【22.菩提樹のお茶】 二〇一九年十一月二日(土)

第32話 ヨシアキ

「スオウさん……」


 背後からコンパルちゃんに呼びかけられ、その声が震えているのを不審に思いつつ振り返った俺は、驚きのあまり椅子を蹴って立ち上がった。薄紫色のブラウスの右袖が血まみれだった。その右手首は胸の前で左手に固く握りしめられている。赤く染まった右肘からぽたりと血が滴り落ちた。


「切ったのか?!」


 そう叫び、しまった、と心の中で舌打ちする。俺が怯えさせてどうする?! ゆっくり深呼吸をした。左手で右手を抑えているから、怪我をしたのは右手だろう。俺の椅子に坐らせ、ロッカーに入れてあるタオルを取り出す。新品ではないが、洗いたてだ。よかろう。タオルを手に彼女を振り返ると、細かく震えている。素早く観察する。意識ははっきりしており、呼吸も平常、冷や汗をかいている感じもない。ショック状態に陥っているというより、初めての大怪我で動揺しているのだろう。


「ようし、ようし、よくここまで歩いてきたな。もう、大丈夫だよ。うん? 心配はいらん。すぐ、病院に一緒に行くからね。その前に、ちょっと見せてみ。あ、きみは見るな。あっち、向いとけ」


 素直に言うことを聞く。固く貼りついている左手を引きはがし、右手をそっと下ろさせたとき、傷口の大きさとあふれ出る血に俺のほうが倒れそうになった。それでも、出血具合を見るに、大きな動脈が切れているわけではなさそうだ。これなら救急車を呼ばずとも、俺の車で急いで病院に連れて行けばよいと判断した。傷口は親指の付け根のあたり、かなり複雑に切れているように見える。

 とにかく、まずは洗わねば。部屋の流しにつれて行き、シャワーで傷口を洗い流した。そのあとタオルに載せて傷口にガラスのかけらが残っていないか確認しようとしたが、出血が多くて諦めた。机の上に積んであった雑誌の上にさらに新聞紙を敷き、右手を手のひらを上にして載せさせた。その上にガーゼタオルを被せて彼女の左手を載せ、さらに俺の左手で押さえて傷口を圧迫止血するようにした。うぐっとうめくのが聞こえた。ごめんな、ちょっと辛抱して、痛いよな、ごめんな。押さえつつ、病院に行く前にやっておくことは、と頭をフル回転させる。まずは急いで火の元を確認せねば。それから実験室の加熱系装置の電源オフと彼女の貴重品類の回収くらいか。あ、救急病院に電話も入れねば。

 彼女を見ると、そのあいだもぶるぶると震えている。これをひとりにするのは怖いな。俺は上着を脱ぐとそれを彼女にかけて、背中をそっとさすりながら、はっきりとした声で語りかけた。

「ゆっくり、三百からカウントダウンしてて? 小さい声でいいから、口に出して。わかった? 数え終わるまでには、戻って来る」

 コンパルちゃんは素直に数字をつぶやき始めた。猛ダッシュで工作室に行き、彼女の言うとおり、バーナーは使用前で、ガスも酸素も元栓が締まっていることを確認した。実験室216室に飛んでいく。誰もいない。コンパルちゃんのデスクは入口入って突き当りの窓際の右から三番目のはず。白い上着と灰色のリュックサックがある。それをつかみながら実験室の道具をざっと確認する。動いているものはなさそうだ。それが確認できると電気を消し、どの部屋にも明かりがついていないことを確認しつつ技官室へと飛んで戻った。


 カウントダウンには間に合ったようだ。真っ青な顔をして数をつぶやいている。右手のガーゼタオルには赤い染みがにじみはじめている。

「ほいほい、お待たせ。今から病院に電話するからな」

 学校指定の救急病院に電話をし、手短に状況を説明した。

「じゃあ、俺の車に行こう。すぐ裏に停めてるけど、そこまで歩ける?」

 聞き取りやすいように、焦らせないように、のんびりと声がけしながら、右手をもう一重、タオルで巻き、左肩に載せて左手で押さえさせた。とにかく急ごう。彼女の体を支えながら車に押し込み、頭をなでた。


 病院につくと、コンパルちゃんは速やかに診察室へと飲み込まれていった。それを見届けると、俺はへなへなと待合室の長椅子にへたり込んだ。しばらく放心していた。血は苦手なのだ。子供のころから、ものすごく苦手なのだ。恐ろしい光景だった。これが面倒を見ている学生でなく自分自身の血だったら、とうの昔に吐いていただろう。気づくと、自分の手もところどころ茶色く汚れていた。服にもいくつも血の跡がついている。それを見るだけで気が遠くなりそうだった。でも、まだへたるわけにはいかない。何とか気力を振りしぼってトイレへと向かい、血まみれの手だけは何とかした。

 長椅子で五分ほど呆けていただろうか、怪我の件、連絡しなければ、と思い当たった。スマホを取り出し、ヒワダ先生にかける。運よくすぐにつながった。コンパルちゃんがガラスで手を切ったこと、病院に連れて来ていること、動脈は切れておらず、命に別状はないけれど縫合が必要そうだと伝えると、電話の奥で絶句しているのがわかった。申し訳ありません、俺の監督不行き届きですと伝えると、いえいえと焦ったように謝られた。彼女が本当はQ大学の学生であることを思い出し、そちらに報告する必要があるか尋ねると、ヒワダ先生が一報入れてくださることになった。

「ヨシアキさん、申し訳ないのですが、今日は彼女の面倒を見てもらえないでしょうか? 実は私、今、県外でして、すぐには戻れないんです。明日の夕方にはそちらに帰ります。帰ったらすぐにコンパルさんの様子を見に行きます」

「はい、もちろん、俺が付き添いますから、その点はご心配なく。容体はそこまで気にしなくとも大丈夫だと思います。ちょくちょくご連絡入れますね」

「よろしくお願いします。大学への正式な報告については、休み明けの火曜日にでも相談させてください」

「よろしくお願いします」

 ヒワダ先生との通話を終えると思い出した。今日は土曜日だ。ということは、彼女はセイジの家に行く予定のはずだ。どうするんだろう? 壁の時計を見ると、十三時二十分、まだ夕方までは時間がある。それまでに少なくとも処置は終わるだろう。コンパルちゃんが出てくるのを待つことにした。


 二時間ほどして、コンパルちゃんが出てきた。顔色はまだ青いが、さっきよりはよくなった。右手は真っ白な包帯でぐるぐるに巻かれ、三角巾で首から吊るされている。薄紫色のブラウスは右袖と胸から腹にかけて無残に血まみれで、茶色く乾きかけている。肩にかけている俺の青い作業上着もいたる所に血がついている。泣きそうな顔でこちらを見た。

「スオウさん、ごめんなさい。ものすごい迷惑をかけてしまいました」

「初心者にガラス細工中に怪我をさせたんだ。これは俺の責任だね。きみが謝ることではないよ」

 コンパルちゃんの目から涙がこぼれそうになった。俺は笑いながら彼女の頭をぽんぽんと叩いた。

「もう、嫌になったんじゃない?」

「スオウさんのことがですか?」

 彼女の頭を掻きまわした。


 痛み止めと化膿止めを受け取り、明日からしばらく消毒と経過観察に通院するよう言われ、俺たちは病院を後にした。車に乗り込むと尋ねた。

「で、これからどうする? 今日は土曜日だから、セイジのところに送っていったらいい?」

「でも、こんな怪我でヤマシロさんのところに行っても、迷惑なだけでは?」

「その大怪我でひとりにするのは怖いんだよ。万が一にそなえて、少なくとも一週間くらいは、誰か面倒を見る人間と一緒にいて欲しい」

「スオウさん……」

 言いよどんでいる。助手席に目をやった。上目遣いにこちらを見てくる。

「誰かと一緒にいなさいと言うなら、一番近しいひとは彼氏であるヤマシロさんです。だから一週間ヤマシロさんにお世話になりたいです。いいですか?」

 俺は目をそらした。大きく息を吐く。

「それが順当だろうね」

「この怪我、スオウさんの責任って言いましたよね?」

「まあな」

「私、右利きなんです。右手が一切使えない状態では、あらゆることが不便です。着替えだってできないし。スオウさん、責任を取って、ヤマシロさんの家に一緒に泊まって、私のサポートをしてください」

 思わず彼女の顔を見る。青ざめた顔に、かすかにいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

「コンパルちゃん、きみ、わざと怪我したんじゃないだろうな?」

「さすがに、それはありません」

「――だよね、ごめん。とりあえず、行こうか」

「はい、お願いします」

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