第24話 コンパル

 そのとき、扉が開く音がした。「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」

 途端に濃くなった雨のにおいとともに、かつ、かつ、かつと無機質な足音が近づいてきて、私の背後で止まった。スオウさんがちらりと目を向け、ぎこちなくそらす。どうしたんだろうと思う間もなく、声が降ってきた。

「なんで、ここにいる」

 びくりとして振り向くと、そこにいたのはトキワさんだった。私とは目を合わせず、スオウさんをにらんでいる。その目はコンサートで見た情感豊かな眼差しではなく、底の見えない沼のようだった。無表情に口を開く。

「何しに来た」

 動転してスオウさんを見た。スオウさんは私を目でなだめると、あいまいな笑みを浮かべてため息をつき、ゆっくりと私の背後に目をやる。

「コンサート、お疲れさま。――まあ、坐ったら?」

 そう言いながら自分の皿を押しやると立ち上がり、私の隣に移動した。トキワさんはしばらく動かなかったが、スオウさんの「店の邪魔になるから」に促され、私たちの向かいに坐った。その瞬間、冷たい炎のようなにおいがした。透きとおった深紅のにおい。

 濃紺のTシャツの上に灰色の麻のジャケットをはおったトキワさんは、スオウさんよりはるかにおしゃれだった――と後で言ったらスオウさんは口をとがらせた。ウインナーコーヒーを注文すると、私を一瞥して、じろりとスオウさんをねめつけた。スオウさんが肩をすくめ、口を開く。

「お疲れさま。やっぱりクラシックもいいな。自分の手であの音の世界を生み出せるって、どんな気分なんだろうって思ったよ」

 トキワさんがスオウさんに胡乱な目を向ける。この人の視線は粘度も比重も大きい。一度絡みつかれると、逃れられなさそうだ。

「セイジには声かけなかったの? あいつ、喜んだだろうに」

 スオウさんがそっと口にした言葉にトキワさんの顔が引きつった。頭をもたげ、私たちを見下す。

「そっちって、三人目?」

 私を顎で指しながらスオウさんに投げつけた声は上ずっていた。スオウさんが嫌そうな顔になる。トキワさんは構わず続ける。

「おまえら、ふたりでデート? おかしくない? それとも、三人まとめて、そういう関係なの?」

 スオウさんの表情がすっと冷たくなったように思えた。

「なあ、止めろよ、そういう言い方」

「キモ」

 そう吐き捨てると、トキワさんは運ばれてきたウインナーコーヒーを口元に運んだ。カップを置くと、窓の外に目をやった。相変らず雨が降り続いている。銀色にけむるような雨。流れる霧のような雨。

 気づくと問いかけていた。

「トキワさんは、なぜヤナーチェクの『霧の中で』を演奏されたんですか? 今日のプログラムの中で、あの曲だけが異質な気がしました。それまで三つの楽器の音が絡まり合いながら、絶えず誰かに先導されて、しっかりと目的に向かっていたのに、突然、行先を見失ったようでした。濃い霧が何もかもをすっぽりと飲み込み、私は絶望しながらその霧の中をさまよっているような気持ちになりました」

 トキワさんは一瞬私をさげすんだ目で見たが、すぐに顔をそむけると、鼻で笑った。

「チェコでは頻繁に霧がかかる――でもこの曲の光景は景色全体がすっぽりと包まれるんじゃない。うねる平原や森に、ひと刷き、またひと刷きと霧がたなびくんだ。霧から抜け出たと思ったら、また霧の中へ。『霧の中で』という曲名の『霧』は複数形だ」

 少し掠れた声でそう吐き捨てるとコーヒーを飲み、スオウさんを見た。

「何しに来た」

 スオウさんが答えた。

「おまえの演奏を聞いてみたかった。顔を合わせるのは気乗りしないが、演奏には興味があった」

「どういう意味だ?」

「俺には芸術はわからない。でも、技術者だからな。誰もが持つシンプルな道具を使って、常人の想像を超える素晴らしいものが創り出されると聞いたら、がぜん興味がわく。しかも、その道具が自分そっくりな手だと聞けばなおさらだ。作り出されたものを精査し、作り出す道具をつぶさに調べ、精緻な技巧を単純な動きに分解してみたくなる。どこにどの技術が効くのか、何がその技術を支えているのか、道具の手入れ法は、改良の余地は、別の技術導入の可能性は、なんてことを考えるのが面白い」

「ふん」

 トキワさんが鼻を鳴らしてコーヒーを飲む。スオウさんの答えに興味がわいたのだろうか。とげとげしかった空気が少しだけ和らいだように思えた。そっと口をはさんでみた。

「私はガラス細工と似ているって思いました」

 その言葉にトキワさんが眉を寄せて私を見る。

「は?」

「私もピアノ演奏はよくわかりません。演奏の技術や芸術性についても、さっぱりです。でも、あの『霧の中で』を聞いたとき、今、スオウさんに教わっているガラス細工と似ていると思ったんです。

 メロディを構成するひとつひとつの音はくっきりと独立し、それぞれが胸を破るほど重い世界を作り出していました。でも、同時にその連なりは絡み合い、立体的にもつれ合い、曖昧模糊とした悪夢へと膨れ上がっていきました。

 ガラス細工もひとつひとつの素過程を完全に仕上げることがポイントなんです。その積み重ねで、素過程からは想像もつかない、複雑で美しい装置が出来上がります。美しさは強さです。綺麗に出来上がっていればいるほど、物理的な耐久性が高いので。だからガラス細工で実験器具を作る人たちは美を追求し、その美とは、とりもなおさず各素過程の完璧さなんです」

 トキワさんは何も答えず、コーヒーを飲む。窓の外の雨がやや強さを増した。軒からしずくが、ぽた、ぽたと落ちてリズムを刻んでいる。私の言葉は行き先を失い、三人のあいだで渦を巻き、窓ガラスをすり抜けて暗い空をのぼっていく。

 コーヒーを飲み終えたトキワさんが財布からお金を取り出してテーブルの上に置いた。カバンを手にもう立ち上がっている。

「じゃ」

 スオウさんが大きなため息をついた。

「おまえ、ここになんか用事があって来たんだろ? 俺らに会いに来たわけじゃないんだろ?」

「――昼食を食べにきた」

「じゃあ食べて行けばいいだろ。坐れよ」

「冗談を」

 ひとこと投げつけると、振り返りもせず、足早に出て行った。スオウさんがほうっと息を吐いた。

「コンパルちゃん、大丈夫?」

「何がです?」

「あいつの毒にあてられてない?」

「平気です。スオウさんは、辛いんですか?」

「いや、まあ、今のところはなんとか」

「繊細なんですね」

「――きみ、そうとう肝が据わってるな。あ、でも、な、きみがガラス細工のこと、そんなふうにとらえてくれてるって、思いもよらなかった。すごく、嬉しかった」

 スオウさんの顔が赤い。今日何度目だろう。

「自分の実験道具をガラス細工でいちから作るなんて効率の悪いこと、もう、はやらないんだ。でも、俺たち古い人間にとっちゃあ、なんとなく、寂しいんだよな」

 そう言うと、残っていたチョコレートケーキを口に入れた。

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