【19.ジンとチョコレート】 二〇一九年九月

第26話 ヨシアキ

 カレンダーから八月を破り取りながら、ため息をついた。九月一日、日曜日。今年も残すところ、あと四か月だ。早い。子供のころは一日がもっと長かった。一か月なんて気が遠くなるくらい長く、一年は永遠と同じ言葉に思えた。そう、セイジに高校生になるまで一年間よく考えてごらんと言われたあの日、真っ先に拒絶の二文字を思い浮かべたのはそういうことだ。すでに大学生だったセイジとは、時の流れる速度が異なっていたのだろう。


 今朝早く、スマホの通知音が鳴った。もともと朝は弱いのに加え、昨晩はヒワダ研の紅丸と技官のアキヨシと一緒に真夜中過ぎまで飲んでいたので、ほとんど目は開かず頭は回っていない。それでも朦朧としながらスマホを取り上げメッセージを確認したのは職業病かもしれない。貧乏大学では分析装置は学生の数に対して圧倒的に少なく、常に争奪戦だ。学生の頃は俺だってしょっちゅう夜間にひとりで分析せざるをえず、そんなときに装置が不調になると泣きそうになっていた。だから学生から装置のトラブル相談があれば、金曜の夜以外は、夜中であろうと早朝であろうとできるだけ対応してやろうと心掛けている。


【コンパルです。今日少しお話できませんか】

【ねむい】

【今じゃないです。お昼、一緒に食べましょう?】

【ひるにきて】

【わかりました】

【十二時にうかがいます】


 朝――休日の俺にとって朝とは八時以降だ――目が覚めてからスマホのメッセージを見直して青くなった。俺、何書いたんだ? 【昼に来て】? 今から部屋を掃除するの? 冗談だろ、間に合わねえよ。あ、いや、部屋の前で落ち合って、どこかに飯を食いに行けばいいんだ。部屋に上がってもらう必要はない。そうだ、そうだ。ほっとしながら、とりあえずシャワーを浴びた。

 とはいえ、焦りながら見回したときに目に入った部屋の惨状に我ながらため息が出たので、濃い目に入れたコーヒーを飲むと、一念発起して片付けることにした。椅子の上に積み重ねていた汚れ物を洗濯機に入れ、床に散乱している本や雑誌や書類を拾い集める。テーブルの上の食器を洗い、ゴミをゴミ袋に放り込み、テーブルを拭く。換気をしながら念入りに掃除機をかける。九月に入ったとはいえ、いきなり涼しくなるはずもない。壁の温度計は午前十時にしてもう三十二度を超えた。ミンミンゼミがリズミカルに鳴いている。掃除機をかけるだけで額から汗が流れ落ちる。それでも、大きく開け放った窓からしっとりと水分を含んだ風が通り抜けると、たまらなく気持ちが良い。このまま二度寝したい。油断すると押し倒そうとしてくる眠気を追い払おうと、もう一杯コーヒーを飲んだ。あまり使っていないシンクをクレンザーで磨き上げると、見違えるほどきれいになった。気分が良い。ついでにトイレも掃除しよう。洗い終わった洗濯物を乾燥機に放り込み、トイレに向かった。

 トイレ掃除を終えると汗まみれになったので、もう一度シャワーを浴びた。パンツ一枚で、窓を開けたままのリビングに戻る。室温は三十四度を超えていた。扇風機を強にしてしばらくその前に坐り、体を冷やす。コンパルちゃん、何しに来るんだろう? 

 十一時四十分に最寄り駅に着いたとメッセージが入った。十二時四分にチャイムが鳴った。

「はいはい」

 財布と部屋の鍵をつかみながら玄関のドアを開くと、水色の帽子をかぶって赤い顔をしたコンパルちゃんが鼻の頭に汗を浮かべて立っていた。そうか、ちょうど陽射しがきつい時間帯だった。このアパートは最寄り駅から俺の足でも十分はかかる。申し訳なくなった。

「暑そうだな。あー、あの、ちょっと上がって涼むか? あんまりきれいじゃないけど?」

「いいんですか?」

「もう一度言うが、きれいじゃないぞ」

「はい」

 リビングにコンパルちゃんを通し、エアコンをつけた。キッチンから呼びかける。

「冷たいコーヒー、飲むか?」

「わあ、いただきます」

 氷の入ったグラスに朝作ったコーヒーの残りを注ぎ、リビングのテーブルの上に置いた。

「とりあえず、飲んで」

「ありがとうございます」

「で、話って、何よ?」

 コンパルちゃんはアイスコーヒーを半分ほど一気に飲み、はあ、と息をついた。青いタオルハンカチで額や首筋の汗をぬぐっている。暑かったんだろうな、それにしても、相変らず、気持ちよいほど遠慮がない。おかげで、ときどき、自分が彼女と同世代のような錯覚に陥る。

「ヤマシロさんのことです。昨日、おかしかったんです」

「おかしかった?」

「はい。夕食が、見事なジャガイモ尽くしでした」

「ジャガイモ尽くし? ジャガイモ? ああ、もしかして北海道?」

 先日のコンサートのプログラムに、トキワは帯広出身だと書いてあった。家はジャガイモ農家なのかもしれない。でも、土曜日の夕方、彼女が来るまでのあいだ、セイジはずっとトキワのことを考えていたのだろうか? これまでそんなことはなかった。金曜日はヨシアキに、土曜日はコンパルちゃんに集中し、ほかの曜日の恋人のことは考えなかったはずなのに。コンパルちゃんがぷいと顔をそむけた。

「夕食のあと、スオウさんとふたりでトキワさんのコンサートに行ったことを問いただされました。スオウさん、何も伝えてくれてなかったのですね」

 顔をそむけたまま、ちらりと不満げな流し目をよこす。

「そのあと、トキワさんと別れたとはっきりお聞きしたんです。今まで見たことのないヤマシロさんでした。とても落ち込んでいて、私には何もできないと瞬時に思い知らされました。何もできないことがもどかしくて、何とかできないかと思って、スオウさんなら、って考え付いたんです」

「それで朝の四時に俺にメッセージ? あのな、コンパルちゃん、きみだってセイジの恋人なんだ。俺に連絡する間があったら、その分セイジに向き合ってあげるべきじゃない? 

 前にも言ったように、『トキワを好きなセイジ』をコンパルちゃんや俺が癒すことはできないの。でも、土曜日のセイジはコンパルちゃんの恋人のセイジだ。コンパルちゃんを好きなセイジをコンパルちゃんがしっかり愛してあげることはできるでしょ? それでいいと思うんだよ」

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