【24.トシェシュニョヴィツェ】 二〇一九年十一月
第36話 ヨシアキ
案の定、翌日コンパルちゃんは熱を出した。三十八度ちょっと。消毒をしに病院に行ったときに相談したけれど、様子を見ましょうということになった。帰りがけに大判のウェットティッシュと経口補水液、リンゴ、ヨーグルトを買って帰った。そんなに大げさにしないで下さいよ、と本人は笑っているが、指導者でもあるこちらとしては、そうもいかない。
病院からヤマシロ家に戻り、今日はシャワーは禁止と言い渡して休ませる。横になる前に着替えると言い張るので、それならそのタイミングでとウェットティッシュで軽く体を拭かせた。左手と背中は手が届かないと言われたので拭いてやり、室内着に着替えさせると、リンゴと処方薬を与え、布団に入らせた。すぐにすうすうと規則的な寝息が聞こえてきて、ほっとする。そうそう、そうやってきちんと寝ないと、治るものも治らないんだよ。しばらく、純朴な中学生にしか見えない、あどけない寝顔を見ていた。
彼女と親しくなってからしばしば面食らうのがこの子供のようなところだ。無邪気で、好奇心が強くて、強引で、でも素直で。こちらの言うことや意図したことをぐんぐん吸収していく貪欲さと伸びしろにあふれ、それはセイジや俺が少しずつ失ってきたものだ。物おじしない彼女は同世代のようにふるまっているが、それに気づくたびに、俺はたじろぎ苦しくなる。セイジは気にならないのか、不思議でたまらない。
本当にこのままでいいんだろうか?
セイジと彼女は互いに惹かれ合い、セイジのことを好きな俺だって、彼女とセイジの関係を好ましく思っている。
だけど、二回り以上も年上の男との交際は本当に幸せなのか? ポリアモリーな関係で、プラトニックな関係で本当にいいのか? この先、彼女が考えを変えて、セイジの子供が欲しいと言いはじめたら? 奇妙なことに、セイジを軸とした世界に子供という存在が加わる可能性を俺は今まで考えもしなかった。ふたりの間に子供ができても、俺たち三人の関係は今までどおり続けられるのか? 子供はきちんと育てられるのか? セイジとの関係が崩れ去るくらいなら、いっそ今のうちに、コンパルちゃんとの関係に終止符を打たせてしまおうか?
我に返り苦笑する。どうしたんだ、これじゃ、セイジを諫める資格なんてないな。彼女が幸せかどうかにポリアモリーや年齢差なんて関係ないだろう? 子供のことだって、親はふたりが幸せだなんて誰が決めた?
コンパルちゃんは静かに眠っている。もう一度安らかな寝顔を見ると、障子を閉めてダイニングへと行き、遅い昼食を取った。
午後六時前にセイジが帰宅した。少し強張った顔がキッチンをのぞき、息をついたのが見えた。
「今日はレタスのチャーハンと麻婆豆腐だよ」
その言葉に顔をほころばせる。
「自分の好きなものを作るのも楽しいですが、恋人が自分を思って作ってくれる料理は嬉しいものですね」
セイジの恐ろしいのは、そんな歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言えるところだ。もう二十年以上もこいつと付き合ってきたのに、いまだに馴れない。いまだに胸がときめく。
「コンパルちゃんの様子、見て来てくれる? ご飯食べられそうかどうか、聞いてみてよ。熱が上がってないといいんだけどさ」
セイジが和室に消え、しばらくして戻ってきた。後ろにコンパルちゃんがいる。
「お、起きたか、チャーハンと麻婆豆腐、食べられそう?」
「はい、いただきます」
「はいよ。でもその前に熱を測ってみて。顔が赤い」
ダイニングの椅子に座らせて熱を測らせると、三十八度七分。夜になって少し上がってきた。ご飯を食べさせて、すぐ寝させないとな。
さすがに、いつもの豪快な食欲はなかったが、それでも俺の半分くらいの量は食べてくれた。すかさず薬を飲ませ、歯を磨いて顔を洗ったら再び布団に押し込み、和室とリビングの電灯を消すと障子を閉じた。セイジが洗い物をしている。
「セイジ、洗い物は俺がやる。寝付くまでそばにいてあげなよ」
セイジが「すっかりお母さんみたいですね」と苦笑いする。俺は眉を寄せて少しだけ語気を強めた。
「いやいや笑うところじゃないから。熱があるときってさ、訳もなく不安に駆られることがあるだろ? そのうえ怪我をしてるんだ。一緒にいてあげてよ。彼女、なんだからさ」
セイジがこちらを見る。その柔らかなまなざしに、喉の奥に何かがつかえたような気持ちになった。手を洗いタオルで拭きながらセイジがささやく。
「ヨシアキ、今夜はあとで、寝る前にちょっと飲みませんか」
え? 今なんて? だって、今日、月曜日だよ? 俺の日じゃないのに、いいの?
セイジがコンパルちゃんに付き添っているあいだ、洗い物の残りを片付け、シャワーを浴びた。交代でセイジがシャワーを浴びているあいだ、ビールが冷えていることを確認し、グラスをふたつテーブルに出した。あ、と思い出し、冷凍庫を見る。うん、ある。サクランボの蒸留酒、トシェシュニョヴィツェの瓶がひっそりと冷えている。さっと引っかけるだけだから、つまみも簡単なものにしよう。二週間前に飲んだときのクルミが残っていたので、それを皿に出した。ダイニングの照明を一段暗くした。
バスルームから出てきたセイジがダイニングのようすを見て笑う。
「飲む気満々ですね。本当にきみはお酒が好きですね」
お酒が好きなんじゃないよ。あ、いや、お酒は好きだけれど、確かに大好きだけど、おまえと飲むのが好きなんだよ。
冷蔵庫からビールを出すとテーブルに置き、セイジの向かいではなく隣に腰かける。セイジが目を丸くしてこちらを見たけれど、気づかないふりをしてビールを注ぐ。顔を寄せてささやく。
「乾杯しよう」
「何にですか?」
「コンパルちゃんの熱が早く下がりますように」
セイジが口元をほころばせ、ふたりでそっとグラスを合わせる。冷たく冷えた芳しい流体が、喉を落ちていく。チェコで飲んだビールは、もっと温かく、それがからりとした気候に合っていた。一方、日本で飲むビールはこれくらい冷やしたほうがおいしいと思う。セイジが声をひそめてしゃべる。
「ヒワダ先生は、とても感じの良い方でしたね。ヨシアキから聞いていた、やり手の教授というイメージからはずいぶんかけ離れていましたよ」
セイジと自分のグラスにビールを注ぎ足しながら小声で答える。
「とても誠実でチャーミングな方だよ。でも、実にしたたかなんだ。あの業界で生き抜くために必要なスキルはしっかり持ちあわせていて、それを駆使するのをためらわないタイプ。敵に回しちゃいけない人だね」
二杯目はゆっくりと飲む。かすかなホップのかおり、そしてほろ苦さ。チェコビールに比べあっさりめの味わい。でもこれはこれでおいしいのだ。チェコのビールも日本のビールも、それぞれ飲むべきシーンがあり、どちらかが優れているというものではないと俺は思う。しっとりとした飲みには、よく冷やした軽いビールを合わせるのが好きだ。
「紅丸くんというのは、ヨシアキがときどき話してくれる、博士課程の学生さんですね?」
「うん。博士五年目のね。こないだ、紅丸とアキヨシと一緒に飲んだって話をしたよね? のんびりしたやつでさ、このままじゃいつまでたっても芽が出ないって、ヒワダ先生が外部の研究機関との共同研究に彼を加えたんだ。そこで面白い結果を出したんだって。それをもとに今回彼を売り込んだんだろうね。
ただ、彼の性格は研究者向きじゃない。押しが弱すぎる。答えが分かっても、手を上げてはいはいはいって言えないタイプなの」
「でも、昨日のお話だと、大学か研究機関に就職が決まりそうなのでしょう? 大丈夫なんですか?」
グラスを空けた。もう一缶冷蔵庫から取り出し、セイジと自分のグラスに注ぐ。
「ヒワダ先生だもん、紅丸のことをわかっていないはずはない。研究員じゃなくて、技術研究員か技術員の口じゃないかな。彼の実験センスは俺の目から見てもすごい。それを猛アピールして相手がたにうんと言わせたんだろうね」
グラスをぐいっと空けると、缶から再び注ぐ。どうして直接缶から飲むのとグラスから飲むのとで、こんなに風味が異なるんだろうか。セイジもグラスを空けたので、注ぐ。二缶目も空になった。
「コンパルさんの怪我を見て、ヨシアキの怪我を思い出しました」
「ああ、大学四年生の時の? 俺はこんなに大怪我じゃなかったよ?」
「大きな傷ではないけれど、深かったでしょう? 左手の小指と手首のあいだにガラスを突き刺してしまったんでしたよね?」
そう言いながらセイジが俺の左手を取り、裏返した。そこには二センチほどの傷跡がくっきりと残っている。セイジが傷跡をなでる。
「よく、元どおりにくっつくものですね」
俺も傷跡をなでてみた。少し盛り上がった白っぽい筋は軽く押さえるとその付近だけ少し固い。とはいえ、痛みがあるわけでもなければ、指が動きにくかったり痺れたりもない。
「セイジ、今回はありがとう」
セイジは目を上げず、俺の手をそっとなでている。冷たい指が俺の手のひらに触れるたびに、触れられたところが熱を持ち、手のひら、腕へと伝わっていく。でもその指はいつまでたっても冷たいままだ。たまらなくなって、両手でセイジの手を握った。セイジは目を伏せたまま動かず、その手に俺の熱は伝わらない。でも、その芯に、触れ合うものをとろけさせるような温もりがあるのを俺は知っている。
「ねえ、セイジ、最後にトシェシュニョヴィツェ、一杯だけ飲まない?」
セイジが顔を上げた。目尻のしわが少し深くなり、うなずいた。
冷凍庫から出すと瓶はすぐに霜で覆われる。ふたつのショットグラスにとろりとしたトシェシュニョヴィツェを注いだ。ほんのりサクランボのかおりがする。
「コンパルちゃんが起きていたら、和室にいてもにおいを嗅ぎつけるかもよ。飲ませろって、うるさそう」
セイジが笑う。
「そうかもしれませんね」
「っていうか、隣に行ったら飲んだのばれるね。寝るときは、起こさないように気をつけて布団に入ってね?」
セイジがもの言いたげにこちらを見る。そんな顔しなくてもいいじゃん。今日は土曜日じゃないけど金曜日でもない。彼女は怪我をしている。そんなときくらい、ちょっと特別扱いしてあげてよ。
セイジを促しショットグラスを軽く合わせると、半分ほど口に含み、飲み下した。芳香と冷たさが舌の上に広がる。一歩遅れてアルコールが心地よく舌を痺れさせ、喉が熱を帯びる。背徳的なおいしさ。この酒は冷たいうちが最高にうまい。残り半分も、温まらないうちに飲み干す。空になったショットグラスをテーブルに置くと、セイジの左肩を引き寄せ、ついばむようにキスをした。
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