【25.昼食後のコーヒー】 二〇一九年十一月中旬

第37話 コンパル

 学食で昼食を食べたあと、216室で黒田くんと白岩さんとコーヒーを飲んでいると、扉が開く音がして、ふわりと香水のかおりが入ってきた。ヘリオトロープの濃厚な香気の中に柑橘系の爽やかさがかすかに弾ける優雅なかおり。隣の高分子化学研究室の山吹美瑠だ。すぐさま軽やかな声がする。

「やっほー、コンちゃん、いる?」

 小柄ながらもメリハリのあるプロポーションに子供のようなつやつやのショートヘア、彫りの深い顔立ちにあっさりとしたメイク、上品で落ち着いた服装に男の子のような口調。美瑠の魅力はそのアンバランスさに尽きる。マグカップを持つ黒田くんが、明らかにそわそわしはじめた。

「あ、いたいたー。ね、右手の具合はどう?」

「順調だよ。もう抜糸もしたしね。どうしたの?」

 美瑠はダークオレンジのくちびるで鮮やかに笑った。

「それは良かった。前に言っていた十二月のファミリーコンサートの案内係、お願いできそう?」

「もちろん」

「本当? ありがとう、助かる。それからさ……」

 上目づかいにこちらを見てくる。その仕草はどきりとするくらい魅力的で、もちろん本人もその効果は承知の上だ。私たちのやり取りをうかがっていた黒田くんは、彼女の表情にくぎ付けになってしまった。白岩さんの押し殺した笑い声が聞こえる。私も少しだけほほえんだ。

「次のコンサート、来年の一月中旬にやるって言っていたじゃん? その件なんだけど、こっちもお手伝いお願いできない? 次はさ、きちんとしたホールでやるの。K市民会館の中ホール。今度はね、ヴァイオリンとビオラとチェロにピアノを合わせたピアノカルテットでいくんだ」

 そう言いながら、チラシを私の机の上に広げる。盛装した四人の演奏写真が中央に大きく配置されたチラシをみんなでのぞき込む。白岩さんが「おお、きれいだねえ」とほほえみ、黒田くんが「すげえ、プロみたい」とため息をつくなか、私はその写真の左手奥に目を奪われていた。チラシ下部に記載された演奏者一覧に目を走らせる。【ヴァイオリン:山吹美瑠 ビオラ:青山雄二 チェロ:黒川海督 ピアノ:常盤柚葉】。やっぱりトキワさんだ。

「美瑠、ピアノの常盤柚葉さんと面識があったの?」

 私の動揺は美瑠にはばれなかったようだ。華やかな顔に喜色があふれる。

「それそれ! 柚葉さんにA大学の理学部の学生ですって言ったら、コンパルさんって知ってますか、って聞かれたよ? よろしくお誘いくださいだって。ねえ、コンちゃんって、柚葉さんとお知り合い?」

「あ、ううん、一度、演奏を聞いたことがあるだけ」

「ふうん? 柚葉さんはね、ヴァイオリン仲間のNさんが何度か一緒にコンサートをやっていたの。かねがね噂は聞いていたんだけど、今回ようやく紹介してもらえたんだ。

 で、演奏を聴かせてもらって、もう惚れこんじゃった。音がさ、超かっこいい。毒をはらんだような凄みがあって、深みもあって。でも、他の楽器と合わせるときには、強烈な個性がすっと彩度を下げて、ハーモニーに溶けこむの。憎らしいくらいのバランス感覚なんだよ。絶対一緒に演奏してみたいと思って、当たって砕けろで頼んでみたら、快諾してもらえたんだ」

 美瑠が両手を握り締め、嬉しくてたまらないとばかりに声を弾ませた。黒田くんが息をのむ。

「柚葉さんとチェロの海督くんがチェコの音楽院に留学経験があるんだ。それで今回はチェコ音楽をメインにしたプログラムをやるよ。で、一月十一日の土曜日なんだけど、都合はどうかな?」

「あ、土曜日の……今回は夕方からなのね? ちょっと、保留にしていい? 確認しないと返事できない――あ、それより」

 隣で懸命に秋波を送ってくる影が目に入った。

「ねえ、美瑠、メインは受け付けのお手伝いだよね? 私じゃなくても、大丈夫だよね? 以前から、黒田くんが美瑠のヴァイオリン演奏に興味があるって言ってたんだ。そうだよね?」

 黒田くんが少し赤い顔をして、うん、うんとうなずく。

「お手伝いの人って、少しは演奏を聞けるでしょ? 一月は黒田くんにお願いするので、どうかな?」

 美瑠がくっきりとした目をぱちぱちとしばたたき、あでやかに笑った。

「私はいいけれど、黒田くん、いいの? そう? じゃあ黒田くん、お願いできるかな? えー、私のヴァイオリンに興味があるの? 嬉しいなあ、もちろん、いつでも聞かせてあげるよ?」

 黒田くんの顔がさらに赤くなった。うん、うんとうなずいている。

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