どうして、そんなところでふたりでしゃべってるのさ? こっちにおいでよ!」
いちゃいちゃしているところを見つけられたカップルのようなきまり悪さを感じつつ、ホールの樺色の灯りの下へと歩み出る。黒田くんは私の後ろに隠れるようにしてついてきているようだ。
「美瑠、とても素敵だったよ」
「ありがとう! コンちゃんにそう言われると、すごく嬉しいな。気に入った曲、あった?」
「そうだね。フィビフの二曲かな。美瑠があんなに色っぽい演奏をするとは思わなかった」
くすぐったい表情を浮かべる。
「あれね。柚葉さんと演奏していると、本当にすごく自然にあんな音が出っせるの。なんだろ、ちょっとやばいくらい気持ち良く音の世界に入れてさ」
黒田くんのことを思い出し、後ろを向くと、私の前に押し出した。体をこわばらせた黒田くんは、それでも背中の花束を美瑠の前に差し出し、後半だけ聞かせてもらったけれどすごくよかったですと美瑠の顔を見ながらはっきりと伝えた。美瑠は一瞬目を丸くしたが、ふっと輝くような笑顔になると、洗練された会釈をして花束を受け取った。取り囲んでいた人たちが温かな拍手を送る。「いいかおり。それに、緑色、大好きなんだ」花のかおりをかぎながらうっとりとつぶやく美瑠に、黒田くんが真っ赤になった。
「ねえ、コンちゃん、黒田くん、片付けが終わったら、カフェで打ち上げをしようと思ってるんだけど、いっしょに行こう?」
花束のかおりを楽しみながら、美瑠がそう問いかける。
「あ、私は、もう……。黒田くん、せっかくだから行ってきたら――」
私の声に被せるように、少し掠れた低音が風のうなりのように響く。
「コンパルさん、僕からもお誘いします。行きましょう」
ぞくりとした。トキワさんだ。反射的に目を向け、私は魅入られた。
スオウさんのきらきらした瞳とは違う、底光りのする重いまなざし。私の目を射ると、密度差で私の闇までこともなげに沈み込み、私が自覚していない、あるいはあの美しい手でそっとばらまいた悪意の種を芽吹かせようとする。そうだ、あの衣装ケースに滑り込ませたラペルピンのように。胸の奥で何かがもぞりと蠢いた。
この人の皮膚のすぐ下では鈍色の情念がたぎっている。人を煽り、心の底に投げ込んだ種が芽を出すや、それがどんなに小さかろうと見逃さず、摘み取って、これ見よがしに掲げてみせる。でもトキワさんは知っているのだろうか。風にそよぐ黒い芽生えには、ときに白いものや、緑色のもの、それにほんのりと赤味がかったものさえ混じることを。引きちぎったかぼそい芽生えを片手にゆがめた赤いくちびるのなんと艶冶なことか。
美瑠の甘い声が私を現実に引き戻した。
「わ、柚葉さんからも誘ってもらえるなんて、いいなあ。ね、コンちゃんも少しだけ、つきあって?」
「う、うん」
美瑠が嬉しそうに顔を輝かす。その顔を黒田くんが熱っぽいまなざしで見つめる。
「じゃあ、私たち、着替えて荷物をまとめてくるから、ロビーでもう少し待っててね。あ、黒田くん、ほかのお手伝いの人たちと一緒に、荷物の搬出、手伝ってもらえるかな?」
美瑠たちは楽屋へと消えていった。去り際にトキワさんは私を一瞥した。ねっとりとしたまなざしに潜む暗い激情があの日を彷彿とさせた。違う、トキワさんは私を見てはいない。トキワさんが見ているのは、私の背後にいるヤマシロさんだ。
灯りが落とされたガラス張りのロビーから、ひとり、闇に沈んだ町を見る。雨が静かに降りしきり、街灯の銀の光をにじませている。なんて柔らかな光景だろう。ふだんならヤマシロさんとご飯を食べ、他愛もないおしゃべりをし、キーボードをリズミカルに叩きつつヤマシロさんの食い入るような視線を感じている夜だ。世界の片隅に埋もれ、ヤマシロさんとふたりでひっそりと迎えるはずの土曜日の夜。ひとりでうす暗いロビーに立っていると、雨音がやけに煽情的に響き、忍び寄る雨のにおいに押し流されそうになった。くるくるとめまいがする。無重力空間に放り出されたかのように、勢いよく落下し続けているかのように、足がむずむずとする。
美瑠とトキワさんの濃密な演奏が頭から離れない。今でもトキワさんを深く追慕するヤマシロさん、ヤマシロさんの奪取を目論むトキワさん、トキワさんを強く憧憬する美瑠、美瑠を望む黒田くん。スオウさんはどこにはめ込めばよい? 私はどこにはめ込めばよい? 私たちのなけなしの秩序はあまりにもか細く、混沌とした世界の波になすすべもなく飲み込まれる。でも飲み込まれるならそれでいい。黒く歪んだ水面から底知れぬ水柱をどこまでも落ちてゆき、いつかたどり着く柔らかな水底をずっと夢見ていられるのなら。
数人の踊るような足音と華やかな嬌声が遠くから近づいてくる。
「やっほーコンちゃん、お待たせ! じゃあ行こうか」
「コンパルさん、どうしたの? ねえ、行くでしょ?」
明るい声が、屈託のない声が、くちぐちに私の名を呼ぶ。炎のような深紅のにおいがしなやかに私の首筋に絡みついた。
「コンパルさん、行きましょう」
(了)
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