第30話 コンパル

 クリーム色の一軒家の前に着くと、スオウさんは窓から中をのぞきこんだ。私ものぞきこむ。うん、お客さんはまだいない。一瞬、私たちは真顔で視線を絡ませた。スオウさんが茶房カフカのドアを開く。カラン、と乾いた音がする。

「いらっしゃ――」

 カウンターの中でヤマシロさんが絶句した。その顔がみるみるこわばる。

「おはよう、セイジ。セイジの顔がどうしても見たくなって、来ちゃった。席はどこでも構わない?」

 そう尋ねながら、ヤマシロさんの答えを待たずに、ずかずかと奥の席に行き、坐る。

「ほら、コンパルちゃんも坐って。はい、何飲む?」

 メニューを私に手渡しながら、俺ははちみつのフレーバーティー、ティーポットで、とカウンターに声をかける。

「私は『森のめぐみ』をティーポットでお願いします」

 私もカウンターに向かって声をかけたが、ヤマシロさんは返事をせず、ただ紅茶の準備を始めた。しばらく見つめていたけれど、こちらに目を向けず、ティーポットを取り出し、カップを取り出し、茶葉の缶を棚から取り出している。

「やれば?」

 向かいのスオウさんが顎を上げる。

「何をですか?」

「ん? 報告書。PC持ってきたんでしょ? 締め切りいつよ?」

「来週の金曜日です」

「電子ファイルで提出? じゃあ水曜日くらいまでには仕上げときたいよな。どこまでできてる? 良ければ見せて?」

 PCを取り出して原稿を開き、スオウさんのほうに画面を向ける。スオウさんがPCを自分の方に引き寄せ、報告書を読み始めた。

「ねえ、これって、向こうの大学の教授に出す報告書だよね? 書式って決まってるの? 文字数の制限は?」

「どちらも、ないです」

「じゃあ、もう少し膨らませたっていいんじゃない? きみの文章って簡潔でわかりやすいんだけれど、ちょっと色気がないよ。論文ならこれでばっちりだけど、今回は内輪の報告書だろ? もうちょっと頑張りましたアピールをしてもいいと思うけどね。ほら、ここの検討事項とかさ、たしか十パターンくらい比較したって言ってなかったっけ? そういうのは結論だけじゃなくて――」

「お待たせしました」

 低く深く響く声に、スオウさんが一瞬体をすくませた。私も息をのんだ。カチャリ。カチャリ。身をこわばらせた私たちの前で、ヤマシロさんが、藍色のお盆に載せた真っ白なティーカップとソーサーをテーブルの上に並べる。

「はちみつのフレーバーティーです」

 スオウさんの前のカップに丸い真っ白なティーポットから褐色の紅茶が注がれる。もうと立つ湯気、発芽の微速度撮影のように力強く広がっていくはちみつのかおり。スオウさんが大きく息を吸い込んだのが見えた。

「『森のめぐみ』です」

 私のカップにもまろやかに輝くティーポットから赤紫色のお茶が注がれる。こちらは火の粉を振りまく手持ち花火のように、軽やかにかおりが弾ける。初夏の森に降り注ぐ光、いっそう陰を濃くする緑の茂みを点々と彩る赤や紫や黄色の果実。その艶めく実りを求めて森を散策する乙女たち。そんな物語が瞬時に湯気のスクリーンに映し出された気がした。

 ヤマシロさんはふたつのカップを満たすと、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「どうぞ、ごゆっくり」

 スオウさんがヤマシロさんに何か声をかけてくれるんじゃないかと期待していた。でも、奇妙な静寂は破られることなく、ヤマシロさんはカウンターに戻っていった。その固い様子に不安が募る。スオウさんはすました顔で視線を落としたままカップを口元に運ぶ。慎重に冷まし、口をつけると、ふっと口角が上がる。もう一口飲み、じっと見ていた私に気づくと、したり顔になる。

「なに? こっちも飲みたいの? それとも俺に見とれてる? 残念ながら、きみは俺のタイプじゃないから、諦めて」

「シャツのボタン、上から三つ目が開いてますよ」

 スオウさんが慌ててボタンを確認して赤くなった。「気づいてたんだろ、もっと早く言いなよ」とむくれるのをしり目に、私もお茶を一口飲んだ。甘やかなかおりと軽い酸味が心を躍らせる。重く垂れこめはじめていた雲が少しだけ薄くなったような気がした。

 そのあと、お茶を飲みながら、私は二時間ほど報告書を盛り、スオウさんは本を読んでいた。そのあいだに二組のお客さんが紅茶を飲みに立ち寄り、一人が紅茶を買いにやって来た。

「スオウさん、こんな感じでどうでしょう?」

 あらかた出来上がった報告書をもう一度見てもらった。ざっと目を通したスオウさんは頬を緩めた。

「いいんじゃない? 俺なら、最初に見せてもらった版よりも、この修正版をはるかに高評価するね。ヒワダ先生にも見せるの?」

「はい。指導してくれてる白岩さんとヒワダ先生に見ていただいてから、Q大学の先生に提出します」

「じゃあ、これで明日見てもらったらいい」

 スオウさんは満足げにうなずき、PCを私に戻した。

「では、勤勉なお嬢さんにご褒美をあげましょう。何か食べたいものはございませんか?」

 そう言いながらメニューを差し出す。おどけるスオウさんを無言で見つめてから、メニューを開いた。『季節のお菓子:ペルニーク』に目がとまった。『チェコの伝統的な焼き菓子。クッキータイプとケーキタイプがあります』

「ペルニークが食べてみたいです」

 スオウさんがメニューに目を落とす。

「どっち?」

「もちろん両方です。だって比べてみたいじゃないですか」

 スオウさんが苦笑しながら、うなずく。

「セイジ!」

 呼びかけに、カウンターのヤマシロさんがこちらに目を向ける。

「ペルニーク、クッキータイプとケーキタイプを一つずつ、お願いします」

 ヤマシロさんは軽くうなずき準備を始めた。

 今日はまるでしゃべってくれないヤマシロさんだったけど、ときどきカウンターに目を走らせるたびに目が合い、もの言いたげにこちらを見つめられた。ヤマシロさんが気になって仕方がない私に比べ、スオウさんはまるでカウンターに目を向けることもなく、本と紅茶と私に集中しているように見えた。

 「お待たせしました。ペルニーク二種類です」

 夜空のようなお盆の上に、白いお皿が二つ。片方には木、ハート、鳥の形をしたおおぶりな茶色いクッキーが、白いレース模様のアイシングをまとってすましている。もう片方には、茶色いパウンドケーキが載っている。クローブとシナモンのくっきりと厳めしいかおりに思わず居住まいを正し、カウンターに戻ろうとしたヤマシロさんに話しかけた。

「ヤマシロさん、これ、ふたつともペルニークというんですか? まったく違うものじゃないですか?」

 ヤマシロさんは戸惑った顔にかすかな笑みを浮かべた。

「ぼくも、なぜここまで異なる形状のものが同じ名前なのか、よくわかりません。ただ、両方とも同じスパイスを生地に混ぜ込んでいます」

「このかおり、ヤマシロさんのにおいと似ています。そうか、ヤマシロさんのにおいって、チェコのかおりだったんですね」

 私がそうつぶやくと、ヤマシロさんは顔を赤らめてひっそりと笑った。

 ヤマシロさんが今日初めてまともにしゃべってくれたことに安堵していると、すかさずスオウさんが割り込んだ。

「セイジ、今お客さんはいないだろ? ちょっとそこに坐って」

 ヤマシロさんは黙ってテーブルの上を見つめていたが、諦めたようにスオウさんの顔を見ると小さくうなずき、私の隣に腰かけた。

「俺たちがふたりでここにきて、セイジはどう思った? 我慢できないくらい、不快だった?」

 口をつぐんだままのヤマシロさんをスオウさんが見つめる。その表情は今まで見たことがないほど柔らかい。私はどぎまぎして目をそらした。

「まるで、丸裸にされて、町の中に放り出された気分です」

 沈黙が支配した。いたたまれなくなってスオウさんに目を向けると、小さくため息をつくのが見えた。

「それって恥ずかしいってこと? ポリアモリストを意識させられることが?」

「……」

「セイジ、自分を卑下するのは止めて? どうしてポリアモリーを恥じるのさ? それって、ポリアモリーという生き方を選んだ俺たちを辱めることにもなるよ?」

 歌うようなささやきは恋人への配慮で幾重にもくるまれていたけれど、そこにはスオウさん自身の意識下のしこりも一緒にしまい込まれていて、緩やかな陰影を浮かび上がらせていた。その言葉を聞いた瞬間、ヤマシロさんの色白の顔にさっと朱が差した。

「ごめんなさい、そんなつもりは、ごめんなさい――」

 ヤマシロさんは真っ赤になり、スオウさんは黙ってしまった。ふたりにこんな思いをさせてしまうことになるなんて。私はここに来たことを悔やんでいたが、それでも、三人で話す機会は今を逃すともうないかもしれない。

「あの、ヤマシロさん、私とスオウさんは、ヤマシロさん抜きにしても、よい仲間なんです。気の合う友人として、三人で忘年会をやったり、来年の春にはお花見に行ったりしませんか?」

 スオウさんが私を見ている。ヤマシロさんはしばらく黙っていたけれど、ゆっくりと首を横に振った。

「ごめんなさい。でも、ぼくはこれまでの秩序を大事にしたいんです」

 一呼吸おいて、スオウさんが「しかたないね」と明るい声でつぶやき、ヤマシロさんはうつむいたまま立ち上がるとカウンターに戻っていった。それと同時に、扉が開き、若い男女のにおいが店内に入ってきた。

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