第39話 コンパル
店を閉めると、裏に回り、ヤマシロ家に入る。ヤマシロさんは真っ白なかっぽう着を着た。いよいよヒンカリ作りだ。
ヤマシロさんは十年ほど前にロシア旅行に行き、そこでヒンカリに出会い、ほれ込んだのだそうな。ヒンカリはロシア料理ではなくジョージア料理らしいけど、海外未体験の私にはロシアもジョージアも想像を絶するはるかかなたの国で、ほとんど同じようなものだった。
ヤマシロさんが仕事の合間に捏ね上げておいてくれたヒンカリの皮を私が手のひらサイズに丸く伸ばすと、これまたあらかじめ材料を全て刻み捏ねておいてくれた種をヤマシロさんが手際よく包んでみせる。私も見よう見まねで包む。きんちゃく型のヒンカリが四つ出来上がったところで、ふつふつと沸き立つ大鍋の中に投入する。盛んに立ち上る湯気とともに、まったりと漂いはじめるスパイスのかおり、大葉のかおり、ひき肉の煮えたかおり。いくつもの心地よいかおりの和音にうっとりしながら、さらに次の皮を伸ばす。
白いスープ皿二枚に茹で上がったヒンカリをのせ、粗挽き胡椒を振りかける。途端に、ひき肉の柔らかなかおりは上品なよそ行きのかおりに変わり、ヒンカリはつやつやと光りながらすまし顔になる。
「なんでスープ皿なんですか?」
「ヒンカリの中のスープ、絶対こぼれちゃうからですよ」
ふたりでキッチンに立ったまま、左手でスープ皿を持ち、右手の指できんちゃくの頭をつまみ上げようとするが、熱くて、とても持っていられない。「本場の食べ方」はあきらめ、大きなスプーンにヒンカリをひとつ載せ、なんとか横っ腹を食いちぎる。そこからスープを吸おうとしたが、こわごわと口を付けた瞬間、あまりの熱さにヒンカリを落とし、スープはこぼれてしまった。スープ皿は正解だ。
「ところで、なんで私たち、立ち食いなんですか?」
「茹で上がったそばから、熱々を食べたいと思いまして」
無言でヤマシロさんの皿を見る。彼だってひとつも食べられていない。
結局、四つ茹で上げては、ダイニングテーブルに皿を運び、坐っておしゃべりをしながら少し冷めるのを待ち、食べた。茹で上げるときにほのかに漂っていたかおりが、これでもかと凝縮されたスープは絶品で、そのスープに浸るスパイス多めのひき肉のタネも当然極上で、私はおなかがぱんぱんになるまで詰め込んだ。
「そうだ、お土産があったんでした」
そう言ってマスカットのチョコレートを取り出す。甘いものに目がないヤマシロさんは顔をほころばせ、尋ねた。
「紅茶、入れましょう。何がいいですか?」
「はちみつのフレーバーティー」
濃い眉をちょっとひそめる。
「このチョコ、マスカットのかおりでしょう、いいんですか? 喧嘩しません?」
「そのふたつのかおりなら、大丈夫です」
はちみつのフレーバーティーは、はちみつのかおりだけをつけた紅茶だ。かおりに敏感な私だが、人工的な香料が駄目かというと、そんなことはない。自然のかおりも人工的なかおりも関係なく、好きなものと嫌いなものがある。このはちみつのフレーバーティーがゆっくりと喉を落ちていくと、一日、刺激にさらされて過敏になった神経が落ち着いていく。
ヤマシロさんがガラスの薄い角皿にマスカットのチョコレートをのせて出してくれた。買ってきたお惣菜であれお菓子であれ、必ず皿に盛り直してから出すのがヤマシロさんだ。ティーポットの中で蒸らされた紅茶がカップに注がれる。はちみつの、ちょっと癖のあるかおりが広がっていく。聞こえるはずもない冷たい霧雨の降りしきる音が、耳の奥で聞こえる気がした。
ヤマシロさんが紅茶を飲み、チョコレートをひとつつまんで食べたのを見てから、私もひとつ口に入れた。
「ヤマシロさん、先日におい嗅ぎガスクロの講習会に行ったんです」
「におい嗅ぎ、ガスクロ?」
耳慣れない言葉にヤマシロさんが眉を寄せる。そんな表情にもつい見とれてしまう。
「はい。面白い名前でしょ? 例えば空気中の悪臭の成分や濃度を知るのに、ガスクロという装置を使います。雑多に混ざり合ったガス成分をいったんすべてシリカゲルのようなものにくっつけちゃうんです。そこにきれいなガスを流すと、はがれやすい成分から順番に流れ出てきます。そのあと出てきた成分を同定したり濃度を測ったりするんですけど、におい嗅ぎガスクロは、成分の感知に人の鼻も使うんです」
「人の鼻を? 機械のほうが厳密に測れるんじゃないんですか?」
「そう思うでしょう? でも、人間の鼻の感度ってバカにできないんです。しかも、悪臭というのは人間が不快に感じるという要素が重要なので、人間の鼻で確認する必要があるんですって」
「なるほどね」
「いえ、それは前振りなんです。その講習会でね、マスカットのかおりが分析例として挙げられていました」
「へえ、かおりが鮮烈で独特だからですか?」
「ええ、独特、ですよね。単に良いかおりというのではなく、癖のあるかおりが混じっていて、それがいっそうマスカットのかおりを引き立てています。実はね、マスカットのこのかおりには、うんこのにおいが含まれているんです」
「……」
ヤマシロさんがあっけにとられた顔をしたのを見て、嬉しくなった。
「すごいと思いません? この芳しく気高いとも評されるマスカットのかおりに、うんこのにおい成分が入っているなんて。うんこですよ?」
ヤマシロさんは声を押し殺して笑う。肩が小刻みに震えている。
「コンパルさん、狙ってしゃべってるでしょ? 露悪的ですね。だけど、ぼくはそういうの気にならないんです。ふふ、残念ながら」
そう言うと、もうひとつ、マスカットのチョコレートを口に入れ、嬉しそうにほほえんだ。
夕食の片づけが終わり、交代でシャワーを浴びると、私はダイニングキッチンのテーブルの上にパソコンを置いた。大学の古い分析装置のプロッターから吐き出された分析結果の用紙を右に置き、それを見ながら分析試料名、分析条件、それに分析結果の数値を入力していく。向かいの椅子を少し左にずらして腰掛けたヤマシロさんが、私を見つめる。いや、私の手を見つめる。小気味よい音をたてながらキーボードの上を駆け回る指を、まじろぎもせず、陶然として見つめる。うん、大丈夫。視覚情報は即座に命令となって十指に流れ込み、指はそれを感知しつつ滑らかに動く。でも、速ければよいというものではない。目の端でヤマシロさんをうかがう。ピアノを演奏するように敢えて緩急をつけ、私の指の動きのまま、ヤマシロさんが目をみはったり、じれたり、小さく息をついたり、うっとりと眺めたりする様子を感じては、深く満足する。
畳の上に布団を二組並べて敷く。窓際がヤマシロさん、その隣が私。部屋の灯りを消すと、レースのカーテンを透かして窓の外から常夜灯の光が入り込み、壁にぼんやりと影を落とす。布団にもぐりこむと、右を下にし、隣のヤマシロさんを見る。棺に入れられたかのようにまっすぐに横たわり目を閉じたヤマシロさんの顔が青白く浮かび上がっている。柔らかにうねる髪に縁どられた滑らかなひたい。濃い眉毛。とがった鼻。やや厚めのふっくらとしたくちびる。大きな耳。顎に影を落とす無精ひげ――ヤマシロさんは私が泊まる土曜日はひげをそらないのだ。これまで歩んできたはるかな道のりが刻み込まれた目尻のしわ。そのすべてを私は飽かず眺める。でも、何より素敵なのは、ヤマシロさんのにおいだ。
この空間はヤマシロさんのにおいに支配されている。この部屋に入った瞬間から、ヤマシロさんに触れたり抱きしめられたりするまでもなく、私は包まれ、体の外からも内からも愛撫される。布団に入って意識を嗅覚にのみ集中させると、私はみるみる満たされていくのを感じる。
「ヤマシロさん」
「ん?」
「今日の約束をお願いします」
「そうですね、今日は小学生のころに飼っていた犬の話をしましょうか。
ぼくが小学校一年生の時に――」
ヤマシロさんが天井を見つめて静かにしゃべる。私は彼のにおいに抱かれ、その声に目を凝らす。
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