第35話 コンパル
かきたま汁が出来上がり、キノコをアルミフォイルで包み、ひとくち大に切った豚肉を生姜焼きのたれに付け込んだところで玄関が開いて閉まる音がした。
「ただいま」
ヤマシロさんだ。リビングに入ると、私とスオウさんを見て一瞬顔をこわばらせた。すぐに心配そうな顔になる。
「コンパルさん、起きていて大丈夫ですか?」
「大丈夫です。痛みも何かして気を紛らせていれば、我慢できないほどではないです。あの、今朝はどうも失礼しました。おふたりが起きているのに全然気づきませんでした」
「そんなことは気にしないで。ゆっくり眠れたのなら本当に良かった。でも、無理をしないでくださいね。ヨシアキ、ヒワダ先生はいついらっしゃるの?」
「さっき入った連絡だと、五時ぐらいだって」
「わかりました。リビングにお通しするので、よいですね?」
「うん、それでいいと思うよ」
「私、何かやることありますか?」
「コンパルさんの怪我のお見舞いにいらっしゃるんですよ。きみが一所懸命おもてなしの準備をしてどうするんです?」
ヤマシロさんが苦笑いした。
キッチンの橙色のダウンライトの下で、洗い物をするスオウさんと茶器を準備するヤマシロさんが軽口をたたいては笑っている。スオウさんの無防備な笑顔。ヤマシロさんの柔らかな流し目。私はダイニングの椅子に坐って黙ってふたりを見ていた。
私はスオウさんのようにヤマシロさんと長い歳月を共にしてきたわけでもなく、トキワさんのようにヤマシロさんを魅了する音楽の才能があるわけでもない。もしもこの手がなくなったら、ヤマシロさんの目から私は消えてしまうのだろう。
スオウさんがこちらを見た。眉をひそめ、すぐににっと笑うとキッチンから出てきた。
「変なこと、考えてるだろ」
そう言いながら、くしゃくしゃと私の頭を掻きまわした。
五時二分にチャイムが鳴った。立ち上がろうとすると、スオウさんが、俺が出るから、と私を制した。ぼくも行きますとヤマシロさんも出て行った。すぐに先生を囲んで三人でリビングに入って来る。
「コンパルさん……」
ヒワダ先生が声を震わせ、足早にダイニングテーブルに近寄る。
「起きていて平気なの? びっくりしたのよ、昨日ヨシアキさんから電話をもらって。ごめんなさいね、すぐに来られたらよかったんですが、命に別状はないと聞きましたし、ヨシアキさんが付きそってくださるとのことでしたから、思い切ってお任せしてしまいました。昨日は札幌にいて、午後に紅丸くんの共同研究の打ち合わせと、夜に就職に関する打診をする予定だったので、簡単には抜けられなかったんです。本当に申し訳ありません」
身の置き所がなかった。
「すみません、そんな大事なご出張だったのに」
先生が慌てて手を振った。
「ああ大丈夫よ、用件は全部終わったんだから、コンパルさんが気にすることはないの。紅丸くんの就職先のあてもきっちり作ってきたわよ。それより、検査や処置に二時間近くかかったのですって? それを聞いてぞっとしたわ。ガラス細工をしていてなのでしょう? また、どうして、そんなことに?」
そういえば、何をしていての怪我なのか、スオウさんやヤマシロさんにも一言も告げていなかった。ふたりとも、尋ねなかったのだ。
「あの、ガラス管を折り割るのに失敗して斜めに砕いてしまったんです。砕けた拍子に勢い余って、左手の尖ったガラスで右手を突き刺してしまいました」
まあ、とヒワダ先生が顔をくもらせる。ちらりとスオウさんを見ると、思いっきり顔をしかめている。心なしか、血の気が引いているように見える。お茶を入れていたヤマシロさんがそっと声をかけた。
「ヒワダ先生、あちらで少しお茶でもいかがですか? ヨシアキ、お菓子を運んでくれますか? コンパルさん、きみは少し横になったほうがよさそうですよ。顔色が悪いです」
そう言われたけれど私はいっしょにソファに坐り、ヤマシロさんの入れてくれたシナモンティーを飲み、ヤマシロさんがお店から持って帰ってくれたペルニークをつまんだ。
「じゃあ、神経は大丈夫だったのね」
「はい。今のところ、問題ないだろうということです」
「それを聞いて安心しました。ヨシアキさん、お世話になりました。休日の事故で、もしも職員がいなかったら、問題になっていたでしょうから」
スオウさんが困ったような顔でこちらを見た。私はどんな顔をしたらよいのかわからず、目をそらした。穏やかなヒワダ先生の声が続いた。
「それから、ヤマシロさんでしたわね、先ほどは玄関口で失礼いたしました。ヨシアキさんのパートナーさんですよね? ヨシアキさんにはもうずいぶん長い間、公私にわたってお世話になっております。ヤマシロさんのことも、何度か耳にしておりましたし、チェコのお酒も楽しませていただきました。いつか直接お礼を申し上げたいと思っておりましたの。今回、このような形でそれが実現したのは、なんとも皮肉なことですけれど」
ヤマシロさんがぎこちない含羞の笑みを浮かべ返答する。
「ご丁寧に恐れ入ります。こちらこそ、いつもヨシアキをお引き立ていただき、ありがとうございます。それに――コンパルも。ふたりから、ヒワダ先生には細やかなご配慮をいただいているとしばしばうかがっております。いつかご挨拶ができたらと思いながら、機会に恵まれず、失礼いたしました」
ヒワダ先生が当惑の表情を浮かべ、会話が途切れた。それを見たスオウさんが真顔になり、口を開く。
「ヒワダ先生、実は――」
私はスオウさんを遮るように声をあげた。
「先生、ヤマシロさんは私の彼氏でもあるんです」
ヒワダ先生がこちらを見た。顔には戸惑いの色が残っているものの、まなざしはいつものように柔らかい。
「ヤマシロさんはポリアモリストです。スオウさんは高校生のときから二十年以上、私は三年生の時から一年半、ヤマシロさんとお付き合いしています」
ヒワダ先生が穏やかな表情を少しだけ改めてスオウさんを見た。
「ヨシアキさん、ヨシアキさんは高校生のときからヤマシロさんとお付き合いされているのですね? ヤマシロさんが自分以外の恋人を作ることに困惑することはなかったのですか?」
ヤマシロさんが白い顔を伏せた。スオウさんは柔らかな表情を浮かべ、ヒワダ先生に向き合う。
「困惑がなかったと言えば、嘘になります。でも、ポリアモリーという生き方に賛同したうえで交際を始めたんです。それに俺以外に恋人を作るといっても無軌道にではありません。たとえ複数人の恋人がいても、常に俺たちなりのルールに則って関係を維持しています。今の彼との距離は近すぎず遠すぎず、俺はこの生活に満足しています」
「コンパルさん、あなたは?」
「私の求めるものは、きちんと満たされています。この愛のかたちは私にはとても居心地よいんです」
ヤマシロさんがおずおずと顔を上げた。私はほほえみかけた。
「そう、それはうらやましいわね」
その言葉にスオウさんとヤマシロさんがヒワダ先生を見た。先生は屈託ない様子でお茶を飲む。
「人を愛するのに決まったかたちはないとはいえ、誰もがポリアモリーというかたちを受け入れられるわけではないでしょう。むしろ、否定したい人のほうが多いでしょうね。あなたがた三人が三人ともその関係を肯定的にとらえ、自分たちが構築した秩序に従って満足のいく生活を送れているのなら、これは素敵なことだと私は思います。ふたり家族よりも三人のほうが心強いし、楽しいものね」
そうおっしゃると、私の方を見てにこりと笑った。私も温かな気持ちになってほほえみ返した。
スオウさんが口ごもりながら口をはさんだ。
「でも、ヒワダ先生、申し訳ないのですが、俺たち三人の関係は他言無用でお願いします。少なくとも、コンパルちゃんが学生のあいだは、明かさずにいたいんです」
先生は口元にほほえみを浮かべたまま無言でうなずいた。まじめな顔で先生の顔を見つめていたスオウさんがこちらを振り返った。厳しい顔になる。
「コンパルちゃん、きみ、そろそろ休みなさい。昨日の今日なのに、ちょっと頑張り過ぎ」
大丈夫ですと答えたものの、ヤマシロさんからもヒワダ先生からも、横になりなさいと諭され、布団に追いやられた。
「長居するとコンパルさんがゆっくりできないでしょうから、今日はそろそろ失礼します。コンパルさん、くれぐれも無理をせず、お大事にね」
先生のその言葉に、ちょっとがっかりする。でも、先生もこちらに戻っていらっしゃったばかりなのだ、疲れているに違いない。
「ヒワダ先生、今回は何のお構いもできず、申し訳ありません。どうぞ、日を改めて、またお招きさせてください。次回はチェコのお酒も準備しておきますから」
ヤマシロさんがあの美しく響く声でそう挨拶しているのが聞こえた。
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