【18.ジャガイモのフルコース】 二〇一九年八月三十一日(土)
第25話 コンパル
八月最後の土曜日、研究室にヒワダ先生と共同研究しているカナダ人の研究者がやって来てセミナーを行った。それが長引き、私は少し遅れてヤマシロさんの家に行った。
夜七時前にクリーム色の店の前に着くと、茶房カフカの灯りは落ちていた。ヤマシロ家の玄関チャイムを鳴らすと、すぐにかっぽう着姿のヤマシロさんが扉を開いてくれた。
「すみません、遅くなりました」
「いえ、夕食の準備ができるまで、まだしばらくかかります。汗をかいたでしょう? 良ければ先にお風呂をどうぞ」
おいしそうなかおりがする。私は靴を脱ぎながら尋ねる。
「今日のメニューはなんですか?」
「ジャガイモです」
「ジャガイモ?」
バスルームから出て何気なく目を向けたテーブルを私は二度見した。こんがり揚がったコロッケの皿には素揚げされた茶色いジャガイモと白いこふきイモが添えられている。鉢には千切りジャガイモと人参とハムのサラダ。小鉢にはジャガイモと茄子とオクラの含め煮。小鍋の中で湯気を上げているのはジャガイモのポタージュに見える。ヤマシロさんが今作っているのは、甘辛いいももちのようだ。
「――ヤマシロさん?」
「なんですか?」
思い余って声をかけてしまったが、ヤマシロさんはにこやかに、いたって普通の様子で返してくる。
「あの、何かありましたか?」
「いえ? 何もないですよ?」
食事は美味しかった。ヤマシロさんは料理上手なのだ。奇妙なジャガイモ尽くしもヤマシロさんの手に掛かればジャガイモの絶品フルコースになる。
洗い物を済ませ、キッチンがきれいに片付くと、私はいつものようにテーブルの上にパソコンを出した。その右横にA4の入力原稿を数枚並べる。PCの電源を入れソフトを立ち上げていると、ヤマシロさんが温かいジャスミン茶を入れてくれた。私の向かいに坐る。入力を始めようとすると、ジャスミン茶を一口飲んだヤマシロさんが「少し良いですか」と私を止めた。
ヤマシロさんは戸惑った顔でこちらを見ている。視線が揺らぐ。
「トキワと、会ったんですね」
「え……」
「隠さなくていいんですよ。トキワ本人から聞いています。きみとヨシアキが二人で会っているところにばったり出くわしてしまったと」
「――その言葉には語弊があります。ヨシアキさん――いえ、スオウさんって呼ばせてください――とトキワさんのコンサートを聞きに行ったんです。そのあと昼食を食べていた喫茶店にトキワさんが偶然いらっしゃったんです」
ヤマシロさんがうろたえた。
「待って、スオウ? 一緒にコンサート? きみはヨシアキと面識があるだけでなく、名前で呼ぶほど親密なのですか? そして、ふたりでトキワのコンサートに?」
ため息をつきたくなった。
「はい。あのう、スオウさんからは何もお聞きじゃないんですね?」
「ヨシアキからは何も」
スオウさんらしいと思った。あの人は、相手が誰であれ、動揺させるようなことは言わない。とはいえ、できることなら私との関係は折をみて伝えておいてもらいたかった。口の堅いスオウさんが今は恨めしい。
「スオウさんは私が通う大学の技官さんです。ラボでとてもお世話になっています。技官はヨシアキさんとアキヨシさんがいて紛らわしいので、学生はみんな、スオウさん、ワタルさんと名前で呼んでいるのです。学食に一緒にお昼を食べに行くこともありますし、研究室の飲み会でご一緒したこともあります」
ヤマシロさんは肩で大きく息をした。
「で、でも、きみは、Q大学の学生さんですよね? ヨシアキが勤務しているのはA大学だったはずですが」
「はい。所属はQ大学です。でも、卒業研究はA大学のヒワダ研でやっているんです。そのラボの装置管理を担当しているのがスオウさんだったわけです」
ヤマシロさんが肩を落とした。私は小さな声で尋ねた。
「ヤマシロさん、私がスオウさんと交流するのって、良くなかったですか?」
「いいえ、そんなことはないです。ただ、きみたちがそんなに仲良くしていることはまったく予期していなかったので、びっくりしただけです」
疲れたような笑みを浮かべてそう答え、口をつぐんでしまった。
「ヤマシロさん、少ししゃべっても大丈夫ですか?」
目を伏せてうなずいた。
「トキワさんと、何かあったんですね?」
ヤマシロさんは目を伏せたまま動かない。私も動くことができず、ヤマシロさんの肩がときおり震えながらわずかに上下するのを見ていた。
「――きみが来る二時間ほど前にトキワがやって来て、別れを言い渡されました。きみの来るのが遅れていなければ、その場を目にすることになったでしょうね。お互い、そうするしかないんだろうと納得ずくでの別れです――いや、違う、ぼくにとっては、いまだに割り切れない。
ぼくはトキワを愛していて、ずっと、これまでどおりの関係を続けていきたかった。でも、そう望んでいたのはぼくだけだったようですね。
トキワの言葉は演奏のように繊細ではなく、視線は演奏のように温かではありませんでした。むしろ真逆です。繊細で温かなものを懸命に生み出した残りがトキワ自身となっているんじゃないか、そう思ってしまいました」
私は黙っていた。目を合わせず、うなずきもせず。これは私に語っているんじゃない。ヤマシロさんは自分の中のトキワさんに語り掛けているのだ。
「いつも、苦しんでいるように見えました。その苦しさをぼくにぶつけ、消費してしまった繊細で温かなものをぼくから吸い上げようとあえいでいたのかもしれません。トキワにとって演奏は生きるすべてです。自分の体から音楽という果実を惜しみなく生み出しつつ、疲弊した体を涵養してくれる肥沃な大地を求めていたのですね。
ぼくは十分に応えることができませんでした。この先もそれができる見込みはなく、トキワはぼくを見限ったのでしょう」
他の恋人との絆について、ふたりで過ごした時間について、これまでヤマシロさんが私に話して聞かせることはなかった。たぶんスオウさんやトキワさんに対しても同じだろう。聞いてはいけない、そう思った。私はそっと立ち上がると、窓辺に行った。
「水曜日の夜にトキワの部屋に行くと、ぼくは食事を作り、一緒に食べました。トキワはもくもくと食べることが多いのですが、たまに、堰を切ったようにしゃべることがありました。そんな時にぼくが口をはさむと、大抵話がこじれます。だから、トキワが話したいことをすべて吐き出し終えるまで、ぼくはただ、うなずきながら聞くんです。そんなときにも、その手は美しく動きます。わなわなと震えるような右手、もどかしさに握り締められる左手、見えない何かを糾弾するような、引きずり降ろそうとするかのような、そんな仕草にも、ぼくはうっとりしました。あの饒舌な手がぼくは好きでした。その手が生み出す豊かな音楽がぼくは好きでした」
ヤマシロさんは眠る前にシャワーを浴びに行き、私はぼんやりと回想していた。うつむいて体をこわばらせたヤマシロさん。波打つ黒と白の髪の毛も、こけた頬も、長い手足も、すべてが凍てついてしまったかのようだった。トキワさんを好きなヤマシロさんはスオウさんや私の前に現れることはない。たったひとり、これまで向き合ってきたのがトキワさんなのだ。そのただひとりを失った今、彼は文字どおりひとりぼっちだ。ヤマシロさんはこの喪失感とどう向き合っていくのだろう? どうやって癒していくのだろう? 誰とも思いを共有せず、ひたすら押し隠し、消えていくのを見つめるのは、苦しいことだろう。「誰かの灯となるような生き方なんて、ぼくには考えられません。マイノリティは前向きでなくてはならないの? ぼくは弱さを抱きしめながら、わがままに、グロテスクに生きていきます」
重苦しさを断ち切ろうと首を振り、立ち上がった。着替えよう。私物入れとして使わせてもらっている衣装ケースを探っていると、見覚えのない何かが、パジャマ代わりのトレーナーの間に押し込まれているのに気づいた。怪訝に思い引っ張り出してみると、それは丸めた赤いハンカチーフだった。どきりとした。急いで開くと、薄墨に緑と赤をとろりとにじませたような黒蝶真珠のラペルピンが転がり落ちた。
間違いない。これはトキワさんのものだ。コンサートのときに身につけていたのを覚えている。でも、どうしてここに? ヤマシロさんからの贈り物で、別れるにあたりヤマシロさんに突き返したとか? いや、だとしてもヤマシロさんが私の衣装ケースに入れるはずはない。となると、ここに入れたのはトキワさんだ。何のために? ラペルピンとハンカチーフは私の胸の底にぽとりと落ち、そこから不安とも期待ともつかぬ波紋が胸いっぱいに広がっていくのを感じた。
ヤマシロさんの気配がした。慌ててピンをハンカチーフに包み直し、気づかれないよう、衣装ケースの奥深くにしまい込んだ。
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