【26.凍雨のはちみつ紅茶】 二〇一九年十二月上旬
第38話 コンパル
蕭々と雨の降る気配がする。暗い部屋の中でふと目を覚ますと、布団から右手だけ出してスマホをさぐり、時間を確認した。四時四十五分。大学に行かなきゃならないけど、今日は土曜日だ。もう少しゆっくりしていてもいいよね。昨日は夜十時過ぎまで実験していたんだし。そう思ってスマホの画面を消そうとしたとき、何かメッセージが届いているのに気づいた。
【やっほーコンちゃん 明日は十一時にモールのイベント広場集合! よろしくね】
美瑠からだ。送信時刻は昨晩の十一時四十分。そうだ、今日はファミリーコンサートの日だった。危ない、うっかり忘れるところだった。急いで起き出してシャワーを浴びた。
頭を乾かしながらスマホを見る。あ、ヤマシロさんからメッセージが届いている。
【おはようございます】
【今日は午後六時まで店にいます】
【夜はヒンカリを作ります】
思わず「ヒンカリ!」と叫び、口を押えた。まずい、まずい、まだ朝の五時過ぎだ。このアパートは隣人が恋人とむつみ合う声が聞こえてくるほど壁が薄い。気をつけなきゃ。
ヒンカリなる食べ物の話を聞いてから、ずっと食べてみたいと思っていた。「言うなら、スパイシーな肉団子入りスープがたぷんたぷんと包まれた、もっちもちの皮の大餃子ですね」――何それ、想像するだけで、よだれが出そう。
送信時刻は五時六分。あいかわらず早起きだなと感心しながら、返事を出す。
【おはようございます。ヒンカリ!】
【今日は大学、そのあと友達のコンサートです】
【そちらに着くのは五時半ごろ】
水を入れた小鍋にキャベツとソーセージを入れ、コンソメをひとかけ入れて煮立てる。オーツ麦の袋を開け、二匙加える。香ばしくて粉っぽいかおりに癒される。大きなやかんに煮だしておいた紅茶をカップに注ぐ。このぞんざいな紅茶の扱いは、ヤマシロさんにはとても見せられない。でも、一人暮らしの学生なんて、みんなこんなものだよね? スープが程よく冷めるまでのあいだ、荷物を手早く準備する。
朝食を終えたら着替えて、簡単に化粧をして、最後に肘の内側に少しだけ、ヤマシロさんにもらったオードトワレをつける。とたんに、苦味と爽やかさが入り混じったトップノートがほのかに立ち上る。ラストノートのムスクとクローブのかおりが気配を忍ばせているのが心地よい。ムスクとクローブはヤマシロさんのデオドラントのかおりに似ている。このオードトワレをまとっていると、私は常にヤマシロさんを間近に感じられる。
オードトワレを棚に戻し、右手のひらを広げる。でこぼこした傷跡。数回、握ったり開いたりしてみる。うん、問題ない。
荷物を抱えて玄関の扉を開く。冷たく湿った土のにおいがした。ふっと吹き飛ばせそうな細い雨が降っている。これなら傘を差すまでもないだろう。左手に持っていた折り畳み傘をカバンに突っ込み、そのまま飛び出して駅から電車に乗った。三駅目で降り、五分ほど歩くと大学につく。石造りの理学部旧館。東棟二階のうす暗い廊下に216号室の扉ののぞき窓から明かりが漏れ出している。扉を開けると、こもった夜の残り香がどっとこぼれ出た。部屋の中央では六つの黒い実験台が島を作り、奥の窓際には六つの学生机が並んでいる。そのふたつに人影が見える。だらしなく椅子の背にもたれぼんやりスマホをいじっている白岩さんと、机に突っ伏して寝ている黒田くん。
「おはようございます。徹夜ですか?」
部屋に入りながらそう声をかけると、白岩さんがぎょっとしたようにこちらを見る。
「おはよう、コンパルさん。相変らず早いね。ああ、昨日仕掛けた分析、見に来たの?」
「はい。気になって。これがうまくいってなかったら、卒業やばいですし」
そう言いながら自分のデスクに荷物をどさりと投げ出し、コートを脱ぐと、部屋の奥にある分析室に入った。分析装置につながった制御・解析用PCのモニタの電源を入れ、分析が終了したデータを確認していく。とりあえず、分析は問題なく終了している。よしよし、いいぞ。ファイルを次々に開き、標準物質と照らし合わせて同定し、濃度計算を行う。三十分ほど表計算ソフトと格闘し、私は安堵の笑みを浮かべた。計算結果を印刷し、216室に戻る。
「お、結果でた? どうだった?」
「ばっちりでした! おかげさまで留年しなくてすみそうです」
「そりゃ、おめでとさん。指導してきた身としては、ほっとする言葉だよ。右手を怪我したときには、どうなることかとひやひやしたけどね。再来週の進捗報告会の発表も大丈夫そう?」
「はい、大丈夫です。そのあとの忘年会も、美味しいお酒が飲めそうです」
眠たそうな顔でぼんやりほほえむ白岩さんに笑みを返し、白衣を着ると、昨晩残してしまった実験器具の洗浄を始めた。
洗い物を億劫がる子もいるけれど、私は好きだ。何と言っても、この講座で使っている洗剤のかおりが素晴らしいのだ。今まで見たこともないレトロなラベルには「レモンの香り」と印刷されているけれど、絶対レモンじゃない。もっとまろやかで、わずかに甘く、色で言うならサーモンピンクだ。
ブラシにその洗剤を付けてガラス器具をごしごしと丹念にこすり、時には研磨剤――このねっとりと固いクリームも、また、素朴で心地よいかおりがする――とスポンジで磨き、水道水で流し、塩酸槽に一晩つけおき洗いする。
塩酸槽は市販の七十リットルのふた付きポリバケツに希釈した塩酸を満たしたものだ。冬でも奇妙に生ぬるい蒸気が立ち上り、鼻を打つ。
洗い終わったガラス器具をつける前に、前日につけこんでいたガラス器具をすべて取り出す。水道水で酸をよく流したら、蒸留水ですすぎ、乾燥させてから電気炉で有機物を焼き飛ばす。汚れも曇りも消え失せ、キュキキュキと音を立てるガラス器具はとても気持ちが良い。
二時間ほどで洗い物は終了した。時計を見ると、九時過ぎている。急がなくちゃ。
白衣を脱いでいると、ようやく目を覚ました黒田くんがネコのような伸びをしつつ、もう帰るのと嗄れ声で聞いてきた。
「今からT町のモールだよ。例のヴァイオリンとピアノのコンサートのお手伝い。そうだ、黒田くんも来る? 美瑠に花束でも渡す、いいチャンスかもよ?」
黒田くんが大あくびをする。
「無理だよ、そんなの柄じゃないし。第一、実験、また終わってないもん」
全然気のない返事をしながら、目が泳いでいる。
「そうだね、花束を渡すなら、来年二月のコンサートのほうが良いかもね」
うん、考えとくわとあくび交じりに黒田くんが返事をするのにうなずきながら、コートを着てカバンを持つと、大部屋を飛び出した。
細やかな雨は止む気配もない。寒気が入って来たのか、朝よりさらに気温が下がったようだ。体にしみこみそうな冷たい雨には霧が混じり、逆巻きながら町を白く煙らせている。
ショッピングモールの小さな屋内イベント広場で行われたファミリーコンサートは、冴えない天気にもかかわらず、まずまずの客入りで、モスグリーンのドレス姿の美瑠もその友達でブドウ色のドレスのピアニストも、ずっと顔を上気させてにこにこしていた。今日の演目は、親子連れに楽しんでもらおうと、クリスマスメドレーとアニメのテーマ曲でまとめたとのこと。人気アニメのテーマ曲が流れ始めると、むっちりした手足の幼児が音に合わせて体を揺らすのが可愛らしかった。
撤収を終えると、三時五十分だった。このあと一緒にお茶でも飲みに行かない、と引き留める美瑠たちに笑顔で別れを告げて広場を後にする。あ、でも、せっかくモールにまで来たんだから、何か手土産を買っていこう。以前から気になっていたマスカットのチョコレートを買った。
電車で六駅、歩いて十五分。住宅街から外れた工場街の入口で霧雨の中に溶けてしまいそうな佇まいのクリーム色の喫茶店。入口の『茶房カフカ』のプレートに描かれた二羽の鳥が寂し気に雨に濡れている。
時計を見た。五時五分。店からはまだ淡褐色の澄んだ灯りがもれだしている。私は扉をそっと開ける。カラン、と音が鳴る。ヤマシロさんがカウンターの中から柔らかにほほえんだ。ちょっとたるんだ目尻にしわが寄る。ヤマシロさんのにおいがする。胸がぐっと締め付けられ、それからじんわりと広がる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
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