第41話 コンパル
ヒワダ研のミーティングルームで催された忘年会は、夏に予告されていたとおり、鍋パーティーになった。参加費にヒワダ先生が上乗せしてくださり、カニ鍋、海鮮鍋、モツ鍋、カモ鍋、それに各種飲み物やおつまみがふんだんに準備された。
ミーティングルームで四年生と修士一年の学生が中心になって、買ってきた野菜を洗い、切り、大皿やボウルに盛っていく。カセットコンロとボンベを準備し、紙皿を並べる。四年生のなかには、白岩さんの婚約者である農学部の紺野さんも混じっている。
「買って来たよ!」
大きな音を立てて扉を開け、黒田くんと白岩さんが白い保冷箱を運び込んだ。立派なサケとタラの切り身、大きなホタテやホッキガイ、鴨のスライス、つくね、モツのパックを取り出すと、その場にいた学生たちからいっせいに歓喜の声が上がる。ざく切りになったカニの山盛りパックが恭しく取り出されると、悲鳴が上がった。
「カニ! カニ! すごい! カニ! すごい!」
「赤嶺くん、日本語崩壊してる」
「だって、カニだよ、コンパルさん嬉しくないの?」
「嬉しいよ。おいしいよね、カニ」
カニに沸く部屋に、藍川さんが入ってきた。後ろに黒いコートを手にした茶色いセーター姿の生真面目そうな男の人が続く。
「こんにちは。あの、こちら、私の彼氏の灰田さんです」
藍川さんの紹介に、再び場がどよめく。「初めまして」だの「ようこそ」だの「社会人ですか」だの、いくつもの質問を浴びせられて灰田さんは大忙しだ。そのとき扉が開いた。
「遅くなりました!」
スオウさんが入ってきた。すぐ後ろにほほえむヤマシロさんがいる。ミーティングルームの喧騒がふっと途切れた。部屋の奥でガスコンロにカセットボンベをセットしていた黒田くんの大声がその静寂を破る。
「スオウさん、そっちって、スオウさんのパートナーさん? 例のチェコの? 紹介してよ!」
スオウさんが笑いながら「おう」と答え、ヤマシロさんに目くばせする。
「ヤマシロと申します。いつもヨシアキがお世話になっています。今日は私までお招きいただき、ありがとうございます」
そう言いながらモラヴィアワインとスリヴォヴィツェをテーブルの上に置くと、拍手が起こった。黒田くんが「チェコのお酒! やったあ! これ、冷凍庫で冷やすんですよね?」と嬉しそうに叫ぶ。桃園さんと緑山さんが目を輝かせて顔を見合わす。
準備がほぼ終了したころ、ヒワダ先生が息子さんを連れてやって来た。髪の毛を短く刈り込んだいかつい体格の男性だが、目元がとても穏やかで、ヒワダ先生そっくりだ。スオウさんが嬉しそうな顔で呼びかける。
「よう、ミドリ、久しぶり! おまえ、でっかくなったなあ」
ミドリさんも嬉しそうに笑って、頭を下げた。そのあと青木さんが奥さんを連れてやって来て、準教授の茶山先生、助手の朱鷺さんもやって来て、総勢十九名という大人数で忘年会はスタートした。
「はいはい、みんな、静かに! ヒワダ先生に注目」
長老こと紅丸さんの声で瞬時にミーティングルームからおしゃべりが消える。とたんに、くつ、くつと四つの鍋の煮える音が大きくなる。得も言われぬおいしそうなかおりとさかんに立ち上る湯気が室内の空気をもったりと濃厚にして時の流れをよどませる。
「みなさん、今年も一年お疲れさまでした。進捗報告会も、各自よく努力したのが感じられる内容で、たいへんよろしかったですよ。年明けもこの調子で頑張りましょうね。
今年はコンパルさんが怪我をするという大きめの事故がありましたが、すぐにヨシアキさんに対処していただき、遅滞なく救護につなげられたのは幸いでした。ヨシアキさん、ありがとうございました。実験をする以上、危険はつきものです。事故を起こさないよう気を引き締め、もし起きたらどう対処すべきかを常に頭に入れておきましょうね。
今日はご家族にも参加してもらって、ずいぶん賑やかな忘年会になりました。せっかくですから、いろんな方々と交流して、楽しく過ごしましょう。
では、皆さん飲み物のご準備はよろしいですわね。乾杯!」
打ち鳴らされる缶やグラスが空気を震わせ、室内の時は再び力強く流れはじめた。
黒田くんが真っ先にカニ鍋に手を伸ばす。すかさず向かいの白岩さんから声がかかる。
「待った、黒田! まずはヒワダ先生に感謝の言葉! 先生のカンパなしに、カニ鍋はなかったんだから」
「先生、ありがとうございました! 俺、カニ鍋なんて初めてかも。いただきます!」
早口でそう言うと、神妙な手つきでカニの身を取り出して口に運び、「うまい」と顔をほころばせる。赤嶺くんや青木夫妻もカニ鍋に手を伸ばす。
「そんなにおいしいんだ」
「うん、って、コンパルさん、どうしてカモ鍋を取ってるの? カモじゃなくてカニ。食べてみないの?」
「だって、カモもすごくおいしいよ」
「本当だ、このカモつくねとお豆腐が合うね」
そう言いながら藍川さんと灰田さんがカモ鍋をつついてはビールを飲み、にっこりほほえみあう。向かいの白岩さんも紺野さんにカモ鍋を取ってやり、にこにこしながらビールを飲んでいる。
「うわ、ごちそうさまです!」
黒田くんが悲鳴をあげた。
スオウさんはぐいぐいとビールを飲みながらミドリさんとヒワダ先生と楽し気にしゃべっている。ヤマシロさんは青木さんと紅丸さんにしきりに話しかけられ、どうやらチェコについて語らっているようだ。テーブルの奥に固まって座っていた浅葱さん、緑山さん、桃園さんが、ヤマシロさんのモラヴィアワインを「いただきます!」と開け、おいしそうに飲み始める。それに気づいた黒田くんが、「あ、俺も!」とグラスを持って席を移動する。浅葱さんに注いでもらい、ぐぐっと飲んで、おお、とうなる。
「ヤマシロさん、でしたっけ? 以前いただいたワインもうまかったですけど、これもうまいです! これ、カモ鍋とモツ鍋に合いそうですね」
その声にヤマシロさんが嬉しそうな顔になる。
「そのワイン、もう二十年前から少量ですが輸入してるんです。ワイナリーで試飲したときにヨシアキが唯一気に入った銘柄です」
「へえ、スオウさんが? 一緒にチェコに行ったんですか?」
「はい、その時いちどだけですけど」
「ん? 二十年前って、スオウさんいくつだったんですか?」
スオウさんが顔をしかめた。
「聞くな」
紅丸さんもワインを飲みながらつぶやく。
「ってことは、スオウさんとヤマシロさんは、もう二十年以上の付き合いってことですか? うらやましい。俺もそんな相手が欲しいです」
ヒワダ先生――すでにモツ鍋をつまみに日本酒を手酌で飲んでいらっしゃる――がにっこりほほえむ。
「あら、紅丸くんにはお付き合いしてる方はいないの? 就職先もめどがついたことだし、学位を無事に取ったら、探さなきゃね」
紅丸さんが苦笑する。
「先生、そんなに簡単に言わないでください」
「研究室の子でもいいじゃない? そうね、浅葱さんとか、どうなの?」
「はい? え? 私ですか?」
突然名前を挙げられ、浅葱さんが目を見開く。真っ赤になったのはワインのせいだけではないと、知っている人は知っている。でもヒワダ先生がご存知だったとは。
「紅丸くんの根性と繊細さはお勧めよ。緑山さんも桃園さんも、お相手がいなかったら考えてみるといいわね」
先生はにこやかにそう言いながらくいっと日本酒を飲んだ。
私はいろんな鍋をひととおりつつくと、チーズとアーモンドをつまみながらビールを飲み、右隣の藍川さんが灰田さんと、向かいの白岩さんが紺野さんと、はす向かいの茶山先生が朱鷺さんとしゃべっているのをしり目に、ヤマシロさんを見ていた。出会った三年前に比べ、柔らかくうねる髪の毛には白いものが増えた。目尻のしわも深くなった。頬はさらにこけたかもしれない。でも、それはヤマシロさんのいぶし銀の魅力をむしろ引き立てている。すっと伸びた背筋、優雅に傾げられる首、おっとりとした表情、グラスを口に運ぶ気品ある仕草。ヤマシロさんにはこれに加えて、あの魅惑的なにおいがある。誰と比べたって、ヤマシロさんに敵う人はいない。ほう、とため息をつきながら、赤嶺くん、紅丸さんとしゃべるヤマシロさんに見とれていると、そっと肩を叩かれ、びくりとする。
「コンパルさん、今年はよくがんばりましたね」
ヒワダ先生だった。隣の、黒田くんが座っていた席に座り、にっこりとこちらを見た。
「右手はもう何ともないの?」
「あ、はい。もう問題なくペンも箸も持てます。実験にも支障ありませんし、ガラス細工もできるようになりました」
「あら、ガラス細工も? 怖くならなかった?」
「最初は怖かったです。でも、スオウさんがしばらく付きっ切りで指導してくれたので、以前よりはるかに上手になりましたよ」
「まあ、逞しい。いろんなことに興味を持って、大胆かつ慎重に進んで行くのは、とても大事なことですからね」
そう言って上品にほほえむ。私が見ていた限り、日本酒を手酌で四合は飲んでいらしたようだけれど、まったく酔いは見えない。左隣の赤嶺くんの頭ごしに紅丸さんに呼びかける。
「紅丸くん」
紅丸さんとその向かいのヤマシロさんが話しやめ、先生を見る。
「ヤマシロさんからいただいたプラムの蒸留酒、どこで冷やしているの? そろそろお出ししませんか?」
紅丸さんが破顔した。
「そうですね、今ちょうどチェコの蒸留酒のお話をうかがっていて、思い出したところです。実験室の冷凍庫に入れているんで、たぶんキンキンに冷えてるはず。持ってきます。赤嶺、紙コップ、準備しといて」
紅丸さんはすぐに、綺麗なウエスでぐるぐる巻きにした瓶をもって帰ってきた。バリトンが響き渡る。
「はい、みんな注目! ヤマシロさんから頂いたプラムの蒸留酒を開けるよ。今から注ぐから、冷たいうちに飲んで」
黒田くんが「はい、はい、飲みます!」と言いながら寄ってくる。紅丸さんが小さな紙コップに注ぎ、赤嶺くんがさばいていく。みんなが口をつけては笑ったり驚いたりする様子をヤマシロさんは笑みを浮かべ、スオウさんはにやりと笑いながら見ている。
「すごい。アルコールきっついけど、でも本当に果物のかおりがする」
「黒田、それはちびちび飲むもんじゃない。冷たいうちに飲むのが断然うまいよ?」
スオウさんの言葉に、黒田くんが一瞬ためらってから、残りを一度に飲み干した。
「うわっ、強い。ああ、でもこの喉越しは癖になるかも」
「癖になるほど飲むんじゃない。ウイスキーと同レベルのアルコール度数だからな。一杯でやめとけ」
「あー、でも、もう一杯だけ」
子供のようにねだる黒田くんにスオウさんが苦笑する。
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