【15.果物の蒸留酒】 二〇一九年七月

第19話 コンパル

 七月末の週末、ヒワダ研で飲み会が企画された。毎年恒例の暑気払いだそうだ。今年は大通りのビアガーデンが第一候補に挙がった。参加者の人数を確認しようとしていると、ヒワダ先生が思い出したようにおっしゃった。

「そうだ、ヨシアキさんも誘ってくださいね。今年度に入ってここ数か月、ヨシアキさんにお世話になりっぱなしですから、彼の慰労も兼ねましょう」

 コンパ係の黒田くんが私の方を見た。

「じゃあ、コンパルさん、一緒に来てよ」

 突然名指しされて、どきりとする。

「え、私? あの、どうして……」

「コンパルさん、スオウさんと仲いいじゃん? あ、それに、ガラス細工の弟子なんだろ? 個人的にも相当お世話になってんじゃん? 俺だけじゃなくて、きみからも頼むべきだ」

「ガラス細工は、たしかにそうだけど……」

「じゃ、行こう」

 よくわからない理屈で言いくるめられ、私は黒田くんの後ろについて技官室へと行った。


 技官室にスオウさんはおらず、ワタルさん――アキヨシワタルさん――がひとりで本を読んでいた。黒田くんがためらいなく部屋に踏み込み、大声で尋ねる。

「こんにちは! ワタルさん、スオウさんは?」

 ワタルさんが本から目を上げた。

「よう、クラッシャー黒田。今度は何やらかした?」

「ちょ、ひどくないですか? 違いますよ。今日は、まだ、何も壊してないです。で、スオウさんは?」

「工作室だと思うわ」

「ありがとうございます」


 隣棟への通路の窓から外を見ると、雨が降り始めていた。梅雨明けして初めての雨だ。返り梅雨のような柔らかな雨が静かに降りしきっている。灰色の空は黄みがかり、奇妙にコントラストのはっきりとした景色は古い写真のように見えた。

 工作室の扉ののぞき窓から、中をそっと覗きこむ。ガラス細工用の黒いサングラスをかけたスオウさんは、定位置であるガスバーナーの前に坐り、軽く眉を寄せて、30ミリ管の細工を始めようとしていた。

「あ、これは大物を作り始めたところだ。声をかけられるようになるのに、少し時間かかるね。十分かな」

 そう言うと、黒田くんが「げー」と顔をくもらせた。

「そうなの? 俺、あんまり時間ないんだよね。コンパルさん、悪いけど、声かけといてもらえない?」

 私は黒田くんの顔を見た。すまなそうな顔をしつつ、両手を合わせてくる。

「次の授業、出席取るんだわ。俺、あれ、二回落としていて、今回落としたら、卒業やばいんだ」

 その姿があまりに必死に見えて、苦笑しながらうなずいた。

「分かった。声をかけるだけでいいなら、かけておく」

「ありがとう!」

 そう言うと黒田くんは飛び跳ねるように走っていった。

 私はのぞき窓から炎の中でガラス管を回し続けるスオウさんを見つめる。まるで静止しているかのように、その回転軸はぶれない。熱されている部分がまばゆく輝きはじめる。溶けたガラスがほどよくたまったところで炎から引き出し、左右に引くと、溶けた箇所がすうっと伸びて、30ミリ管の中央は細管になった。

 この「ため」具合と、引き延ばし速度の加減が難しいのだ。一歩間違うと、ガラスの厚みが薄くなりすぎて脆くなり、使用に耐えなくなる。スオウさんの妙技に、ためいきをついた。

 その細管部分を再び加熱して切り離し、二本の丸底管にした。一本の丸底に細くて強い炎を当て、開放端から息を吹き込む。溶けたガラスが風船のようにぷくりと膨れると、先端をピンセットで割り取って小さな穴を開けた。そこに穴よりわずかに大きな節を作っておいた10ミリ管を差し込んでいき、節がひっかったところで溶接する。30ミリ管のなかに10ミリ管が突き通ったパーツができた。それから、30ミリ管の、今度は側面に穴を吹き開けて、別の10ミリ管を溶接した。幹から出た枝のような形だ。最後に30ミリ管の開放端を熱して閉じて丸底にする。なるほど、これはスオウさんから聞いた、トラップ管というもののようだ。

 そこまで出来上がると、スオウさんはバーナーの酸素を閉じ、ガスだけの低温の炎にして、アニーリングを始めた。数分間、念入りにあぶると、耐火机の上に出来上がったものをそっと置き、すぐにもうひとつの丸底管も同じ手順でトラップ管にした。ふたつめのアニーリングが終わると、私はノックをし、扉を開けた。

「スオウさん、入ってもいいですか?」

 引き結ばれた口がこちらを振り向く。サングラスを外すと、途端に人懐っこい笑顔がこぼれだした。

「お、コンパルちゃんか。もちろん、どうぞ。ん? 何壊したの?」

「壊してません。あの、来週の金曜日なんですけど――」

「――金曜日がなに?」

「ヒワダ研の暑気払いがあるんです。ビアガーデンの予定です。スオウさんにここしばらくお世話になりっきりだから、慰労会もしたいので、誘って欲しいとヒワダ先生から――」

 スオウさんは高校生のような爽やかな笑顔を浮かべつつ、右手を上げて私の言葉を制した。

「金曜日は、無理、です」

 私も意味もなく満面の笑みを浮かべて応じる。

「ですよね、そう伝えます」

「よろしくねえ」


 ヒワダ研の学生部屋に戻ると、ちょうどヒワダ先生がいたので、そのまま伝えた。先生が駄々っ子のような顔になった。

「もう、ヨシアキさん、付き合い悪いわねえ。ねえ、コンパルさん、四時から五時までこの部屋で、だったらどうかって、もう一度聞いてきてくれない?」

 え、スオウさんに参加してもらうだけのために、ビアガーデンを止めちゃっていいのかな? とても気になったのだけれど、素直にもう一度工作室へと向かった。


「で、おめおめと戻ってきた、と」

 スオウさんがサングラスを外し、あきれたような声で言いながら、よく光る眼でじろりと私を見据えた。もう爽やかな高校生風は止めたらしい。でもそんな顔をされても困る。いったん口を閉じたあと、スオウさんはにっと笑った。

「そうね、四時から五時までできっかり終わるなら、いいよ。喜んで参加しますって、ヒワダ先生に伝えといて」

 あっさりとしたスオウさんの返事に拍子抜けした。

「――いいんですか?」

「いいって言ってるだろ。五時までなら、普段の仕事よりむしろ早上がりだし。俺のためにわざわざ場所を変えてくださって、しかも先生のお墨付きで仕事時間内に飲めるんなら、願ったり、叶ったりです」

 にっと笑うスオウさんの顔は明るく、屈託があるようには見えない。

「スオウさん、お酒好きなんですか?」

「好きよ。コンパルちゃんもだろ?」

「なんでそう思うんですか?」

「そういう顔をしてます」

「顔でわかるものですか?」

「顔に出てる人も、います。あ、コンパルちゃん、もちろん参加するよな?」

「はい」

「ふふ、きみと飲めるの、楽しみにしておくね」

 笑うスオウさんの目がきらきら光る。

 工作室の奥のガラス窓の外側を銀のしずくがするすると滑り落ちていた。

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