【28.深紅のにおい】 二〇二〇年二月十五日(土)

第42話 コンパル

 私はこれまで一度も、ヤマシロさんとの土曜日をキャンセルしたことがなかった。「緊急の用事がない限り、きみはぼくの家に来て一緒に過ごしてくださいね」その言葉をきっちりと守っていた。だから、来週一月十一日の土曜日は、ここに来られないと告げると、ヤマシロさんの目がわずかに見開かれた。

「ヤマシロさん、ごめんなさい。でも、外したくない用事が夜にあるんです。緊急ではないのですけれど」

 ヤマシロさんは問題ないですよと笑ってうなずいてくれたが、私はさらに言いたいことがあった。くっと握った手のひらが緊張で湿る。

「あの――来週だけ土曜日を日曜日に変えていただくことはできないでしょうか? 日曜日の夕方に、来てはだめですか?」

 今度こそ、瞳が当惑に揺れた。

「日曜日に、ですか」

「はい、日曜日に、です」

 ヤマシロさんが沈黙する。いたたまれなくなってうつむく。

「わかりました。日曜日にいらっしゃるんですね。お待ちしてますよ」

 耳を疑った。ヤマシロさんの顔を見る。ぎこちないけれど、ほほえんでいる。喜びが込み上げてきて、ヤマシロさんに飛びつき、抱きしめた。ヤマシロさんがぎくりと体を固くした。自分がこれまでヤマシロさんと抱き合ったことなどなかったことを思い出し、途端に焦るが、密着させた体からはヤマシロさんのにおいが濃く伝わってきて、放したくなくなった。しばらくそのままにおいを堪能した。


 翌週の土曜日、曇天の夕暮れ時、金春色の傘を持ってK町へと向かった。市民会館の中ホールは、去年の夏スオウさんと聞きに来たトキワさんたちのコンサートと同じ会場だ。受付にスーツ姿の黒田くんがいて、私に気づくと目を丸くした。

「用事があったんじゃないの?」

「何とかなったの。今日はお客さんとして聞かせてもらうね」

 当日券を買って、ホールに入る。中央やや右寄りの前から五列目に座った。このホールはかなり古くて、赤いベロアのシートも座面が擦り切れているのだけど、空気がとても良い。大切に手入れされているにおいがする。

 すぐに照明が落とされ、演奏者たちが拍手で迎えられた。黒いスーツのチェロとビオラ、真珠色のドレスの美瑠、そして黒のスーツに淡い水色のハンカチーフをアクセントにしたトキワさん。少しやせたように見えるが、鋭い視線は全然変わっていない。お辞儀をすると、滑らかな頬にえくぼがくっきりと現れた。


 ドヴォルザーク、スメタナ、スークとチェコの有名な作曲家たちの作品が次々と演奏された。場を満たす緊迫感、奏者の高揚した表情、それぞれの体を満たす音を互いに共鳴させようと交わし合う目線や息遣いまでが音と相まって胸に迫る。この臨場感こそがコンサートに足を運ぶ醍醐味だ。


 後半に二曲、美瑠とトキワさん二人の演奏があった。フィビフの『ソナチネ』と『詩曲』。

 『ソナチネ』では、気の逸るヴァイオリンをピアノがそっと抱き留め、可憐に躍らせる。ちらりと美瑠に目をやりつつ巧みなリードで歌い上げるトキワさんの表情は優しく、音は以前このホールで聴いたときよりものびやかに響いた。私はときおりトキワさんの頬に現れるえくぼの影を見ていた。

 『詩曲』は二分足らずの小曲だけど、そこに凝集したロマンチシズムは他に類がない。美瑠のヴァイオリンをトキワさんが優雅に揺らし、あえがせ、歓喜のためいきをつかせる。ぴたりと合ったふたりの息遣いに、甘美な雰囲気に、見ているこちらも胸の奥がうずき、顔がほてりそうになる。


 演奏が終わり、拍手が鳴り響くなか、大輪の花のようにほほえんでお辞儀をする美瑠の後ろで、トキワさんはピアノに寄り添ったまま深々とお辞儀をした。ゆっくりと背を起こしながら、あの鋭い目で私を見下した。


 どきりとした。背を起こし終えるまでのほんの一瞬だったけれど、あの目は確かに私を認め、貫いた。その目が左右の座席を探るように揺れる。すぐに、喜びの表情で振り返った美瑠に笑顔で応え、その手を取ってふたりでお辞儀をした。

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