【21.柔らかなにおい】 二〇一九年十一月二日(土)
第31話 コンパル
十一月第一週の金曜日、ヒワダ研はちょっと浮かれていた。今週末は三連休なのだ。イベント好きの青木さんの企画で土曜日に日帰りハイキングが計画された。「十一月のこの忙しい時期に、マジですか?」と顔をしかめる修士二年の浅葱さんにヒワダ研の大黒柱こと青木さんは「忙しい時こそ適度な息抜きを敢行できねば良い研究などできん」とうそぶいた。
「僕は無理です」白岩さんは彼女を連れて親族に挨拶をしに行くらしい。「私も先約があります」藍川さんは彼氏と泊りがけで房総半島を旅行してくるらしい。私も断った。「土曜日は無理です」青木さんが黒田くんと赤嶺くんを見た。「行くよね?」「……」「よし。じゃあ、黒田と赤嶺と浅葱はきまりな」
アウトドア好きの緑山さんと彼女に強く誘われた桃園さんがそこに加わり、青木さんの奥さんも含めた七人で行くことになったらしい。ということは、少なくとも土曜日は分析装置は使い放題ということだ。よし、朝から実験をしよう。
「で、なんで俺が土曜日に来なきゃならないんですか?」
技官室の椅子に坐ったまま振り返り、にっこりと笑いながら冷ややかな目でこちらを見据えているのはスオウさんだ。私はあたふたと付け足す。
「実験の合間に少し複雑なガラス細工をやりたいんです。教えてもらえませんか? あ、あの、もちろん、昼前後からで結構です。朝はお邪魔しません」
にべなく返される。
「当然です」
取り付く島もないスオウさんに居たたまれず、うつむいてもじもじする――ふりをする。それを見てスオウさんが噴き出す。私もふふっと笑う。
「わかったわ、じゃあ、十一時目安に来るから。それでいい?」
子供に目を細めるお父さんのような笑顔だ。
「ありがとうございます。ガラス細工は午後に始めるように準備します。あ、明日、お昼、一緒に食べましょう。ごちそうさせてください」
「どこで?」
「もちろん学食でです」
「土曜日だよ、学食閉まってるけど?」
「あ、じゃあ、黒田くんお勧めの、学園通りにできたどんぶり屋さんは?」
「黒田のお勧め? 却下です。あいつ、すごい悪食だもん。それより、学園通りなら自転車屋のとなりの喫茶店は? 近くて、安くて、うまい」
黒田くん、ひどい言われようだなとちょっと可哀そうになったが、否定できないのが痛い。わかりましたと苦笑した。
翌日、スオウさんは十一時きっかりに216室にやって来た。一緒に早めの昼食を食べに出かけ、そのあとふたりで工作室へ向かった。スオウさんは私の服装――ひらひらのブラウスやぴらぴらのスカートは燃えやすいのでガラス細工をするときに着てはいけない――や髪の毛をしばっていることを確認し、酸素ボンベの残量を確かめ、何かあったら内線で呼びだすよう言い渡すと、いったん技官室に戻っていった。紙の書類をいくつか片づけたら、PCを持ってこっちに来てくれるらしい。
十五センチほどの長さの小さな冷却管を作ろうとしていた。20ミリリットルくらいの小フラスコの上に付けて還流するのに使うのだ。20ミリ管と10ミリ管で二重管にしよう。小さなフラスコも、20ミリ管とジョイントをつないで自作しよう。まずは、20ミリ管を必要な長さに切るのが最初かな。ガラスカッターで傷を入れて折り割れるのは10ミリまでと言われていたが、こないだスオウさんは20ミリ管もガラスカッターで折り割っていた。いとも簡単に。推奨されている焼玉法で切ると、どうしても切れ目がギザギザになってしまうのだ。できるなら折り割りたい。よし、挑戦してみよう。
ガラスカッターでぎりりと傷を入れて、傷を外側に向けて、両手にくっと力を込めて割ろうとした。びくともしない。あれ、おかしいな。もう少しだけ力を入れる。折れない。もうちょっと……と思った瞬間、世界がスローモーションになった。
ガラス管が中央付近から斜めに鋭く割れ、左手に持ったガラスの切っ先が右手親指の付け根をめがけ、深く、深く突き刺さっていった。
右手がひやり、とした。
まずい、と思って、とっさに突き刺さったガラスを引き抜いた。それがいけなかったらしい。鋭く斜めに割れた切っ先は、引き抜かれるときに肉と皮膚をさらに切り裂いた。
傷口から深紅の血があふれ出す。一列に並んだスタートゲートから競走馬がいっせいに飛び出してくるようすがなぜか頭に浮かんだ。とくとくと湧き出る血は、手のひらを華やかな色彩に染め上げる。手のひらから、肘から、ぼたぼたと滴り落ちては床で跳ね、じわじわと無彩色のPタイルを侵していく凄まじい赤。魅惑的な赤。感覚を鈍麻させる赤。しょっぱくて、暖かくて、なまぐさいにおいが徐々に広がり、その色をいっそう妖しげに揺らめかせる。
そんなことを考えていたのはおそらく数秒間だったろう。右手の激しい痛みに、我に返った。改めて見た血まみれの手と床は私の視界をグロテスクに一変させていた。とたんに焦った。
まずいよね、これ、どうしよう、どうしよう、スオウさん、そうだ、スオウさんのところに行こう。
私は胸の高さに上げた血まみれの右手首を左手でぎゅっとつかみ、技官室に行ったらしい。
「スオウさん……」
開いていた扉から部屋に入りながらスオウさんに呼びかける。声の調子が変だったのだろう、スオウさんが怪訝な顔をして振り向き、はじかれたように立ち上がった。
「切ったのか?!」
その声にただこくこくとうなずくことしかできない。スオウさんの顔をみたら、急に体が激しく震えはじめた。スオウさんが一度大きく息を吸って吐いたように見えた。
「こっちに坐って」
その声はいつものスオウさんよりも低く、柔らかくて甘かった。ヤマシロさんに語りかける声みたい。私はスオウさんの席に電池が切れた玩具のように坐りこんだ。スオウさんがロッカーからタオルを持ってきた。
「ようし、ようし、よくここまで歩いてきたな。もう、大丈夫だよ。うん、すぐ病院に一緒に行くからね。その前に、ちょっと見せてみ。あ、きみは見るな。あっち、向いとけ」
言われたとおり、顔を左にぐっと捻じ曲げると、こわばった左手が引きはがされ、右手がそっと机に置かれるのを感じた。
「よし、ちょっとこっちへおいで。傷口を洗うよ」
背中を支えられて技官室の端にある、大きな流しにつれて行かれた。スオウさんが大きめのシャワーヘッドのついた蛇口を開ける。水がふわ、と流れ始めた。
「ちょっとしみるけど、我慢してね。はい、右手かして。きみは左を向いてて」
その言葉と同時に右手首をつかまれ、手の甲に水がかけられる。すぐにそっと手のひらが上向けられて、水がかけられた。もう一度ガラスを刺したような痛みに思わず右手を引きそうになったが、スオウさんの手ががっちりと押さえている。ごめんなあ、痛いだろ、ちょっとだけ、我慢してなあ。そう言いつつ、スオウさんが大きく息を吐いたのが聞こえた。しばらく流すと、スオウさんは水を止め、私の右手をガーゼタオルでくるみ、もう一度スオウさんの席に坐らせた。
「ちょっと我慢してね、止血してみるよ」
タオルを巻いた私の右手をつかむと、机の上に積んだ雑誌の上に手のひらを上にして載せた。次に左手を取ると、右手のひらの上に重ねさせた。その上からさらにスオウさんの手が重ねられ、私の手をぎゅっと押さえる。激痛に思わず身をよじってうめくと、ごめんな、ちょっと辛抱して、痛いよな、ごめんな、と話しかけてくれる。心なしか震えているように思えた。押さえながらスオウさんが問う。
「コンパルちゃん、向こう、ガスバーナーは火がついてる?」
「いえ、まだ――」
「実験室で、やりかけてる実験は、ある?」
「ないです」
「荷物は実験室のデスクの上?」
「はい」
「ようし、わかった。念のために火とガスを確認して、荷物取ってくるから、少しだけ、そのまま圧迫しながら待ってて。いいか、ゆっくり三百からカウントダウンしてて? 小さい声でいいから、口に出して。わかった?」
「はい。三百、二百九十九、二百九十八……」
スオウさんは作業着の上着を脱いで私の肩にかけ、足早に出て行った。ひとりになると、急に手のひらに痛みを感じるようになった。ずき、ずき、と脈打つような痛みが次第に激しさを増していく。心細くなって、呼吸が荒くなりそうになる。いけない。私はカウントに集中した。
「……七十、六十九、六十八」
ばたばたと足音がして、スオウさんが戻ってきた。少しだけ息を乱している。
「カウントダウンに間に合った? うん、俺も素早くなったもんだな。工作室も実験室も大丈夫だった。きみのカバンと上着は、これでいい?」
私は目を上げて確認し、うなずいた。
「ようし、待たせたな。じゃあ、俺の車に行こう。すぐ裏に停めてるけど、そこまで歩いて行けるかい?」
うなずく。スオウさんの手が私の左手を持ち上げると、ガーゼタオルは赤くなりはじめていた。
「見なくていい」
その声に目をそらす。スオウさんは右手にさらに何か巻き付けているようだった。それが終わると私の右手を左肩に載せ、左手で抑えさせた。
「よし、いい子だ、ゆっくり立って」
いい子呼ばわりに、一瞬むっとしたけれど、それを口に出す余裕はなかった。ゆっくり立ち上がったが、軽いめまいを感じ、また坐ってしまう。
「ゆっくり、二回、深呼吸を、してみて?」
言われるがまま、深呼吸する。
「もう一度、ゆっくり立ち上がってみて?」
今度は立てた。
「よし、いいぞ。じゃあ、俺がきみの荷物も持ったからな。ちょっと腰、さわるぞ」
その声のあと、私の右に立ったスオウさんが左手で私のズボンの腰をつかみ、体を支えてくれた。
「ほい、いいですか、お嬢さん、ゆっくり行くぞ」
二人三脚でゆっくりと車まで歩き、スオウさんの車の助手席に乗り込んだ。スオウさんがシートの背もたれをぐっと倒してくれた。私の頭を何度かなで、助手席のドアを閉める。
スオウさんが車を運転するなんて知らなかったし、車を持っていることも知らなかった。車に乗るととても柔らかなにおいがしたような気がするのだけれど、そろそろ痛みと精神的なショックで感覚が鈍っていた。車が動き、背中を包み込むシートがときおりぼうんぼうんと弾む。赤ん坊がお父さんやお母さんに抱っこされているのって、こんな気持ちかなあとぼんやり思い浮かべた。
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