第33話 ヨシアキ
茶房カフカに着いたのは、午後四時を少し過ぎたころだった。店の裏手に回り、ヤマシロ家の玄関脇に車を停める。
「ちょっと待ってて。きみのその血まみれ姿では店に入らないほうがいい」
「スオウさんもかなり血だらけですけれど」
「落ちなかったら弁償してね」
「はい」
窓から中をのぞく。幸い、お客さんは三人連れが一組、テーブル席でスマホをいじりながら、ときおりおしゃべりしているだけだった。それを確認して、店に電話をかけた。
「はい、茶房カフカです」
こんなときでも、いや、こんなときだからか、あいつの低く響く声に、たまらなくすがりつきたくなる。
「セイジ、ヨシアキだけど。今、表にいるんだ。ちょっと出てきてもらえない?」
セイジが驚いて外に目を向けるのが見えたので、手を上げて合図する。すぐに出て来てくれた。
「どうしたんです? きみが土曜日のこの時間に、ここに来るなんて……」
そう、他の恋人との時間に俺がセイジの近くに現れることは、これまで一度もなかった。セイジは慌てるでも苛立つでもなく、ただ、戸惑っていたが、俺の服の血に気づくと目をむいた。何か言おうとするのを制して簡潔に説明した。
「だから家に上がらせてもらえない? コンパルちゃんを休ませたいの」
「もちろんいいですよ、でも、コンパルさん、どんな容体なの? いま、車の中ってことですね?」
「うん、家の脇に停めさせてもらってる」
それを聞くや、セイジは車へと走った。追いかけると、セイジが助手席の横に立ってぎゅっと眉を寄せ車内を見つめているのが見えた。コンパルちゃんはシートにもたれて目を閉じている。
「ひどい出血だったんですね」
「ギザギザのガラスを肉の中で往復させちゃったらしいからね。深く刺さったら抜くな、って早めに教えておくべきだった」
「すぐ玄関を開けますね」
俺は車の後部座席のドアを開け、コンパルちゃんの荷物を取り出した。彼女はまだ眠っている。静かに助手席のドアを開けた。肩をそっと叩く。
「おーい、コンパルちゃん、もしもし?」
呼びかけにゆっくりと目を開けた。
「セイジが玄関を開けてくれた。中で横になろう。立てる?」
手をかして立ち上がらせ、家に上がらせる。リビングの一隅を障子で仕切った和室にセイジが布団を敷いてくれていた。
「セイジ、これ、コンパルちゃんの布団?」
「そうです」
「じゃ、とりあえず、今の服のまんまでいい?」
「あのう、さすがに服、脱ぎたいです」
「着替えは?」
「そこの衣装ケースに……」
タオルを濡らしてきますとセイジが出て行ったので、彼女に指示されるまま、衣装ケースからTシャツとトレーナーの上下を取り出した。
「じゃあ、これに着替えて」
「スオウさん、手伝ってください」
「は?! なんで?!」
「自分じゃボタンを外すのも腕を抜くのも、まだうまくできないと思うので……」
「いや、そうじゃなくて、セイジだろう? そこは」
「ヤマシロさんには見られたくありません」
「俺はいいの?! 俺だって、男なんだけど?!」
「スオウさんは女性の下着姿や裸にまったく興味ないでしょ?」
「それはそうだけど、でも、きみがセイジの家に泊まるようになってもう一年だよね? いい加減、セイジもきみの裸は見慣れてるでしょ?」
戻ってきたセイジが濡れタオルを手にしたまま真っ赤になっている。は? どういうこと?
――少しだけ、やるせない気分になった。
「セイジ、ここ、やっとくから。もう店に戻ったほうがいいんじゃない?」
「そうします。ごめんなさい、コンパルさん、ゆっくり休んでいてくださいね」
セイジはそそくさと出て行った。
「で、本気なの?」
「本気です。早く、この血まみれを脱ぎたいんです。左手のボタンが、はずれない……」
俺とそっくりな左手が薄紫色のブラウスの袖口でもどかしげにくねる。ため息をつくと、袖のボタンをはずしてやった。
コンパルちゃんは着替えるとすぐに眠ってしまった。鎮静剤が効いているのだろう。俺はそばに座ってしばらく穏やかな寝息を聞いていたが、立ち上がると、キッチンで水を飲んだ。緊張が解けない。今になって、体が小刻みに震える。和室に戻ると、彼女が脱いだ血まみれのブラウスとタンクトップ、ズボン、それに胸や腕に血の擦り付けられた俺の作業着とピンクに染まった濡れタオルが目に入った。見るだけでぞっとした。血のにおいがぷんと鼻を突くような気がして、むかつきそうになる。洗濯、しといてやろう。
バスルームに持っていき、広げて床におくと、シャワーで冷水をかけた。茶色く変色したブラウスから白いタイルの上に深紅の水脈が幾筋も流れ出し、排水溝を目指す。うっとこみ上げそうになり、しゃがんで目を閉じた。何度もつばを飲み込み、深呼吸を繰り返す。シャワーの水圧を上げて、数分間、がむしゃらに衣服にかけ続けた。
血の染みはほぼ消えた。全部まとめて洗濯機に放り込み、スタートボタンを押した。手を石鹸で念入りに洗い、においを嗅いだ。いつまでも爪のあいだに血のにおいが残っている気がする。
ためらいがちに玄関の開く音がした。静かにリビングのドアを開ける音、そしてひそめた足音がバスルームへとやって来た。
「ヨシアキ?」
「セイジ、もう店、閉めたの?」
「はい。お客様も少なかったので、早じまいさせてもらいました。コンパルさん、よく眠っていますね」
俺たちはリビングに戻り、和室のコンパルちゃんを見る。仰向けで、右手を頭の脇に投げ出すようにして熟睡しているようだ。それを確認すると、そっと障子を閉め、ダイニングキッチンの椅子に座った。
「ヨシアキ、お疲れさまでした。きみがいたから、すぐに適切な処置をして、病院に連れていけたのでしょう?」
「そんな大層なことはしていないし、そもそも、彼女にガラス細工を勧めたのは俺だよ。しかも、俺が別の部屋にいたときの事故だ。目を離した俺の責任が大きいね」
「相当ひどい怪我なんでしょう? ブラウスもズボンも血まみれでしたよね? かなり大量に出血したんじゃないですか? 貧血になったりしないんでしょうか?」
その言葉に、技官室に飛び込んできた彼女の凄絶な姿、必要に迫られて直視した無残な傷口、あふれ出し流れ落ちる血をまざまざと思いだし、猛烈な吐き気に襲われた。たまらずトイレに飛び込む。ひとしきり戻し、洗面所で口をゆすいで顔を洗うと、ようやく少し楽になった。
「ヨシアキ、大丈夫? 落ち着きましたか?」
リビングに戻るとセイジが心配そうにこちらを見てくる。小さくうなずく。
「きみは昔から血に弱かったですもんね。立場上仕方ないとはいえ、辛かったでしょう」
「あれが自分の怪我だったら、そのまま失神だよ。指導している学生だったから、何とかなったんだ。もう思い出させないで。また吐きそうになる」
「ごめんなさい。何か飲みましょう。リクエスト、ありますか?」
「落ち着けるやつ」
「リーパにしましょうか」
「リーパ?」
「菩提樹です」
お湯を沸かしてくれていたらしい。すぐにほんのりと甘いかおりがしはじめた。カップを受け取り、少しずつ飲んだ。
「セイジ、一週間ほど、コンパルちゃんを泊めてあげてよ」
セイジの顔がわずかにこわばった。
「あの怪我、本当にひどいんだ。しばらく一人にはしておけない。毎日通院もしなけりゃいけないけど、それは俺がつれて行くから」
口をつぐんだセイジを見つめながら立ち上がった。
「ちょっと大学に戻ってくる。血のこぼれたの、掃除してこなきゃ」
テーブルの上に放り出していた車のキー、財布、スマホをポケットに突っ込むと、少しだけ、とつぶやきながらセイジを抱きしめた。
大学に戻ったが誰もおらず、廊下や技官室に点々と垂れ落ちて固まった血で騒ぎが起きた形跡もなかった。胸をなでおろしながらウエスを濡らし、技官室から廊下へと、ひとつずつ血をぬぐい取っていく。水に溶けて再び真っ赤に蘇る血を見ないようにしつつ工作室の前までのすべての血痕をふき取った。工作室に入ると、床の血だまりが目に飛び込んできた。再び胃が捻じれるのを感じ、あわててトイレに駆け込む。もうほとんど出るものはなかった。しばらくしゃがんでいたが、意を決して再び工作室に向かい、息を詰めて一気にすべての血をふき取り、ウエスを袋に詰めて捨てた。
ヤマシロ家に帰ってくると、コンパルちゃんはまだ眠っていて、セイジが夕食の支度をしてくれていた。ダイニングテーブルの椅子に座ると、かっぽう着姿のセイジがキッチンから出てきた。
「コンパルさん、ご飯食べられますかね? 左手で食べやすいものをと思って、卵雑炊と白身魚のムニエルを作ってみたんですけど。――ヨシアキ、きみも一緒に食べていくんでしょう?」
思い切って言った。
「食べていくんじゃなくて、食べます。セイジ、コンパルちゃんと一緒に、俺も泊めて」
「ヨシアキ?」
「こないだの話を蒸し返すわけじゃないよ。でも、現状、彼女は一人にしておけない。そして彼女のサポートに関して、俺が適任なことがいくつかある。じゃあ、俺も一緒に泊まったほうが効率的でしょ?」
「……」
「これを機に、ずっと三人で暮らそうというわけじゃない。一週間か二週間、彼女がひとり暮らしに戻れるようになるまでの当面の話だよ。ね?」
「……」
「セイジ、今日はコンパルちゃんの隣で寝てあげてね。今までどおり、おまえと彼女の土曜日を邪魔しはしない。俺、奥の部屋を借りるよ。ご飯食べたら、すぐに引っ込む。今までと何も変わりはしないんだよ。ね、そういうことで、この話は終わりにしよう。
卵雑炊、もう食べられる? 俺、大盛りで。さっき大学でも吐いたから、もう腹の中空っぽだよ」
セイジは浮かぬ顔で立ち上がり、キッチンへと向かった。俺は和室に行って、コンパルちゃんの枕元に坐った。
「コンパルちゃん……」
小さく呼びかけると、目を開けた。
「俺たち、晩飯食うけど、食えそう? 卵雑炊と魚のムニエルだってよ」
「食べます」
そう言うと、ゆっくり上半身を起こした。
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