【20.ペルニーク】 二〇一九年十月二十二日(火)
第29話 コンパル
ヤマシロさんには恋人がふたりいる。スオウさんと私だ。スオウさんは金曜日の恋人で、私は土曜日の恋人。スオウさんも私も、それ以外の曜日にヤマシロさんに会うことはほぼなく、ましてや、スオウさんが土曜日の夕方に、あるいは私が金曜日の夜にヤマシロさんに会うことはなかった。恋人として一緒に過ごす曜日を限定する、それは付き合い始める前に取り決めた最も大事な約束だ。
「でも、それって本当に厳重に守らなきゃいけないんでしょうか?」
西棟の屋上前の踊り場で温かい紅茶のペットボトルを握りながらそう問うと、スオウさんは真顔になってこちらを見た。
「スオウさんと私が十分に理解しあったいま、たとえば、金曜日の夜に三人でご飯を食べに行ったり、土曜日の夜に三人で飲んだりしてはだめなんですか?」
スオウさんの目がやんちゃな仔犬を見守るお母さん犬の目になった。いなされた気がして、だめですか、と小さな声で食い下がると、さらりと返される。
「俺は、週一日くらいはセイジとふたりっきりで過ごす時間が欲しいです。コンパルちゃん、きみだってそうじゃない? よく考えてごらん? セイジのにおいが好きなんだろう? そこに俺がいたら、いろんな意味でにおいを堪能なんてできないよ」
「そう言われると、そうかもしれません。だけど、でも、それなら――」
あっさり退けられ、次の言葉を言い淀んでいると、スオウさんが苦笑いした。
「言いたいことはわかる。セイジとコンパルちゃんの時間、セイジとヨシアキの時間を一日ずつ確保したら、それ以外の曜日は親友として、時にふたりで、時に三人で交流したっていいんじゃない、ってことだろう?」
「そう、そうなんです」
「俺が大学生のころ全く同じことをセイジに提案したら、即却下されたっけな」
「そ、そうなんですか」
がっくりしてうつむいた。その様子がよほど意気消沈したように見えたのか、スオウさんは私の頭をぽんぽんと軽く叩き、ためいきをつくようにふっと笑った。
「そんなに落ち込むなよ。ふた昔前のことだ。あいつのゆるそうでいて実はとんでもなく頑ななところは昔から変わらないけど、でも、あいつだって、あれから二十年間も生きてきたんだ。何かは変わってきていると思うよ。
ただね、それって、本当に必要なのかな。俺は今の生活が結構気に入っているんだけどね」
スオウさんを見る。何と答えたらよいのか、わからない。私は生まれてようやく二十二年目を迎えようとしている。ヤマシロさんは、その二倍以上をすでに生きてきている。スオウさんはヤマシロさんのほぼ半生となる二十年以上を彼とともに生きてきている。粛々と、自分たちの作り出した規則からはみ出すことなく。私が生まれる前からだ。急に自分が頭でっかちで鳴きわめくだけのヒヨコになった気がして恥ずかしくなった。それでも、融けきれない氷の小塊が胃のなかにごろごろと転がっている違和感は消えない。息をするたびに氷はぶつかりこつこつと音を立てた。気兼ねなく、恋人みんなで会っちゃだめなんだろうか。そんなに難しいことなんだろうか。
「お嬢さん、明後日の木曜日はお暇ですか?」
頭上から声が降ってくる。明後日の木曜日は祝日だ。
「暇じゃないです。Q大学の先生に提出する、実験報告書を作らないといけないんです」
「PC作業?」
「はい」
「よし、じゃ、デートしよう」
「話聞いてますか?」
「聞いてますとも。きみを元気づけるために、おじさんがうまいものをご馳走してあげる。木曜日の朝八時半にPC持って技官室に来て?」
有無を言わさず強引にまとめると、スオウさんはにっこりと笑った。そのほほえみは、悔しいけれど、ヤマシロさんに似ている。
十月も後半になると、秋は急速に深まる。寝苦しかった夜は嘘のように消え失せ、布団にこもる熱がいとおしい朝が増えた。そんな木曜日の朝、目を覚ますと雨のにおいがした。カーテンを開けると、ぽつ、ぽつと雨がベランダの手すりを叩いている。窓を開ける。途端に、うっそうとした木々のざわめきにも似た雨音が部屋を満たした。においからすると、夜半には降り始めていたのだろう。大気中の土ぼこりを洗い流すにおいではなく、いまだ緑鮮やかな広葉樹の葉を伝って滑り落ちた雨のにおいがする。
ノートパソコンを鞄に入れ、金春色の傘を差して大学へと向かった。理学部旧館西棟の技官室を直接訪ねた。時間を確認する。八時二十五分。いいだろう。解放されていた扉をノックして技官室に入ると、スオウさんはもうデスクワークをしていた。ほのかにスオウさんのにおいがする。他の人のにおいはしないから、ひとりなのだろう。
「スオウさん、おはようございます」
「おはよう、コンパルちゃん。ちょっと待っててくれる? メールの返事をひとつだけ書かせて? あ、その椅子に坐っといて」
スオウさんのすぐ隣の椅子に坐り、スオウさんの机の端に積み上げられている本のタイトルを順に見る。『機器分析概論』、『定性・定量分析』、『化学分析の基礎と応用』、『有機化学』、『ガラス細工法』、え、ガラス細工の本?
「スオウさん、このガラス細工の本、見てもいいですか?」
スオウさんはちらりと本の山に目を走らせ、もちろんいいよ、と言うと、すぐにモニタに目を戻した。
私は本の山を崩さないように、そっとお目当ての本を抜き出した。ずいぶん古い本のようだ。奥付を見ると、なんと昭和四十八年発行だった。黄ばんだ紙はしっとりと手に馴染み、華奢な活字はレトロな雰囲気を漂わせている。パラパラとめくってみると、紙からとてもよいかおりがして、私は大きく息を吸い込む。実験用ガラス細工の基礎技術が順を追って紹介され、図や写真もふんだんに挿入されている。
掲載されている技術をひとつひとつ確認していった。何でもできる気分になっていたけれど、知らない技術がまだいくらでもある。これ、読み込んで、このとおりに訓練したら、技術がもっと身につきそうだ。
ふと目を上げると、スオウさんがこちらを見ていた。にっと笑う。
「それ、興味があるなら、貸してあげるよ。ただ、大事に扱ってね」
「いいんですか? あ、じゃあ、明日、借りに来てもいいですか?」
もちろんですよ、スオウさんはPCの電源を切った。
ふたりで電車に乗った。電車の窓を斜めに走る雨のしずくを見ていると、気分がどんどん沈んできた。スオウさんも何もしゃべらない。私たちの乗った車両はがらがらで、私たち以外、砂色のコートを着たおばあさんと、灰色のスーツ姿の中年女性、それに大きめの白いトレーナー姿の男の子がいるだけだった。みんな押し黙って、うつむいたり、窓の外を見たりしている。薄い雨雲の隙間からもれだした黄色い光の筋がぼんやりと前方の町を照らしていた。
駅に降り立った。よく知っている駅。おそらく、ここに来るのだろうと予想していた駅。なのに、私はスオウさんに尋ねる。
「どこに行くんですか?」
スオウさんもとぼけてみせる。
「どこでしょうねえ?」
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