第20話 コンパル
金曜日は、ヒワダ研のみんなが朝からそわそわしていた。午後二時ごろから本格的に準備を始めた。勝手にビアガーデン案を変更したお詫びということでヒワダ先生が弾んでくださった軍資金を手に、車を出せる人数名が意気揚々とビールや各種アルコールにソフトドリンク、つまみいろいろを買い出しに行き、残りのメンバーで学生部屋を掃除した。
四時五分前にやって来たスオウさんは、学生部屋のテーブルの上にずらりと並べられたビールや日本酒や焼酎、それに寿司やピザやスナック菓子を見て、嬉しそうに顔をほころばせた。
「壮観ですねえ、これは。今年の学生さんは、よく飲むんですか?
そう言いながら、ワインを一本、ヒワダ先生に手渡した。ワイン好きの修士一年の緑山さんと桃園さんが目を輝かせてのぞきこんでいる。
「あら、差し入れなんて、かえって気を遣わせてしまいましたね。ありがとうございます。今年の四年生は、飲みますよ。黒田くんも、赤嶺くんもよく飲んでるみたいだし、藍川さんやコンパルさんも、いける口ですから」
そこに博士二年の青木さんと博士五年の紅丸さんがやって来て、スオウさんを見て頭を下げた。准教授の茶山先生もにこにこしながらやって来た。それぞれ、缶ビールや酎ハイを手に取り、適当な席に陣取ってプルタブを開ける。スオウさんはビールの缶を手に、当たり前のように私の隣に坐る。その隣にヒワダ先生が来て、ビールのプルタブを開け、左手のグラスに注いだ。
「みなさん、手元に飲み物ありますね? はい、では、また暑い季節がやってきましたが、事故に気を付けてうまく乗り切りましょうね。乾杯!」
ヒワダ先生のなんともあっさりとした乾杯の音頭に続けて皆が飲み物の缶を掲げ、飲み会は和やかに始まった。
スオウさんはくいくいとビールを飲む。ペットボトルのコーヒーを飲むときより、すんなり喉を通っているんじゃないかと思えるほどだ。ヒワダ先生が目を細める。
「相変わらず、気持ちの良い飲みっぷりですね、ヨシアキさん。ビアガーデンに連れて行きたかったわねえ」
向かいにいた黒田くんがさっそくお寿司に手を伸ばしながら聞いた。
「スオウさん、強いんですね。お酒、何が一番好きなんですか?」
「そうね、ビールが一番かな? 日本酒とワインは、まあまあ。蒸留酒系はウイスキー以外、好きだよ」
「ウイスキー、なんで嫌いなんですか?」
「においがどうもね」
ヒワダ先生が口を挟んだ。
「そうそう、以前いただいたサクランボのお酒、あれ、おいしかったですよ。ねえ、紅丸くん、青木くん。たしか、青木くんの結婚祝いをラボでやったとき、みんなで飲んだのよね?」
紅丸さんと青木さんがうなずき、青木さんが照れくさそうに笑った。
「俺も、あれ好きでした。冷凍庫で冷やして、そのままショットグラスで飲むんですよね? チェコのお酒でしたっけ?」
私はどきりとした。スオウさんが朗らかにしゃべる。
「おう、チェコだよ。あの国、果物の蒸留酒がいろいろあって、面白いぞ」
ヒワダ先生がほほえんだ。
「どんな種類があるんです?」
スオウさんは一缶目のビールを飲み干し、すかさず二缶目を差し出すヒワダ先生に頭を下げて受け取りながら言った。
「俺が飲んだことがあるのは、プラム、洋ナシ、サクランボの蒸留酒ですね。それぞれ、スリヴォヴィツェ、フルシュコヴィツェ、トシェシュニョヴィツェという酒になります」
ヒワダ先生が感心したようにつぶやく。
「チェコって興味深い国ですわね――」
お寿司を頬ばった黒田くんが目を輝かせる。
「なんですか、それ? 甘いんですか? サクランボの味なんですか? 俺も飲んでみたい」
「これが甘くないの。蒸留酒だからな。でも、冷凍庫でよく冷やすと、少しだけ原料の果物の甘いかおりがする。また機会があったら持ってくるよ。みんなで飲み会やろう」
「ぜひぜひ! でも、そんなお酒、どこで見つけてくるんですか?」
スオウさんはにこにこしながら気さくにしゃべる。
「ん? 俺の相棒が仕入れてくるの。チェコの雑貨や酒の輸入を手掛けてるからな」
興味を引かれた黒田くんや藍川さんがチェコについて尋ね、スオウさんはビールをぐいぐい飲みながら、答えていた。私はどきどきしながらスオウさんを見ていた。ふとスオウさんがこちらを見た。
「コンパルちゃん、飲んでる? ぜんぜん進んでないんじゃない? ビール嫌いだった? 日本酒? ワイン? 焼酎?」
「あ、いえ、ビールが好きです。飲んでますよ。スオウさんほどは飲めないだけです」
「そうかあ?」
すでに赤い顔をした白岩さんがいつもよりちょっと大きな声で割って入る。
「スオウさん、コンパルさんにガラス細工、マンツーマンで教えてるんでしょ? 彼女、どうです?」
私をちらりと見ながら、スオウさんは三缶目を開ける。
「筋がいいぞ。教えがいがある。ちなみに、こないだお前が欠かしたビーカーの注ぎ口、丸めて整形したの、コンパルちゃんよ」
「ええ、まじですか?」
「おまえも博士課程に行くんだったらさあ、少しはいらんことにも、手え出せよ? エリートの純粋培養は、いざというときにつぶしがきかないぞ?」
白岩さんが苦笑しながらビールを飲みほした。ヒワダ研の長老こと紅丸さんがよく響くバリトンで聞いた。
「スオウさーん、このワイン、開けてもいーい?」
ピーナッツをかじりながらスオウさんが、「おう、開け、開け」と答える。日本酒を手酌でグラスに注いでいたヒワダ先生がスオウさんに尋ねた。
「あのワイン、綺麗なラベルですね。どこのです?」
「ああ、あれもチェコの、モラヴィアワインです」
ヒワダ先生が眉を寄せた。
「まあ、またそんな貴重なものを。パートナーさんからなんでしょ? いいんですか?」
パートナーという意味深な言い回しに、思わずヒワダ先生を振り返った。隣のスオウさんが私の頭をぱこんとはたき、ぱりぱりとピーナツをかみ砕く。
「いや、俺、ワインはどうも、苦手なんですよね。こういう時にみんなで飲むのがちょうどいいんです。おーい、おまえら、それ気に入ったら、買ってやってな。C町のモールの中のリカーショップで売ってるからな。品質はお墨付き、ちょっと差をつけたいときの贈り物にぴったりよ」
はいはーいと返事をしながら紅丸さんがくいっと飲む。紅丸さんから注いでもらった桃園さんと緑山さんが顔を見合わせ、美味しいと笑う。それを見ていた黒田くんもボトルを奪ってグラスに注ぎ、一口飲むと、お、と目を見開く。
「スオウさん、うまいです、これ。スオウさんの奥さんって、ワインも輸入してるんですね」
「うん。奥さんじゃなくて相棒な。俺、ゲイだから」
一瞬、黒田くんが言葉に詰まり、その隣で赤嶺くんが目をぱちぱちさせながらスオウさんを見る。藍川さんがおずおずとスオウさんに目を向ける。でも、他の人は平然と飲んだり食べたりしている。ヒワダ先生が鷹揚におっしゃった。
「よかったら今度、パートナーさんも飲み会にお誘いしましょう。そうしたら、ヨシアキさん、気兼ねなく飲めるんじゃない? あ、それとも、パートナーさんは、お酒嫌いなの?」
スオウさんは四本目のビールを飲み始めている。
「いえいえ、飲みますよ、あいつもビールは大好きですね、なんたって、チェコ関係の仕事をしてるくらいですから」
「ふふ、チェコはドイツをはるかに凌ぐビールの国でしたわね? それなら、ちょうど良いでしょう? 青木くんの奥さんとか、白岩くんの彼女とか、藍川さんの彼氏も誘って、わいわいやるのも楽しそうね」
「そのときには、ヒワダ先生の息子さんも誘いましょうね? 確か、もう二十歳でしたよね?」
「ええ、今年二十歳になりました。もう、あれから十二年です。じゃあ、先の話になりますけど、忘年会は、親しい人たちにも声がけして、ここでちょっと贅沢な鍋でもやりましょう」
白岩さんが真っ赤な顔にとろんとした目で、なんかカオスですよね、でも楽しそう、と笑った。
五時三分前になると、スオウさんはさりげなく自分の飲んだ空き缶とおつまみの紙皿を片付け、五時ぴったりににこやかに出て行った。最後まで、まったく酔ったようには見えなかった。ガラス細工の、ため息が出るほどの手腕同様、鮮やかな去り際だった。
黒田くんがぽつりとつぶやく。
「あの人、ゲイだったんですか?」
ヒワダ先生が、そうよ、とほほえむ。
「ヨシアキさん、あっけらかんと言ってくれるから、気楽でしょ? うちが十二年前にすったもんだで離婚した時にも、ヨシアキさんには話しやすかったのよね」
「俺、あの人、コンパルさん狙いのロリコンだと思ってました」
少々酔っていたこともあり、慌てた。
「わ、私?」
白岩さんが眠そうな顔で黒田くんと私を見て笑っている。いつもより遠慮のない大声で言う。
「おい、黒田、ロリコンって、ひどくね?」
「だって、コンパルさん、うちの妹の友達って言われても、俺信じるし」
「おまえの妹って、いくつよ?」
「中二」
「ああ、それは犯罪だな」
「でしょ?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、私は中二じゃないですからね?」
「コンパルさん、いくつよ?」
「二十一です」
「お、じゃあ、セーフじゃん。よかったな」
「はい。――いや、そうじゃなくて――」
「まあまあ、この話はもうやめよう。まだ五時過ぎでしょ、ゆっくり飲もう。ほら、コンパルさんも」
白岩さんがビールを手渡してくれた。顔をしかめてタブを引き上げると、プシュンと気の抜けた音がした。
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