第28話 ヨシアキ
翌週の金曜日、朝から少しだけ気が重かった。大学に着くとため息をつきながら技官室に向かう。いや、いかん、こんなことでは事故を起こしかねない。セイジのことはしばらく忘れなければ。理学部旧館の廊下を足早に歩き、突き当りを左に折れると、技官室の扉の前に黒田がいた。叱られた犬のようにしょげかえっている。そのしおらしい姿に、悪いけれど、少しだけ心が和んだ。
「スオウさん」
「おう、おはよう。なに壊した?」
「液クロのカラムを枯らしてしまいました。昨日の夜、送液を止めるの忘れて帰っちゃって。朝、気づいてすぐに来たけれど、もう液が空っぽで……」
「はは、初心者がやるトラブルを見事にひとつ残らずやってのけてくれるなあ、おまえは。よしよし、荷物を置いたらすぐに見に行ってやる。おまえはメタノールとアセトニトリルと溶離液用のボトルを二本、準備してて」
「はい」
黒田は顔を引きつらせながらも大きな声で返事をして実験室へと行った。きみがいると否応なしに仕事に集中できてありがたい、そう心の中でつぶやいた。
仕事が終わると車で近くの商店街に行き、ちょっと値の張るビターチョコレートの箱とクラフトジンを買った。午後六時十分。さて、行きますか。
セイジの家に車を停め、チャイムを鳴らす。いつもどおり、すぐにセイジが玄関に現れた。
「お帰りなさい、ヨシアキ」
「ただいま」
その顔はにこやかで、普段と変わるところはない。
「いいにおいがするね。今日は何を食わせてもらえるの?」
「豚丼です」
ああ、帯広名物だね。前言撤回したほうがよいかもしれない。
先週のコンパルちゃんのジャガイモ尽くしのように、豚尽くし、とはならなかった。キャベツのコールスロー、豚丼、ジャガイモの味噌汁。一見、普通のメニューともとれるのは、一週間という時の効果だろうか。夕食はもちろん、とてもうまかった。
夕食の後片付けをして、風呂を済ませると、セイジをダイニングテーブルに坐らせ、チョコレートとよく冷やしたジンを並べた。セイジが不思議そうな顔で見上げてくる。
「どうしたんですか? きみがチョコレートなんて、珍しいですね」
「たまには、こういうのもいいかなって。これビターだしさ。ちょっと良いジンを買ってきたんで、最初はかおりを楽しみながらストレートで飲んでみない?」
向かい合って坐ると、セイジがいつものはにかんだ笑顔を浮かべた。
「いいですね」
互いのグラスを軽く打ち合わせて、口元に運ぶ。杜松果の爽やかなかおりが良い。わずかな苦味が刺激になって、いくらでもすいすいと飲めてしまいそうだ。あっという間に小さなグラスは空になり、もう一杯注ぐ。
「ヨシアキ、このチョコレートおいしいですね。きみ、せっかく買ってきたのだから、食べてみてください?」
「ああ、チョコね、それ、セイジのために買ってきたんだよ。だからセイジが食べればいい」
「どういうことです?」
コンパルちゃんが言ってたんだ、興奮剤だって、と口走りそうになり、あたふたする。
「あ、そうだね、ジンに合うと思って買ったんだった。俺も食べてみます」
チョコレートを口に放り込む。最初に果実のような酸味とエステル臭が鼻に抜けた。そのあと甘味と舌にまとわりつく苦味が感じられた。ジンを口に含むと、杜松果のほろ苦いかおりとアルコール分ですうっとチョコレートのあと味が洗い流される。うん、この組み合わせは悪くないかもしれない。
セイジがジンを一口飲み、グラスを置く。俺も左手のグラスを置くと、テーブルの上のセイジの右手を取った。セイジが驚いた顔でこちらを見る。両手で彼の手を包み込むと、その冷たさが伝わってきた。
「酒飲んでるのに、冷たいよね」
何も言わない。右手の上に彼の右手を置き、左手で包み込むようになでる。
恋人たちの手を何より愛するセイジだが、彼自身、美しい手の持ち主だ。無頓着な俺と違い、彼はきちんと手入れもする。仕事がら水仕事が多く荒れがちなはずだが、仕事終わりや就寝前にこまめにクリームを塗り込むおかげで、その白い手は俺の手なんかよりもよほどしっとりとした艶の良さを誇っている。指は俺より力強い。やや大きめの楕円形の爪はいつでも清潔に切りそろえられ、つやつやと桜色にかがやいている。骨格のしっかりとした大きめの手が、骨が透けて見えそうながっしりとした前腕に繋がるさまを、いまさらながらまぶしく見つめる。
「セイジは俺たちの手を美しいって言うけれど、セイジの手こそ、美しいんじゃない? 俺はおまえの手、大好きだよ。おまえの声の次に、好き」
そう言いながら手の甲を、指を、指先を丹念になぞる。一滴また一滴とグラスの中に溜まっていくしずくがついに表面張力を破ってグラスの壁面を滑り落ちるように、セイジが声を震わせた。
「手の美しさは、動的なものなんです」
顔が青ざめて見える。
「ぼくは手の造形そのものも好きですが、それ以上に、その動きに魅了されるんです。ヨシアキのまれをなでる手の艶めかしい動き、カードを配るときの、ティーカップを持つときの蠱惑的な動きに頭がしびれるほどの衝撃を受けました。
――トキワの手はきみの手とはまた別の魅力がありました。鍛え抜かれた手はその動きで滔々と言葉を紡ぎ出しました。トキワは――きみも知っているでしょうが――しゃべることを苦手としています。口を開くたびに、ぼくを煽り、突き刺し、叩きのめしました。でも、あの手は優しく穏やかに理知的に、ぼくにささやきかけてくれたんです。あの手が、あの素晴らしい音楽を生み出す手が、ぼくは好きでした」
潤んだセイジの目を見ながら、俺は彼の右手をなで続ける。ゆっくりと、融け合おうとするかのように。
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